〜腐海に沈む水の都〜
▮アリー
話が急展開過ぎて全くついていけない。
言われるがままに私はごちゃごちゃとした神官服に身を包み、顔より大きな神官帽を被って皆が敬う【聖女アリアデル】となった。
夕刻の時間も差し迫った中で、この装備に身を包むのは大変珍しい。
体重の半分以上はある重量の服飾品に身を包み、げんなりとしたのも束の間。あまりにも慌ただしくも真剣な皆の表情を見て、事情が分からないまでも必死で真剣な顔を作った。
そこへ、見慣れた少女が現れた。ノアちゃんだ。
「アリー、ここにいたの。直ぐに地下に向かうの。」
「え?え?」
藪から棒にそう告げられ、私は手を引かれながら廊下へ飛び出した。
「ちょっ!ちょっと!ノアちゃん!!もう何が何だかわかんないって!ちゃんと説明してよ!!」
「ん、地下に向かう途中でするの。とにかく急ぐの!」
頭にハテナを浮かべながら、私たちは隠し通路を経てあの忌まわしき場所となった搦手門に向かった。
その道中、ノアちゃんから話を聞いて驚いた。
まさかこれから、第四法王庁ハーディアに向かうだなんて思ってもみなかったからだ。
搦手門前にはハイレン率いる聖騎士団100名が隊列を成し、私達を敬礼で迎え入れた。
そして、そこにはドーヴェのおじいさんもいた。
「フォフォフォ…待っておったぞ。」
「準備は整っております。尖兵を送りましたが、異常はありませんでした。すぐにでも出立可能です。」
「了解なの。それではすぐに向かうの。」
転送陣の上に、聖騎士団の皆が次々と乗っていく。
荷馬車が何台も載るほどの大きさだから大丈夫だと思うが、いざ自分が乗った時に重量オーバーだと言われたら服の所為だと言い張る腹積もりだ。
私が転送陣に上がろうとした時、「あっ…。」という短い声をノアちゃんが上げた。
「忘れてたの。」
ノアちゃんがそう言うと、私の体が5cmほど浮き上がった。
「え?!あわわわわ!!」
急に失われた足の感覚に私は派手にひっくり返った。
だが、体は床に打ち付けられることなく、怪我をすることはなかったけど…かっこ悪い…。
「浮遊の魔法なの。」
「な、何で急に…?」
なんとか起き上がろうとするが上手くいかない私を見て、ドーヴェさんがフォフォフォと笑った。
「ハーディア周辺で生き残っておった転送先なんじゃが…少しばかり場所が良くなくてのう。法衣が汚れないように転ばぬ先の杖というわけじゃ。」
その言葉に私は目を丸くした。
「へ?汚れるって何?」
「そんなことよりも早く立つの。仔馬でも生まれた瞬間から自分の力で立てるの。初めての浮遊でも気合でコツを掴むの。」
なんか急に乱暴な教育が始まったー――――!!
