プロローグ 勇者になりたい
「それでね、勇者は魔王を倒して、世界を救ったの」
幼いケイラスは、ベッドの上で目を輝かせていた。
窓の外はもう真っ暗だった。
小さな家の中にはランプの橙色の明かりが揺れ、母親が持つ古い本の影が壁に大きく伸びている。
ケイラス――家族からはケイと呼ばれている少年は、この時間が大好きだった。
寝る前に母親から聞かせてもらう、昔の勇者の物語。
魔物の大軍をたった一人で食い止めた勇者。
邪悪な竜から王女を救い出した勇者。
そして、世界を滅ぼそうとした恐ろしい魔王に立ち向かった勇者。
その勇者が老いた後には、その意志を受け継いだ孫が新たな勇者として剣を取り、再び人々を救ったのだという。
ケイは何度聞いても飽きなかった。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
本を閉じようとしていた母親を、ケイが呼び止める。
「魔王って、なんで世界を滅ぼそうとするの?」
母親の手が止まった。
「どうしてって?」
「だってさ」
ケイは布団から上半身を起こした。
「世界を滅ぼしたら、魔王だって困るでしょう?」
「まあ……そうねえ」
「家がなくなるし」
「なくなるでしょうね」
「ご飯も食べられなくなる」
「そうね」
「町もなくなるし、森もなくなるし、遊ぶところもなくなるし……」
ケイは指を折りながら、一つずつ数えていった。
そして最後には、心底理解できないという顔をした。
「じゃあ、魔王は世界を滅ぼしたあと、どうしたいの?」
母親は困ったように笑った。
「そこまで考えて昔話を聞いてる子、あなたくらいじゃないかしら」
「だって気になるんだよ」
「そうねえ……」
母親は閉じかけていた本を、もう一度開いた。
何ページかめくりながら、昔聞いた話を思い出すように言う。
「魔王はね、世界を自分のものにしたいわけじゃないそうよ」
「じゃあ何がしたいの?」
「全部、なくしたいの」
ケイの眉が寄った。
「全部?」
「人も、国も、森も、海も。嬉しいことも、悲しいことも。何もかも」
「なんで?」
「世界を――『無』に帰すため」
「む?」
聞き慣れない言葉に、ケイは首を傾げた。
「何もないってこと?」
「そうね」
「真っ暗?」
「暗いものすらないかもしれないわ」
「音も?」
「ない」
「母さんも?」
母親が少しだけ笑った。
「いないでしょうね」
「父さんも?」
「いない」
「僕も?」
「もちろん」
ケイは露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪じゃん」
母親は吹き出した。
「最悪?」
「だって誰もいないんでしょ? 他に何にもないんでしょ?」
「そうよ」
「そんなことの何がいいの」
「ケイには分からない?」
「全然分かんない」
即答だった。
母親は少し考えた。
そして、幼い息子にも分かるように言葉を選びながら話した。
「昔の人はね、魔王は『無という静寂』を求めているんだって考えたそうよ」
「静寂?」
「何も起こらない。誰も争わない。誰も悲しまない。誰も苦しまない。誰も何かを失うこともない」
母親は静かに続けた。
「全部をなくして、世界を静かな闇へ帰すの」
「でも、闇って怖いじゃん」
ケイは少し嫌そうな顔をした。
母親はそんな息子を見て、やさしく笑った。
「闇は、怖いだけのものじゃないのよ」
「そうなの?」
「ケイは寝る時、部屋をどうする?」
「暗くする」
「明るいままでも眠れる?」
「……寝にくい」
「でしょう?」
母親は窓の外を見た。
そこには月の光がわずかに差しているだけで、村の大半は静かな夜の中に沈んでいる。
「もし夜がなくて、一日中ずっと太陽が出ていたら?」
「ずっと?」
「ずっと」
ケイは想像してみた。
朝も。
昼も。
夜になっても。
窓の外には眩しい太陽。
「……寝られないかも」
「そうでしょうね」
「眩しいし」
「だからね。暗闇って、怖いだけじゃないの」
母親はケイの頭を撫でた。
「人が眠るための場所でもある。疲れた人が休んで、心を落ち着かせるための時間でもあるのよ」
「…………」
「昼間にいっぱい遊んで、いっぱい働いて、疲れたら夜が来るでしょう?」
「うん」
「そうしたら眠って、休んで、また次の日を迎える」
ケイは少し考えた。
「じゃあ……闇って休むためにあるの?」
「そういう一面もあるってことね」
「ふーん……」
「魔王が求めている『無』も、それに少し似ているのかもしれないわね」
「似てる?」
「そうね」
母親は少し考えてから、言葉を選んだ。
「起きていれば、楽しいことがあるでしょう?」
「ある!」
「嬉しいこともある」
「うん」
