第15話 尻拭いが尻拭いを呼ぶ
父親と母親からの説教がようやく終わった頃には、ケイは心も身体もすっかり疲れ切っていた。
「……もう今日は何もしたくない」
自分の部屋へ戻ろうとしたところで、父親の声が飛んできた。
「ケイ」
「……何?」
「水汲んできてくれ」
「今?」
「今だ」
「今日くらい休ませてくれてもいいだろ……」
「誰のせいでこっちまで村の連中に頭下げる羽目になったと思ってる」
「…………はい」
何も言い返せなかった。ケイは桶を持つと、重い足取りで家を出た。
『大変な一日でございますなあ、ケイ様』
『誰のせいだと思ってるんだよ』
『おおむねケイ様ご自身のせいでっしゃろな』
『お前ほんと容赦ないな』
『事実を申し上げただけでございます』
『それが容赦ないって言ってるんだよ』
アズラは今日も淡々としていた。
父親を死なせかけたのも自分。解除条件を実行して村中に恥をさらしたのも、元を辿れば自分のせいだ。頭では分かっている。分かってはいるのだが。
「……最悪だ」
マリアンヌが広場で見せた、あの顔まで思い出してしまい、さらに気分が沈んだ。
どう声をかければいいのか分からないような顔だったが、ケイには完全に嫌われた顔にしか見えなかった。
もう今日は誰にも会いたくない。
そう思っていた時だった。
「おっ!」
嫌な声が聞こえた。
「勇者様じゃん!」
「…………」
ケイは足を止めた。道の先に、同年代の少年が四人いる。
トーマ、ルッツ、ベイル、ニコ。中央広場でも、ケイを見て大笑いしていた連中だ。
ケイは何も言わず、そのまま横を通り過ぎようとした。
「おいおい、無視すんなよ!」
トーマが笑いながら前へ回り込む。
「どこ行くんだよ、勇者様」
「水汲み」
「へえ」
ルッツがケイの持っている桶を見る。
「今日は普通の水汲み?」
「…………」
「広場一周しなくていいの?」
「ぶっ!」
ベイルとニコが吹き出した。
「ははははは!」
「やめろって、思い出すだろ!」
「何が勇者だよ!」
「新しい修行なんじゃない?」
「中央広場でやる勇者修行!」
ケイは黙ったまま、桶の取っ手を強く握った。
『ケイ様』
『分かってる』
ついさっき、自分の言葉がどれだけ危険なのか思い知ったばかりだ。
父親へ腹を立て、勢いで「死んじまえばいい」と言った。たったそれだけで、《夢想因果》は本当に父親を殺そうとした。
それを止めるために、ケイは今日、村中の人間が見ている前で一生忘れたくても忘れられないような恥をかいたのだ。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
「……どけよ」
「怒るなって!」
トーマはさらに笑う。
「俺たち褒めてるんだぜ?」
「どこがだよ」
「普通できねえって、あんなこと!」
「そうそう!」
「村中の前だぞ?」
「しかもマリアンヌもいたし!」
「…………!」
その名前が出た瞬間、ケイの顔が強張った。四人はすぐに気づいた。
「あれ?」
トーマがにやりと笑う。
「もしかして、それ気にしてんの?」
「……何が」
「マリアンヌだよ」
「別に」
「絶対気にしてる!」
「うわ、顔赤くなった!」
「なってない!」
「なってるって!」
「そりゃあんなもん見せられたら、もう無理だろ!」
「マリアンヌもすげえ顔してたもんな!」
「…………」
やめろ。
ケイは心の中で自分に言い聞かせた。言い返すな。余計なことを言うな。こいつらなんか無視して、水を汲みに行けばいい。
「じゃあな」
ケイは四人の横を通り抜けようとした。
だが、後ろからトーマの声が飛んでくる。
「おい、勇者様! 次は何見せてくれんの?」
「村中で裸踊りとか?」
「それいいな!」
「勇者様ならできるだろ!」
「…………っ」
笑い声が背中へ突き刺さった。
今日一日、ずっと我慢してきた。父親への命令が本物だと分かってから、父親が死ぬかもしれないと思いながら時間を過ごした。
そして最後には、父親を助けるためとはいえ、中央広場で大勢の村人に囲まれながら、とんでもない恥をさらした。
村の大人たちに捕まり、詰所で叱られた。両親まで呼び出され、自分のせいで一緒に頭を下げさせた。
家に帰ってからは父親に拳骨を食らい、母親からも本気で叱られた。
マリアンヌにも、たぶん完全に嫌われた。
それなのに、まだこいつらは笑う。
「……お前ら」
ケイが足を止めた。
「あ?」
四人が振り返る。
『ケイ様』
アズラの声が聞こえた。
『また御命令になっても知りまへんで』
『分かってる』
『まあ、その方が魔王様らしゅうございますけどな』
『お前はどっちなんだよ!』
『ワテとしましては、そちらの方が好ましゅうございます』
『じゃあ黙ってろ!』
『承知しました』
分かっている。言うな。何も言うな。そのまま歩けばいい。
ついさっき、父親への命令を取り消すために、とんでもない目に遭ったばかりなのだ。
だが、その瞬間のケイには、そんなことよりも目の前の四人への怒りの方が強かった。
「さっきから好き勝手言いやがって……!」
「なんだよ」
「怒った?」
「また広場走ってくる?」
「ははははは!」
頭の中で何かが切れた。
本気で腹が立った。本気で、こいつらなんか酷い目に遭えばいいと思った。