しかしながら、この時ばかりは生まれもっての不器用さとドン臭さが悪さをしてしまい、100人に見守られる中で何度もずっこけるという醜態を晒してしまったのだった。
それを見て溜息をついたノアちゃんが一言。
「これなら後で正装に着替えた方がマシだったの。」
私もそれでお願いしたかった…。
すったもんだありながら、なんとか自立して動けるようになった私は、ようやく転送陣に乗ることができた。
それを確認すると、ドーヴェさんが転送装置の操作する。
すると転送陣が鮮やかに輝き始めた。
それと同時に、周りの景色がその姿を変え、解けて消えていった。
ホワイトアウトした視界の中、まるでパズルのピースを埋めるように、周りの景色が浮かび上がる。
そこは、一面石造りの無機質な空間だった。
五感がはっきりし始めた瞬間、私は思わず鼻を覆った。
「くっさ…!」
思わず口を突いて出た言葉だったが、どうやら皆同じようで、見渡せば一様に顔を顰めている。
臭いを表現するのは気が引けるのだけれども、直球で言うと汚物の臭いが鼻を突き刺し、吐き気すら覚えた。
流石のノアちゃんも顔を顰めながらハンカチで鼻を覆う。ハッキリ言って聞くまでもないのだけれども、私は恐る恐る尋ねた。
「あ、あの…。ここってもしかして…。」
一人だけ平気そうなドーヴェさんがフォフォフォと笑って部屋の扉の前に立つ。
「驚きましたかな?ルネリオスにはない設備なのでご存じないのも無理はありませんな。」
そう言いながら、ドーヴェさんは扉を開け放った。その瞬間、部屋の湿気が最大レベルにまで上がり、さらに酷い臭気が皆を襲った。
「ドブネズミと害虫の巣窟。地下下水道の世界へようこそ。」
開け放たれた扉からは数匹の悍ましい黒い虫が何匹か部屋に入り込んできた。
それを見て私は体が竦み上がった。
貧民街での生活の中でも常に戦ってきた宿敵とこうもあっさり遭遇するなんて…。
「さ、行くの。一秒でも早くここから出たいの。」
ノアちゃんはそう言いながら、自分にも浮遊をかけて扉に向かう。それを追うように私も部屋から出た。
目の前に広がったのは巨大な下水路だった。
あまりにも広く、その全容はハッキリとしない。
だが、そんな水路はどこも水がなく、干上がっていた。そして汚物がヘドロとなり堆積している様子をみて、再び吐き気を催した。
ノアちゃんはそれを見て、小さく頷いた。
「(アスト)レイの予想は大当たりみたいなの。この下水道は絶え間ないパルス川の水によって常に清浄化され、海に運ばれていたはずなの。それがこの有様…。アクエラが完全に川の水を堰き止めていることが確定なの。」
「フォフォフォ…。この巨大な下水設備は水の都と名高いハーディアにおいて、その技術の粋をつぎ込まれて作られた最大の浄化設備。この世で最も清潔で美しい都市はどこかと問われれればだれもがハーディアと答えておりました。そのハーディアの美しさを支えていた地下下水道が、水を絶たれた途端に悪臭漂う肥溜めとなったとは…なんとも皮肉な話ですな。」
「それが転じて、この場所の転送装置が封鎖されずに見逃されることになるなんて滑稽なの。」
なんとなく私にも話が見えてきた。
アクエラに…ハーディアに何が起こっているのか。
なぜこの地下下水道に設置された転送装置を利用することになったのか。
なるほど…これは確かに汚れるわ…。
突然ノアちゃんが私に向き直った。
「アリー。ノアはここでお別れするの。」
「え?え?一緒に来てくれるんじゃないの?!」
私は慌てた。ハーディアに来たのは物見遊山じゃない。ハーディアの解放と聖王国への協力を取り付けるためだ。
おそらく…というより絶対にハーディアの枢機卿との対談になる…。その時、ノアちゃんが私の代わりに交渉をしてくれると思ってたのに…。
ショックを受けている私を見透かしたように、ノアちゃんは大きく溜息をつく。
「今はアクエラを無事に解放することが最優先なの。だからノアは北部出口から直接アクエラに向かうの。決壊させられる前に固有結界を展開して、アクエラの管理権限を奪い取るの。」
「…それが、ハーディアの人々を救うことになって、交渉の材料にもなるってことよね?」
「そういうことなの。健闘を祈るの。」
そう言うと、ドーヴェさんとハイレンに視線を送る。二人はそれを受けて頷いた。
「お任せください。この私が聖女様をお支え致します。」
「この老いぼれに出来る限りのことはさせて貰うぞ。」
ノアちゃんは頷く、再び私に向き直った。
「それじゃあもう行くの。もうすぐロアちゃんと交代なの。ロアちゃんとこんな場所で交代したら暴れ狂って大変なの。」
その様子を頭に描いて、思わず苦笑した。
「わかった。私も頑張るよ。ノアちゃんも気をつけてね!」
「ん。じゃ、また後で。」
そう言うとノアちゃんは通路を飛び越えながら真っすぐに目的の場所へ向かっていった。
その背中を見送ると、私は聖騎士団のみんなに向き直る。
「さあ、私達も参りましょう!」
『はっ!!』
聖騎士達の声が反響する。
その後、私たちはドーヴェさんの先導の元、悪臭漂う地下迷宮を小一時間かけて移動し、ようやく上階に向かう階段に辿り着いた。
内心ホッとした。
みんなには悪いが、浮遊のお陰で疲労なくここまで移動できたが、いつ魔法の効果が切れるか気が気ではなかったのだ。
聖騎士団の二人が扉を開き、冷たい空気が流れ込んだ。
話を聞けば、階段を上った先はハーディア領内では郊外に当たる治水管理局に通じているらしい。事前に話は通してくれているとは聞いているけれども…。
ど、どうなんだろう?歓迎してもらえるんだろうか?もしかして待ち伏せとかされたりしないよね…?
