第1話 俺が魔王なわけないだろ
あれから、何年かが過ぎた。
ケイラス――家族からケイと呼ばれている少年は、十三歳になっていた。
幼い頃に抱いた夢は、今も捨てていない。
勇者になる。
魔王を倒し、困っている人を助け、いつか世界を救う。
子供なら一度くらいは口にしそうな夢だが、ケイの場合は少し違った。十三歳になった今でも、本気で勇者になるつもりだった。
村の外れにある小さな家。その裏庭には、ケイが自分で作った訓練用の杭が立っている。
毎朝それを木剣で叩き、村の周りを走り、腕立てをする。父親に頼んで薪割りまで手伝っているせいか、十三歳にしては身体つきもいい。
背は同年代の少年より少し高く、日に焼けた肌に短く切った黒髪。顔にはまだ幼さが残っているものの、目つきだけは妙に負けず嫌いだった。
もっとも、本人が思っているほど勇者らしい性格ではない。
短気で負けず嫌い。考えるより先に口が動き、腹が立つと後先を考えずに言い返す。
父親からは何度も、
「お前は剣より先に頭を鍛えろ」
と言われていた。
そのたびに、
「頭で魔物が倒せるかよ」
と言い返し、さらに怒られる。
そんな少年だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
「……よし」
ケイは自分の部屋のベッドへ横になった。
今日も朝から身体を動かしていたせいで、かなり疲れている。明日も早い。村の外を走って、そのあと木剣を振る予定だった。
「勇者になるなら、これくらいやらねえとな……」
誰に聞かせるでもなく呟き、毛布を胸まで引き上げる。
部屋は狭い。
ベッドと小さな机、椅子が一脚。壁には使い込んだ木剣が立てかけられ、棚には勇者について書かれた古い本が何冊か並んでいる。
窓の外には月が浮かび、青白い光が床を細長く照らしていた。
ベッド脇の小さなランタンには、まだ弱い火が残っている。
静かな夜だった。
ケイは目を閉じた。
明日は何回、剣を振ろう。
五百回。
いや、六百回くらいはやろう。
もう少し腕が太くなったら、父親に本物の剣を買ってもらえないだろうか。
「…………」
無理だ。
前にも頼んだ。
「十三のガキに真剣なんか持たせられるか」
それで終わりだった。
「……ちぇっ」
ケイは小さく舌打ちし、もう一度目を閉じた。
その時だった。
「――ようやく、お会いできました」
「…………」
ケイは目を開けた。
今。
誰かが喋った。
父親でも母親でもない。聞いたことのない、低く落ち着いた男の声だった。
「……誰?」
返事はない。
ケイは上半身を起こし、暗い部屋を見回した。
机。
椅子。
本棚。
窓。
見える範囲には誰もいない。
「…………幽霊?」
一瞬だけ、背筋が寒くなった。
だが、すぐに首を振る。
「いやいや。俺は勇者になるんだぞ。幽霊くらいで怖がってどうすんだよ」
そう言いながら、なぜか毛布を少しだけ引き上げた。
「…………」
怖いわけではない。
念のためだ。
しばらく待ってみたが、何も起こらない。
「……やっぱ気のせいか?」
ケイは少しだけ安心すると、ベッド脇のランタンへ手を伸ばした。
取っ手を掴んで持ち上げる。中では小さな火がゆらゆらと揺れていた。
ランタンを掲げ、暗い部屋を照らしていく。
机の下。
椅子の後ろ。
本棚の横。
誰もいない。
「ほら。何もいないじゃん」
自分に言い聞かせるように呟き、ランタンを下ろそうとした。
その時。
「こちらでございます」
「うわっ!?」
今度は、はっきりと部屋の隅から聞こえた。
ケイは慌ててランタンをそちらへ向ける。
橙色の光が、月明かりの届かない闇をゆっくり照らしていった。
最初に見えたのは、白い手袋だった。
続いて、磨き上げられた黒い革靴。
そして。
暗闇の中に、一人の老人が立っていることに気づいた。
「…………人?」
幽霊ではない。
ちゃんと足がある。
姿もはっきりしている。
六十を過ぎているように見える、背の高い老人だった。
こんな夜中に、見知らぬ老人が一人で自分の部屋に立っている。
「…………」
普通に考えれば、それはそれで十分怖い。
だがケイは、別の可能性を思いついた。
「もしかして……道に迷った?」
老人がわずかに首を傾げる。
「夜中だしさ。自分の家、分かんなくなったとか?」
「…………」
「だったら俺、送っていくけど」
ケイはランタンを持ったまま、ベッドから降りようとした。
「近所なら大体分かるし。家がどこか教えてくれれば――」
「お気遣い、ありがとうございます」
「うん」
「ですが、その必要はございません」
「……違うの?」
「はい」
老人は静かにケイを見つめた。
「私は道に迷ったわけではございません」
「じゃあ、なんで俺の部屋にいるんだよ」
「あなた様にお会いするために参りました」
「……俺に?」
「左様でございます」
そこで老人が一歩、ランタンの光の中へ出た。
背は高く、痩せている。白髪は綺麗に後ろへ撫でつけられ、顔には深い皺が刻まれていた。
だが腰は曲がっていない。
むしろ不自然なくらい姿勢がいい。
身につけているのは、仕立てのいい黒い燕尾服。白いシャツに白手袋、胸元には銀色の飾り。
どこからどう見ても、どこかの貴族に仕えていそうな執事だった。
ただし。
人間ではない。
額の左右から、黒く捻れた二本の角が生えていた。
そして老人が薄く目を開く。
その瞳は、赤かった。
「…………悪魔?」
ケイの口から自然とその言葉が漏れた。
老人は穏やかに微笑む。
「左様でございます」
「左様でございます、じゃねえよ!」
ケイはランタンをベッド脇へ置き、反射的に壁へ立てかけてあった木剣を掴んだ。
両手で構える。
心臓が一気に速くなる。
幽霊どころではない。
本物の悪魔が自分の部屋にいる。
「どうやって入った!」
「扉からではございません」
「じゃあ窓か!?」
「いえ」
「じゃあどこだよ!」
「魔界より直接」
「意味分かんねえよ!」
老人はまったく動じなかった。
ケイは木剣を構えたまま、じりじりと距離を取る。
「それで、悪魔が俺に何の用だよ」
老人は胸に手を当てると、深々と頭を下げた。
「申し遅れました」
「いや、まず勝手に人の部屋入ったこと謝れよ!」
「それで、悪魔が俺に何の用だよ」
ケイは木剣を構えたまま尋ねた。
老人は胸に手を当てると、深々と頭を下げる。
「では、改めて申し上げます」
「何を?」
老人はゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が、まっすぐケイを見る。
「ようやく、お会いできました」
「……だから、なんで俺に会いに来たんだよ」
老人は、あまりにも自然に告げた。
「魔王様」
「…………は?」