「もしかしたら、とても素晴らしいことに出会えるかもしれない」
ケイは頷いた。
「でもね」
母親の声が少しだけ静かになる。
「その反対もあるの」
「反対?」
「悲しいこともあるし、辛いこともある。苦しくて、もう何もしたくないって思ってしまう日だってあるかもしれない」
「…………」
幼いケイには。
まだ。
それがどんなものなのか。
よく分からなかった。
「でも、全部が闇に帰ってしまえば」
母親は続ける。
「そんな辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、もう経験しなくて済む」
「…………」
「何もなければ、傷つくこともない。大切なものを失うこともない。疲れることも、怖がることもない」
「それが……魔王の言う安らぎなの?」
「たぶんね」
「…………」
ケイは考えた。
確かに。
辛いことがない。
悲しいこともない。
怖いこともない。
それだけ聞けば。
少しくらい。
いいことのようにも思える。
「……それも、いいのかもしれないけど」
「うん?」
「でも俺は嫌だ」
ケイは。
はっきり言った。
「辛いことがなくなるのはいいけど」
少し考えて。
「嬉しいこととか、楽しいことまでなくなるんでしょ?」
「そうなるわね」
「だったら嫌だよ」
母親が。
静かにケイを見る。
「俺、遊ぶの好きだし」
「知ってる」
「母さんのご飯も好きだし」
「それは嬉しいわね」
「友達と遊ぶのも好きだし。父さんは……たまにうるさいけど」
「ケイ」
「でもまあ、いなくなるのは嫌だし」
母親が少し笑った。
「だから俺は」
ケイは胸を張った。
「辛いこととか悲しいことがあったとしても、嬉しいこととか楽しいことがある方がいい」
「…………」
「何にもないより、そっちの方が絶対いいよ」
母親は。
しばらく何も言わなかった。
そして。
やさしく笑う。
ケイの頭へ手を伸ばし。
ゆっくり。
髪を撫でた。
「そうね」
「うん」
「ケイは、そう思うのね」
「うん」
母親の手は。
暖かかった。
「じゃあさ」
「なあに?」
「魔王って、寝るのが好きなのかもしれないね」
「…………」
母親は一瞬きょとんとして。
それから、くすっと笑った。
「そうかもしれないわね」
「ものすごく眠いんだ」
「きっと、とっても疲れてるのよ」
「じゃあ普通に寝ればいいのに」
「本当にね」
二人で。
少しだけ笑った。
けれど。
世界そのものを。
嬉しいことも。
楽しいことも。
何もかも一緒に消してしまう存在がいるのなら。
やっぱり。
ケイには許せなかった。
「俺は嫌だ」
「何が?」
「世界がなくなるの」
ケイは布団の上で拳を握った。
「もし本当に魔王が出てきてさ、世界を全部なくそうとしたら……」
母親が微笑みながら息子を見る。
「うん」
「俺が止める」
「ケイが?」
「うん!」
さっきまで眠そうだった目が、一気に輝いた。
「俺、勇者になる!」
ケイは立ち上がった。
「勇者になって、魔王をぶっ倒す!」
「はいはい。分かったからベッドの上で暴れないの」
「俺、強くなるから!」
「分かったってば」
「明日から鍛える!」
「昨日も言ってたわね」
「明日は本当にやる!」
「それも昨日聞いたわ」
「今度は本当だって!」
母親は笑った。
ケイは枕元に置いてあった木の棒を手に取った。
昼間、勇者の剣のつもりで振り回しているものだ。
それを天井へ掲げる。
「俺が勇者になったら、母さんも守ってやるからな!」
「あら、頼もしい」
「父さんも!」
「お父さんにも言ってあげなさい」
「父さんは……まあ、ついでに」
「怒られるわよ」
「それで、村のみんなも守って――」
幼いケイラスは胸を張った。
「世界も守る!」
母親はそんな息子を見つめていた。
子供らしい夢だと思った。
明日になれば忘れてしまうかもしれない。
大きくなるにつれて、現実を知って諦めるのかもしれない。
それでも母親は笑って言った。
「じゃあ、頑張って勇者にならなくちゃね」
「おう!」
「そのためには?」
「修行!」
「違います」
「え?」
「もう寝る」
「ええー!」
「勇者だって寝ないと大きくなれないわよ」
その一言で、ケイは慌てて布団へ潜り込んだ。
「じゃあ寝る!」
「はい、おやすみ」
「おやすみ、母さん」
母親がランプの火を小さくする。
暗くなっていく部屋の中で、ケイは目を閉じた。
いつか。
伝説の剣を持って。
世界中を旅して。
困っている人を助けて。
そして、世界を滅ぼそうとする魔王を倒す。
そんな勇者になる自分を夢見ながら。
この夜のケイラスは、まだ知らない。
自分が憧れ続けた勇者ではなく――
やがて自分自身が、
世界を滅ぼそうとする魔王になることを。