内心びくびくしながら、私は扉を潜り抜けた。
その先には私の嫌な予感をなぞるような光景が広がっていた。
まるで聖堂のようにステンドグラスが張り巡らされ、大理石が敷き詰められた広い空間に、数十人のテンプルナイト達が私達の出迎えていたのである。
その中の一人、頬がこけ、青い神官服に身を包んだ金髪に長髪を編み込んだ青年が膝をついたまま徐ろに口を開いた。
「お待ちしておりました。聖女様。私はハーディア枢機卿、ラニーニャ=ロド=ヴァン=ランチェスターの息子。ハインリヒ=ヴィル=ドネ=ランチェスターと申します。」
続いて傍らの金髪ロール髪の少女が少し面倒そうに口を開く。
「同じく、パレイドリヤ=ミルデ=シス=ランチェスターと申します。」
少女が自己紹介を終えると共に、テンプルナイト達が総じて跪礼を行う。
「聖女、アリアデル=エスタ=リエ=オルフェリア様。第四法王庁ハーディアは貴方様を歓待いたします。」
その言葉を聞き、ようやく私はホッと胸を撫で下ろした。待ち伏せというのは杞憂だった様で、歓迎してくれるようだ。
「聖王国一同を代表して、貴殿らの歓待に心からの感謝を…。つきましては、カテドラルへの案内をお願いしたいのですが…。」
私がそう言うと、ハインリヒさん達は一様に顔を顰めた。
その様子を見て、ハイレンが前に立つ。
「どう言うつもりだ?聖女様を歓待すると言いながら、カテドラルへの案内を渋るつもりか?」
ハイレンの威圧が込められた視線に気圧されながら、ハインリヒさんは困ったように口を渋らせた。
「私共としては、この治水管理局が最も聖女様をもてなせる場所なのですが…。どうしてもカテドラルでとなれば、色々とお覚悟を頂くことになりますがよろしいでしょうか?」
「ちょっと!兄様!聖女様とはこの場所で会合を開くって話だったでしょう?!」
パライドリヤさんがハインリヒさんに食って掛かる。
その二人のやり取りから、本当はカテドラルに招きたいが、招けない、もしくは招きたくない理由があるということだろう。
「貴方がたがご配慮の上でこの場でと仰っていることは理解しました。しかし、事は法王庁だけではなくオルフェリア全土に関わる有事。ラニーニャ枢機卿の元へご案内をお願いします。」
二人は顔を見合わせると、ハインリヒさんが頷き、パレイドリヤさんは舌打ちをして渋々ながら頷いた。
なんなのだろう?何をそんなに嫌がってるんだろうか?
