第11話 最悪の昼下がり
「ケイ! いつまで部屋にいるの!」
「今行く!」
階下から母親の声が飛んできた。
パン一個を食べたくらいでは、昨夜からの空腹は満たされなかった。むしろ食べたせいで、余計に腹が減ってきた気さえする。
『だから昨日言っただろ。六時間後にパン出ても意味ないって』
『今から朝飯でっか』
『そうだよ』
『言われてみれば、確かに』
『今さら納得すんな』
ケイは空腹を抱えたまま、急いで階下へ降りた。既に父親と母親が食卓についていた。
「遅いぞ」
椅子へ座るなり、父親が言う。
「……分かってるよ」
「だったら早く来い」
「今来たじゃん」
「朝飯冷めるだろ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
昨日なら、ここからもう一言くらい言い返していただろう。だが今日はやめた。ケイは黙ってパンを取った。
その様子を見て、父親が怪訝そうな顔をする。
「なんだ、お前。今日は妙に大人しいな」
「別に」
「昨日怒鳴られたのが効いたか?」
「効いてない」
「じゃあ拳骨か」
「…………」
腹が立った。だが、「死ね」という言葉が頭をよぎった瞬間、ケイはぎくりとした。
言わない。絶対に言わない。
「どうした?」
「なんでもない」
父親は不思議そうに首を傾げる。母親がスープを置きながら笑った。
「少しは反省したんじゃない?」
「してないよ」
「してないの?」
「でも今日は喧嘩しない」
「あら。偉いじゃない」
「十三なんだから、それくらい普通だ」
父親が言う。
「うるさいな……」
「なんか言ったか?」
「何も」
母親がくすくす笑う。
いつもの朝だった。父親はいつものように口うるさく、母親はいつものように笑っている。
父親がパンくずをこぼせば、
「あなた、もう少し綺麗に食べて」
と母親に注意される。
「これくらいいいだろ」
「よくないわよ」
「畑行ったらどうせ汚れる」
「食卓と畑は違います」
「…………」
ケイは黙って父親を見ていた。
「なんだ?」
「……何が?」
「さっきから俺の顔見てるだろ」
「見てない」
「見てただろ」
「気のせい」
ケイは視線を落とした。
本当に今日、この父親が死ぬのだろうか。目の前で普通に朝飯を食っているこの人間が、自分が昨夜口にした一言だけで。
何も知らず、いつも通り朝飯を食べている父親を見ていると、少しだけかわいそうな気もした。
自分だけが、この人が今日死ぬかもしれないことを知っている。そう考えると、さすがに胸の奥が重くなる。
「ケイ」
「何?」
「朝飯食ったら畑手伝え」
「……今日?」
「今日」
「いつも俺の仕事じゃないだろ」
「今日はやることが多い」
「…………」
「返事」
「分かったよ」
「よし」
「…………」
さっきまであった同情が、少し薄れた。
いつもなら文句を言うところだ。だが今日は、父親の近くにいた方がいいかもしれない。
もし本当に事故が起きるなら、自分が側にいれば止められるかもしれない。そんなことを考えながら、ケイは朝食を口へ運んだ。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、ケイは父親と畑へ出た。
家の裏手にある小さな畑だ。家族で食べる分と、余ったものを少し売る程度の野菜を育てている。
「ケイ、そっちからやれ」
「はい」
「もっと深く掘れ」
「はい」
「根っこ残ってるぞ」
「はい」
「返事だけはいいな」
「じゃあ返事しない方がいい?」
「そういう意味じゃねえ!」
「…………」
やっぱり腹が立つ。さっきまで少しかわいそうだと思っていた自分が馬鹿みたいだった。
だが、死んでほしいわけではない。そこだけは全く別の話だ。
ケイは鍬を振りながら、何度も父親の方を見た。いつも通りで、どこか具合が悪そうな様子もない。突然倒れそうにも見えなかった。
『……アズラ』
『はい、ケイ様』
ケイは父親に聞かれないよう、思念で話しかけた。
『昨日さ』
『はい』
『父さんの命令が発動した時、「主要因果予測――事故」って言ってたよな』
『言うてましたな』
『あれ、どんな事故なの?』
『現時点における主要因果を確認いたします』
『うん』
『……確認できました』
『何?』
『やはり高所からの転落が、今んところ一番有力ですな』
ケイの手が止まりかける。
『転落?』
『はい』
『どこから?』
『現時点では、まだ確定してまへん』
『じゃあ、崖とか?』
『その可能性は高いでっしゃろな』
「…………」
「ケイ!」
「っ!」
父親の声に、ケイはびくっとした。
「何ぼーっとしてんだ!」
「してないよ!」
「鍬止まってるだろ」
「今やる!」
「ったく」
ケイは再び土を掘りながら、アズラとの会話を続けた。
『……それで』
『はい』
『落ちたら、父さん死ぬの?』
『御命令が死亡ですさかい』
『そうじゃなくて、どんな感じで』
『…………』
『何その間』
『お聞きになります?』
『その言い方怖いんだけど』
『昨夜、御命令を出された時のケイ様のお怒りは、かなり強いもんでしたさかいなあ』
『……うん』
『そのため、《夢想因果》は単に生命活動を停止させるだけやのうて、命令を出された時の感情に沿った因果を選ぶ可能性がございます』