「お前らなんか――クマにでも食われちまえ!!」
言った。
その瞬間、ケイは自分が何をしたのか理解した。
「…………あ」
――ゴォォン……。
身体の内側を、巨大な鐘で打ち鳴らされたような衝撃が駆け抜ける。
もう、この感覚を間違えることはなかった。
『強い意思を確認しました』
「待て」
『発言内容との完全一致を確認』
『待て、アズラ』
『固有暗黒術《夢想因果》――発動条件成立』
『待てって!』
『偉大なる夢想の魔王様による御命令として、悪魔アズラが謹んで受理いたします』
『受理するな!!』
四人の名前が、次々とケイの意識へ浮かび上がった。
『因果系統――事象因果』
『対象――トーマ』
『対象――ルッツ』
『対象――ベイル』
『対象――ニコ』
『御命令――対象四名が熊に食い殺される』
『確定予定結果――対象四名への熊の襲撃』
『結果実現まで――十二時間』
『命令達成予測――100%』
『これより因果改変を開始いたします』
「…………」
ケイの顔から血の気が引いていった。
つい数時間前にも、同じことをやった。
父親に腹を立て、死ねと言って、本当に《夢想因果》が発動した。その尻拭いをするために、村中に恥をさらした。
なのに。
「……またやった」
「何が?」
トーマが怪訝そうに聞く。
「お前、急にどうしたんだよ」
「…………」
「熊に食われろって、怖えなあ!」
「ははは!」
四人には何も分かっていない。自分たちが、たった今《夢想因果》の対象になったことなど知るはずもない。
十二時間後、本当に熊に襲われる。
命令達成予測は百パーセント。
『アズラ』
『はい、ケイ様』
『……取り消せるよな?』
『解除条件を達成していただければ、可能でっせ』
「…………」
また解除条件だ。
その言葉を聞いただけで、今日の中央広場での出来事が頭に蘇る。
『……今度も?』
『はい』
『何かやらなきゃ駄目なの?』
『さようでございます』
『普通に「取り消す」じゃ駄目?』
『あきまへんな』
『なんでだよ!』
『一度世界へ命じた因果を撤回する以上、それ相応の代償が必要になりますさかい』
『その代償がなんであんな恥ずかしいことなんだよ!』
『それはワテにも分かりまへん』
『お前にも分からないの!?』
『仕様でございます』
『便利だな、その言葉!』
ケイは頭を抱えたくなった。
だがその前に、アズラが妙に機嫌のよさそうな声で続けた。
『しかしケイ様』
『何』
『二度目の《事象因果》発動、誠におめでとうございます』
『…………』
『いやあ、お見事でございますなあ』
『何が』
『夢想の魔王となられて、まだ間もないというのに。これほど短期間で自然に他者へ災厄をもたらされるとは』
『…………』
『さすがは夢想の魔王様』
『やめろ』
『まさしく悪魔の中の悪魔でんな』
『褒めるな!!』
思念なのに、叫ぶように返した。
『お父上への御命令を解除された直後に、新たに四名への襲撃命令を発令されるとは。実に見事な――』
『全然見事じゃない!』
『一つの災厄を解決した直後、ご自身の手で次なる災厄を生み出される。その淀みなき――』
『説明しなくていい!』
『承知しました』
『あと魔王様って呼ぶな! ケイ様って呼べって言っただろ!』
『これは失礼いたしました、ケイ様』
ケイは深く息を吐いた。
目の前では四人がまだ笑っている。
さっきまでなら腹が立って仕方なかったが、今はもうそれどころではない。
この四人を、自分が熊に襲わせようとしている。
「なんだよケイ」
「急に元気なくなったじゃん」
「熊怖くなった?」
「…………うるさい」
それだけ言って、ケイは四人から離れた。
「おい! どこ行くんだよ!」
「水汲み!」
振り返らずに歩く。
本当なら今すぐ家へ戻って、解除条件を確認したかった。だが、家を出た目的まで忘れると、今度は父親に怒られる。
今日これ以上、父親と揉める気力はなかった。
『アズラ』
『はい、ケイ様』
『解除条件、確認しといて』
『既に確認を開始しております』
『……今度はまともなやつだよな?』
『…………』
返事がない。ケイは思わず足を止めた。
『アズラ?』
『はい』
『なんで黙ったの?』
『確認中でございます』
『今、絶対なんか分かってるだろ』
『まだ確定しておりまへんので』
『じゃあなんで声がちょっと気まずそうなんだよ』
『気のせいでっしゃろ』
『絶対嘘だ』
ものすごく嫌な予感がする。
ケイは再び歩き始めた。
今日、父親を救うためにとんでもない恥をかいた。そのせいで村中に笑われ、笑われたことに腹を立て、また《夢想因果》を発動させた。
そして、その《夢想因果》を取り消すために、また何かをしなければならない。
そこまで考えたところで、ケイはようやく気づいた。
「これ……」
『はい』
「尻拭いが、次の尻拭い呼んでない?」
『そのようにも表現できますなあ』
「最悪じゃん……」
『ですが、非常に魔王様らしい連鎖かと』
『ケイ様って呼べって言っただろ!』
『失礼いたしました、ケイ様』
ケイは桶を持ったまま、大きく肩を落とした。
夢想の魔王になって、まだ二日目。
なのに、どうやらケイラスの尻拭い生活は、まだ始まったばかりらしかった。