「それでは、カテドラルまでご案内致しますが…少し長い道のりになります事を先に断っておきます。また、非常にお目汚しになることも併せてご承知おき下さい。」
私は分からないながらも承諾し、ハインリヒさんが先導する中、治水管理局の建物から外へと出た。
日は落ち、冷たい外の空気が頬を撫でる。
ようやく新鮮な空気を吸えると喜んだのも束の間、地下とは違う腐臭に思わず眩暈がした。
鼻がおかしくなっているのかと思ったが、その正体はすぐ横を流れる川を見れば直ぐに分かった。
それは、どす黒く染まった水の上に浮かんでいた大量の魚の遺骸だった。大量の虫や鳥、鼠が貪るその光景に、私は思わず目を逸らした。
水の都ハーディアの印象が音を立てて崩れ去った。
私がショックを受けているのを見て、ハインリヒさんが私の表情を見て頭を下げる。
「お気に障りましたことをお詫びいたします。水の都ハーディアはその名の通り水上都市であり、移動は専ら船で行われてきました。血管のように水路が張り巡らされ、街路の代わりを果たしていたのですが、水路に流れる水が干上がるパルス川から逃げるように迷い込んだ魚たちにとって…ハーディアが墓場となってしまったのです。」
「魚たちの墓場?折角迷い込んだ魚なのに…どうして食べないの?」
素朴な私の疑問に、パレイドリヤさんが小バカにしたように笑った。。
「この水路は日常的に住人達の生活排水が流れてるのよ?そんな水で泳ぐ魚を食べるだなんて、聖女様はよほど食に恵まれなかったのですわね。」
「(パレイド)リヤ!よさないか!」
ハインリヒさんが注意するも、パレイドリヤさんはそっぽを向いて不機嫌を隠そうともしない。
どうやら私は嫌われているようだ。
「失礼いたしました。普段は水が頻繁に循環しておりましたので気にならなかったようですが、川の水量が減ったことにより所水制限がされてからは水路の水は清潔とは言えなくなりまして…。そんな場所に迷い込んだ魚をハーディアの民は敬遠した結果、ご覧の通り大量の虫や鳥、鼠が群がる死の水路と化してしまったのです。」
それを聞いてハイレンは目を丸くする。
「で、では…。まさかハーディア中がこのような有様なので?!」
え…それ…めっちゃやだ…。
「主要な運河については清掃を進めていますが、もともと下水によって海に流すことを基本としているため、都市の外に出なければゴミを捨てる場所はないのです。しかしながら戒厳令で外に出られないため、小さな水路にゴミを押しつけている状態です。」
え?それって何の解決も出来てないんじゃあ…。
「地下水路に流すということは出来なかったのですか?」
ハイレンの問いに、ハインリヒさんは首を横に振る。
「下水へはフィルターがつけられており、なんでも地下水路に落ちる構造にはなっておりません。次第にそのフィルターに川の生き物の死骸や土砂が堆積するようになり、今や地下水路に水は全く排水されておらず、排泄物を含む生活排水が上水路にも溢れるように…。」
うわっ…気分悪くなってきた…。
「だから申し上げたでしょ?治水管理局の中で会合をした方がいいと。言っときますけど、カテドラルまでは徒歩になりますので、小一時間はお覚悟をなさってくださいまし。」
そう言い捨てたパレイドリヤさんの言葉にハイレンが慌てた。
「と、徒歩だと?!馬車はないのか?!」
ハインリヒさんが首を横に振る。
「ありません。ハーディアに於ける道は全て歩道。馬車が走れるような幅の道はございません。馬もこの都市にはおりません。ハーディアの交通手段は専ら船なのです。その船も…運河が船を出せる状態でないため…。」
みなまで聞く必要はなかった。
なるほど…カテドラルに招きいれることを渋るわけだ。
正直唖然としてしまい、悪臭が漂う都市に目を向けていると、背後から大きな舌打ちが聞こえた。
