第9話 アズラ
目を覚ました時には、窓の外はもう明るくなっていた。
「…………朝?」
ケイはぼんやりと天井を見つめた。
昨夜は、あんな状態では眠れるわけがないと思っていた。
考えることはいくらでもあった。
それなのに。
実際には、目を閉じてからほとんど何も覚えていない。
《夢想因果》を使った疲れが思っていた以上に大きかったらしく、完全に熟睡してしまったようだった。
「……寝すぎた」
ケイは重い身体を起こし、窓の外を見る。
もう夜ではない。
空はすっかり明るくなり、村も少しずつ動き始める時間だった。
「…………」
昨夜、《黒天冠》から聞いた解除条件を思い出す。
村の中央広場で、立ったまま用を足す。
そのあと、すぐに広場を一周する。
夜中なら、ほとんど人はいないと言っていた。
本当に父親が死ぬというのなら、朝早く起きて解除しに行くことも少しは考えていた。
だが、もう外は明るい。
「……まあ」
ケイは小さく息を吐いた。
「まだ本当に父さんが死ぬって決まったわけじゃないし」
『決まっておりますよ』
「うわっ!」
突然頭の中へ声が響き、ケイは肩を跳ねさせた。
『おはようございます、魔王様』
「朝っぱらから急に喋るなよ!」
『申し訳ございません』
ケイは胸を押さえながら、《黒天冠》へ文句を言った。
そして、もう一度窓の外を見る。
解除するにしても。
まずは確かめたい。
本当に《夢想因果》なんて力が存在するのか。
六時間後に出ると言われたパンが、本当に現れるのか。
「……パン見てからでいいだろ」
『そうでっしゃろか』
「本当に出たら、その時考える」
『承知しました』
「……ったく」
ケイは寝癖でも直そうと、いつもの癖で頭を掻いた。
その瞬間。
「痛っ!」
指先に鋭い痛みが走った。
「なんだ!?」
慌てて手を見ると、指先が薄く切れていた。
「……は?」
何か尖ったものに引っかけたような傷だ。
ケイは恐る恐る、もう一度頭へ手を伸ばす。
髪の中に指を入れたところで、硬く尖ったものに触れた。
「…………」
そこでようやく思い出す。
「そうだった。お前ついてるんだった……」
『はい。ついております』
「指切ったんだけど!」
『うちの装飾部に触れられたためかと』
「装飾部?」
ケイは慎重に頭へ触れる。
「この尖ってるところ?」
『はい』
「これ角だろ!」
『王冠として見れば装飾部です』
「悪魔として見たら?」
『角に近いものですな』
「やっぱり角じゃねえか!」
ケイは傷ついた指を見て、ため息をついた。
「これから頭触る時も気をつけなきゃいけないのかよ……」
『その方がよろしいかと』
「頭洗う時とかどうすんだよ」
『優しく洗っていただければ問題ございません』
「お前がくっついただけで、頭洗うのまで面倒になったんだけど」
『申し訳ございません』
「本当にろくなことないな……」
ケイはぶつぶつ文句を言いながら、今度は慎重に髪を整えた。
《黒天冠》は他人からは見えない。
窓に映る自分の姿にも見えない。
だから余計に忘れる。
見えないくせに、実際にはそこにあるのだから厄介だった。
「というかさ」
『はい』
「昨日から思ってたんだけど、お前と喋るのもかなり面倒なんだよ」
『なぜでしょうか』
「俺だけずっと独り言言ってるみたいになるだろ」
『そうでございますな』
「父さんにもそれで怒られたし!」
『お父上に怒られた主な理由は、魔王様の声量やったように思いますが』
「誰と喋ってるか説明できないのも問題なんだよ!」
言ってから、ケイは慌てて声を落とした。
もう朝とはいえ、また父親に怒鳴られるのは嫌だった。
「……外でお前と話したくなったらどうすんだよ。毎回小声で独り言言ってたら、変な奴だと思われるだろ」
『その点でしたら問題ございません』
「何が?」
『うちとの会話に、発声は必要ございませんので』
「…………」
ケイの動きが止まった。
「……今なんて?」
『うちへ明確に意思を向けていただければ、声を出さんでも会話できますよ』
「…………」
数秒。
ケイは黙った。
「それ、なんで昨日言わなかったの?」
『…………』
「おい」
『失念しておりました』
「忘れてたの!?」
『はい』
「俺、昨日ずっとお前に向かって喋ってたよな!?」
『はい』
「それで父さんに怒鳴られて、三発殴られたよな!?」
『はい』
「その間ずっと、声出さなくても話せるってこと忘れてたの!?」
『申し訳ございません』
「お前、本当に大丈夫なの!?」
『うちを装着してくださる魔王様が現れるんも、非常に久方ぶりでしたので』