『どういう意味?』
『相当に酷い目に遭ってほしい、いう感情も含まれとったものと推測されます』
昨夜のことを思い出す。三発殴られ、腹が立って、本当に一瞬だけ、父親なんか死んでしまえと思った。
『……で?』
『現在の予測やと、高いところから転落して、全身に甚大な損傷を受けたあと死亡する可能性が高いでっしゃろな』
『…………』
ケイの顔が引きつった。
『甚大な損傷って』
『あまり良好な状態では残らんかと』
『もっと分かりやすく』
『原形を保てへん可能性もございますな』
『…………』
ケイの手が完全に止まった。
少し離れたところでは、父親が何も知らずに雑草を抜いている。
『……ぐちゃぐちゃになるってこと?』
『まあ、平たく言えば』
『…………』
『御命令を出された時のケイ様が望まれた結果には、かなり近いものになるかと』
『望んでない!』
『あの時は』
『あの時だけだよ!』
思念なのに、思わず叫ぶように返してしまう。
『今は全然そんなこと思ってない!』
『そうでっか』
『そうでっか、じゃない!』
『失礼いたしました』
そしてアズラは、悪気など微塵もなさそうに続けた。
『いずれにせよ、御希望に沿った形で御命令が達成される見込みですな』
『希望じゃないって言ってるだろ!』
『命令達成予測は100%です』
『それも今は聞きたくない!』
ケイは鍬を強く握りしめた。
昨夜は、ただ腹が立っていただけだった。本当に死んでほしいわけではない。
まして崖から落ちて、見る影もなくなるような死に方をしてほしいなんて、今は欠片も思っていない。
「ケイ!」
「今度は何!?」
「なんで怒ってんだ、お前」
「…………」
しまった。
「別に」
「変な奴だな」
「父さんには言われたくない」
「あ?」
「なんでもない!」
父親は首を傾げて、また作業へ戻った。
ケイはその背中を見つめた。あの父親が、本当に今日、転落して死ぬ。
嫌だ。絶対に。
それだけは嫌だった。
◇ ◇ ◇
午前中の畑仕事は、その後も続いた。
父親が何か言うたびに腹が立ち、そのたびにケイは言葉を飲み込んだ。自分の口が怖かった。
普通なら何の意味もない悪口が、今の自分には人を殺す命令になり得る。それを考えると、いつものように好き勝手言い返す気にはなれなかった。
「今日は本当に大人しいな」
途中、父親が言った。
「いいだろ、別に」
「気持ち悪い」
「じゃあ喧嘩する?」
「それはやめろ」
「どっちだよ」
また腹が立つ。
けれど、その父親があと数時間もしないうちに死ぬかもしれないと思うと、やっぱり言い返す気にはなれなかった。
そんなやり取りをしているうちに、太陽はどんどん高くなっていった。
やがて父親が鍬を肩へ担ぐ。
「よし。今日はここまでだ」
「終わり?」
「午前はな」
父親は家の方へ向かいながら大声を出した。
「ケイ! 昼飯にするぞ!」
「……うん」
ケイも鍬を置き、その後ろをついていく。
父親の背中は、いつも見ているものだった。大きくて、乱暴で、しょっちゅう腹が立つ。
それでも、この背中が今日なくなるなんて、やっぱり想像したくなかった。
◇ ◇ ◇
昼食も、いつも通りだった。
母親が食事を並べ、父親が先にパンへ手を伸ばす。
「あなた、手は洗ったの?」
「洗った」
「本当に?」
「洗ったって」
「さっき畑からそのまま入ってきたでしょう」
「…………」
「洗ってきて」
「はいはい」
「はいは一回」
「お前までそれ言うのか」
父親が渋々席を立つ。
ケイは、その様子をじっと見ていた。
あまりにも普通だった。自分があと少しで死ぬかもしれないなんて何も知らず、いつも通り母親に注意され、いつも通り文句を言っている。
そう考えると、また少し胸が痛んだ。
父親は戻ってくると、何事もなかったように昼食を食べ始めた。
「ケイ」
「何?」
「食わねえのか?」
「食べるよ」
「朝からお前変だぞ」
「別に」
「具合悪いなら言えよ」
「大丈夫」
「なら食え」
「分かってる」
「ったく。飯くらい黙ってさっさと食え」
「…………」
ほんの少しだけ湧いていた同情が、また薄れた。
やっぱり腹は立つ。それでも、死んでほしくはない。父が死ねば、きっと母も悲しむ。
そう思うと、余計に死んでほしくはなかった。
ケイはパンを手に取ったが、どうにも食欲が湧かなかった。
ふと、アズラへ意識を向ける。
『なあ、アズラ』
『はい、ケイ様』
『あと何分?』
『お父上への《事象因果》でっか?』
『それ以外ないだろ』
『ほな、確認いたします』
ほんの一瞬、間があった。
『確認しました』
『対象――ケイ様のお父上』
『御命令――死亡』
『現時点における主要因果――高所からの転落』
『結果実現まで――残り四十七分』
「…………」
ケイの手が止まった。
『四十七分?』
『はい』
『それって』
『およそ四十七分後に、高所からの転落事故が起こる見込みですな』
目の前では、何も知らない父親がいつものようにパンを食べている。
「ケイ」
「……何?」
「ぼーっとしてないで食え」
「…………」
「午後も少し手伝ってもらうからな」
「……うん」
父親が死ぬまで、残り四十七分。
もう、のんびり迷っている時間はなかった。