「無様…とでも言いたげじゃない?」
「えっ?」
振り返ると、そこには怒りに顔を歪めたパレイドリヤさんの姿があった。
突然の暴言に、ハインリヒさんが慌てる。
「リヤ!口を慎め!」
「なによ!こうなったのはそもそもアンタ達が余計なことをしたからでしょ?!さあ!早く元の美しいハーディアに戻しなさいよ!そのためにアンタ達を迎え入れてあげたんだから!!」
「リヤ!!」
ハインリヒさんの一喝にパレイドリヤさんは憎々し気な視線を私に向ける。
「何が真の聖女よ…。豪華な服に袖を通せば誰でも傅くとでも思ってるわけ?平凡な顔した田舎臭い庶民にしか見えないのよ!!」
「貴様!!いい加減にしろよ!!無礼にも程があるぞ!!」
ハイレンが怒りを露わにして割って入り、剣の柄に手をかけた。
それを合図に、聖騎士団とハーディアのテンプルナイト達が殺気を放ち始め、一触即発の状況となる。
その両者に挟まれ、ハインリヒさんが泡を食ったように動転していた。
そんな中、私はふっと笑みが零れる。
それを見て、パレイドリヤさんが眉間に皺を寄せた。
「何が…おかしいのよ…?!」
あ、しまった。また怒らせちゃった。
「ごめんなさい。でも、ちょっと嬉しくて…ね。」
「嬉しい…?何言ってんのよ…?」
パレイドリヤさんは怪訝な表情を崩さない。でも、どうやら話は出来るようだ。
「パレイドリヤさん。あなた、すごく人を見る目があるわ。そう、私はこの歳までルネリオスの貧民街で過ごしてきた一般庶民なのよ。」
「えっ…?!」
面食らったような顔をした彼女に一瞥するように私は微笑んだ。
「だから無作法で無教養。オシャレなんてしたことない。今こうして肩の凝る法衣で着飾るよりも、麻のワンピースに裸足の方がよほど楽だと答える田舎者よ。そんな私の本質を見抜いてくれたあなたには、飾らない言葉で話が出来るわ。」
私の自虐的な独白に、どう返事をしていいか分からないのか、彼女は口をパクパクさせていた。
そんな彼女に、私はゆっくり近づいた。
「今のハーディアの状況を、私の所為だと言いたくなるのも分かる。おそらく、世の中の9割以上の人はそう答えるわ。それは税金を払い、統治者を崇める被支配者層からしてみれば当然の主張だもの。」
私のその言葉に、パレイドリヤさんは顔を真っ赤にした。
「わ、私が一般人と変わらないっていうの?!」
「ええ。少なくとも英雄と呼ばれる素養もなく、統治者としての責務を果たしているとは思えないので、限りなく一般人だと思います。」
パレイドリヤさんの怒りが頂点に達する間際、何かに怯えたように目を戦慄かせていた。
いや、何かではない。
私を見て怯えていたのだろう。
それだけに、私は怒っていた。
「ラニーニャ枢機卿はどうされたのですか?なぜこの場におられないのでしょうか?」
私の一言に、ハインリヒさんとパレイドリヤさんはあからさまに表情を曇らせた。
カテドラルに案内するのが前提であれば、この二人が使いとして現れるのは納得できる。
だけど、治水管理局の建物内で会合を終わらせる気だったとすれば話が変わってくる。
この二人は枢機卿の代理ということになり、枢機卿はこの有事に不在となるのだ。普通に考えてそんなことは有り得ない。
有り得ないことが起こっているということは、異常事態である証拠だ。
意を決したように、ハインリヒさんは言葉を紡ぐ。
「枢機卿は二週間ほど前から重篤な病に掛かっており、床に臥せっております。発熱や頭痛、筋肉痛が酷く、体に黄色の斑点まで浮かぶ始末です。」
…その症状…確かここに来る前にノアちゃんが言ってた…。
「もしかして…ラニーニャ枢機卿は水路の中に?」
ハインリヒさんは頷いた。
「はい…。枢機卿は毎日の行水が日課で…。汚染が始まっていた水路の水で体を…。」