「久しぶりなら自分の機能忘れていいのかよ!」
また声が大きくなり、ケイは慌てて口を閉じた。
「……で、どうやるんだよ」
『うちへ話しかけるように、意識を向けてください』
「意識?」
『はい』
ケイは半信半疑で口を閉じる。
そして、声には出さず。
頭の中で、《黒天冠》へ話しかけるように意識してみた。
『……聞こえる?』
『はい。問題なく認識しております』
「…………!」
ケイの目が大きく見開かれた。
今度は口を開かず、そのまま続ける。
『本当に?』
『はい』
『俺、今一言も喋ってないよな?』
『はい』
『父さんにも聞こえてない?』
『聞こえておりません』
『母さんにも?』
『はい』
『外にも?』
『当然ながら聞こえておりません』
『……すげえ』
少し面白くなってきた。
『父さんの馬鹿』
『認識しました』
『本当に聞こえてる……』
『はい』
だが、そこで別の不安が浮かぶ。
『待てよ。じゃあ俺の考えてること、全部お前に筒抜けなの?』
『いいえ』
『違うの?』
『うちへ向けられた思念だけを認識しております。普段考えとることまで、ずっと読み取っとるわけやありません』
『本当に?』
『はい』
ケイは試しに、《黒天冠》には向けないようにして、一人の少女の顔を思い浮かべた。
マリアンヌ。
そのまま何食わぬ顔で問いかける。
『今、俺が何考えてたか分かる?』
『分かりません』
『よし』
『何をお考えやったんでしょうか』
『教えない』
『そうでっしゃろか』
それなら安心できる。
そして、もう一つ。
もっと重要なことがあった。
『なあ』
『はい』
『この頭の中の会話で、《夢想因果》が発動したりしないよな?』
『いたしません』
『本当だな?』
『《夢想因果》の成立には、魔王様ご自身による実際の発声が必要です。うちとの思念会話は発言として判定されません』
『よかった……』
ケイは心の底から安心した。
もし頭に浮かんだ言葉まで全部命令扱いされるなら、怖くて何も考えられない。
『じゃあ、これからお前と話す時は基本これでいいな』
『はい』
『昨日のうちに教えてくれればよかったのに』
『申し訳ございません』
『……他にも忘れてることないだろうな』
『…………』
『おい』
妙な間があった。
『あるの?』
『……一件、ございます』
『まだあるの!?』
『先ほど思い出しました』
『今度は何だよ!』
『うち自身の名についてです』
『名前?』
ケイは首を傾げる。
『《黒天冠》じゃないの?』
『《黒天冠》は、うち個人の名前やありません』
『え?』
『悪魔としての種を示す呼び名でございます』
『じゃあ、《黒天冠》ってお前の名前じゃなかったの?』
『はい』
『昨日からずっと《黒天冠》って呼んでたんだけど』
『間違いというわけではございません』
『でも自分の名前は別にある?』
『ございます』
『なんでそれも言わなかったんだよ』
『聞かれませんでしたので』
『またそれかよ!』
『申し訳ございません』
『絶対それ言っとけば済むと思ってるだろ』
『そのようなことはございません』
『で、名前なんていうの?』
『はい。うちの正式名称は――』
《黒天冠》は、どこか誇らしげに名乗り始めた。
『アズラフェル・ノクティス・ヴァルグレディア・ゼル=マグナ・ディアボロス・アル=ネフィリム・レグナ・ヴァル・アーク=――』
『無理』
『…………』
『まだ途中でございます』
『もう無理』
『まだ半分ほどですが』
『余計に無理だよ!』
ケイは即座に却下した。
『そんな長い名前、覚えられるわけないだろ!』
『そうでっしゃろか……』
『長すぎるよ!』
《黒天冠》はしばらく沈黙した。
『……では、アズラフェルで構いません』
『アズラフェル?』
『はい。正式名称の冒頭部分です』
ケイは頭の中で繰り返してみる。
アズラフェル。
アズラフェル。
『……それでも長くない?』
『…………』
『もう《黒天冠》でいいじゃん』
『…………』
『何その間』
『《黒天冠》はあくまで個人名やありませんので、できましたら、うち自身の名でお呼びいただきたいのですが』
『じゃあ、もっと短くできないの?』
『…………』
また少し間が空いた。
相当妥協しているらしい。
『……アズラ』
『アズラ?』
『はい』
『それなら短い』
『アズラでしたら、覚えていただけますでしょうか』
『それなら大丈夫』
『そうでっしゃろか』
『じゃあ、今日からお前はアズラな』
『…………承知しました』
ほんの少しだけ、返事が遅かった。
『なんか不満そうじゃない?』
『そのようなことはございません』
『本当は長い名前で呼んでほしかっただろ』
『可能であれば』
『無理』
『承知しました……』
『やっぱり残念そうじゃん』
『そのような感情は有しておりません』
『じゃあなんで返事遅かったんだよ』
『…………』
『ほら!』
ケイは少し笑った。
そこで、ふと思う。
『そうだ。俺からも一個いい?』
『はい、魔王様』
『それ』
『何でしょうか』
『魔王様って呼ぶの、やめてくれない?』
『…………』
『俺、魔王になるつもりないし。それに毎回そう呼ばれるの、なんか嫌なんだよ』
『では、何とお呼びすればよろしいでしょうか』
『普通にケイでいいよ』
『ケイ、ですか』
『そう』
すると、アズラが少し考えるような間を置いた。
『ちなみに、「ケイ」という音は魔族語において、「誠」あるいは「真実」に近い意味を持ちます』
『え、そうなの?』
『はい』
『へえ……』
自分の名前に、魔族の言葉ではそんな意味があるらしい。
少しだけ格好いい。
『では、「マコト様」とお呼びしてもよろしいでしょうか』
『なんでそうなるんだよ!』
『意味としては近いかと』
『俺の名前はケイなの! 普通にケイって呼んで!』
『承知しました』
『ケイ様』
『…………』
『いかがでしょうか』
『まあ、それならいい』
『承知しました、ケイ様』
『うん』
アズラ。
そしてケイ様。
昨日まで互いにまともな呼び方すらなかったが、これでようやく決まった。
『なあ、アズラ』
『はい、ケイ様』
『…………』
『どうかなさいました?』
『いや。呼んでみただけ』
『そうでっしゃろか』
昨日までは《黒天冠》としか呼んでいなかった存在に、ちゃんとした名前がついた。
少しだけ妙な感じがしたが、悪くはなかった。
その時だった。
『ところでケイ様』
『ん?』
『そろそろでございます』
『何が?』
『昨夜ご注文いただきましたパンが、間もなく焼き上がります』
『お前が焼いてるみたいに言うなよ!』
『失礼いたしました』
ケイは思わず笑ったあと、ふと首を傾げた。
『……そういえばさ』
『はい』
『あのパンって、どこから来るんだ?』
『どこから、と申しますと?』
『何もないところからいきなり作るの? それとも、どっかにあるパンを持ってくるの?』
『後者に近いものと考えていただいてよろしいかと思います』
『そうなの?』
『《物質因果》は、原則として完全な無から物質を作り出す術やありません』
『じゃあ、本当にどっかのパンがこっちに来るってこと?』
『概ね、その認識で問題ございません』
アズラは淡々と続ける。
『すでに存在しとる条件に合う物質を、因果へ干渉することで指定地点へ移動させる、と考えていただくんが近いですな』
『どこから持ってくるかも分かるの?』
『いいえ』
『分かんないの?』
『《夢想因果》がどの地点の物質を選択し、どのような因果経路を使って移動させるかまで、うちがすべて把握しとるわけではございません』
『へえ……』
ケイは机を見る。
今はまだ何も置かれていない。
だが、もうすぐ。
どこかにあるパンが、本当にここへ現れるらしい。
『じゃあさ』
『はい』
『どんなパンが来るかも分からない?』
『ケイ様は「パン」としか指定されておりませんので』
『丸いやつかな』
『不明です』
『白パンだったりして』
『可能性はございます』
『すっげえでかいやつだったら得じゃん』
『大きさの指定もございません』
『めちゃくちゃ美味いやつかもしれない』
『その可能性も否定できません』
『…………』
ケイは机の前に座った。
昨夜までは、どうせ何も出ないと思っていた。
自分が口にしただけで、パンが現れるなんてあり得ない。
そう思っていた。
だが今は。
もうすぐ、その答えが分かる。
『あとどれくらい?』
『間もなくです』
『間もなくって?』
『もう少々お待ちください』
『気になるんだけど』
『承知しております』
『どんなの来るかな』
『お楽しみに』
『だからお前が用意してるみたいに言うなって!』
ケイは笑いながら、何もない机の上を見つめる。
どこから来るのか。
どんな形なのか。
大きいのか、小さいのか。
美味いのか。
そして何より。
本当に《夢想因果》は、自分の言葉を現実にできるのか。
父親への命令のことを思えば、のんきに楽しみにしている場合ではない。
それでも。
初めて目の前で起こるはずの魔法の結果を前にして、十三歳の少年が少しくらい期待してしまうのは仕方がなかった。
『……まだ?』
『もう間もなくです、ケイ様』
『早く来ないかな』
ケイは少しだけ目を輝かせながら、何もない机の上をじっと見つめた。