「レプトスピラ症だわ…。」
まさか習ったばかりのことが目の前に事象としてすぐに現れるだなんて思ってなかった。
「市民からは発熱や下痢、嘔吐を訴える者が後を絶たず、脱水症状を引き起こして死ぬ者も出ております。飲み水は聖水を使うようにと厳命してはいますが、症状は後を絶たず…。」
聖水?聖水ってもしかして…。
「聖水とは神官が祈りを込めて浄化した水の事でしょうか?」
「それ以外に何があるっていうの?!高位の神官達が必死に祈りを捧げて穢れた水を浄化して飲めるようにして…。」
「それ…本気で言っているのですか…?」
言葉を遮られ、パレイドリヤさんは言葉を呑んで思わずたじろいだ。
先ほどの発言に、ルネリオス出身の聖騎士団達は騒然となる。
いくら何でも世間知らずにもほどがある。よほど清潔な水に恵まれてきたのだろう。水は必ず煮沸消毒するルネリオスからしてみればこの異文化ギャップは動揺を禁じ得ない。
「ハッキリと申しますが、このハーディアの惨状はまともな治世が働いているとは到底思えません。初動対応も楽観的でその後の処理も言い訳ばかりで後手後手…。押し付け合い、擦り合い、臭い物に蓋をして迎えた今日…。上下水設備を沈黙させ、船による交通手段を失い、劣悪な衛生状況から枢機卿をはじめ市民にまで病気を蔓延させた。民の不満は頂点に達していることでしょう。この有様で統治者を騙り、支配者を名乗るなんて恥知らずだと思いますが…。如何お考えですか?」
「い、言わせておけば!!」
「黙ってろ!リヤ!」
「お兄様!!」
再々止めに入るハインリヒさんに対し、パレイドリヤさんが怒りに満ちた視線を向ける。
ハインリヒさんはその視線を一身に受けたまま、その場で膝をつき、両手をついて私の前に傅いた。
兄のその姿を見て、パレイドリヤさんは目を見開く。
「聖女様の言う通りだ。私たちは何もしていない。何もしてこなかった。高官が次々と倒れる中、何の対策も打てず、何をしたらいいのかもわからず、ただただ右往左往していただけだ。唯一成功したことは、民の不満の矛先を別のものに向けることで暴動だけは回避したことだけだ。…その功績も、ただ保身に流れたに過ぎない。」
「お、お兄さま…。」
戸惑い続けるパレイドリヤさんには気づかないようだ。なぜ彼がこれだけやつれ、顔色が悪く、恥も外聞もなく頭を下げ続けられるのか…。
私は平伏すハインリヒさんの前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、ハーディアの全てを私達に委ねるために、聖王国を受け入れたのですね?あなた自身、病に侵されてしまった時から…。」
「え?!お兄さま!!」
観念したように、ハインリヒさんは目を閉じる。
「ご察しの通りです…。もう長くありません。そうなれば、枢機卿の血筋はこの子だけ…。しかしながら、これはまだ15歳。お恥ずかしながら、この器量では法王庁を引っ張っていく力などあるはずもございません。あまつさえ、このような危機的状況を乗り切ることなど不可能。聖女様のお力に縋るしか…それしかないのです。」
「お兄様…。私…私…。」
なんとか兄の言葉を否定し、「私に任せて」とでも言いたいのだろう。だが、あまりにも沈痛な兄の姿に、その言葉が口から出ない。
ハインリヒさんは頭を石畳に擦り付ける。
「どうか…どうか…!ハーティアをお救いください…。無力で…愚かな我々に代わって…。全ての権限を聖女様にお委ね致します。」
「お断りいたします。」
そう告げたことで、血相を変えて顔を上げたハインリヒさんの両頬に私の掌が触れた。
その瞬間、眩い光が彼を包み、やつれた目、扱けた頬や青白い顔色に血の気が戻り、その急激な体の全快に目を戦慄かせた。
そして、聖騎士団の皆が膝を折り、両の手を組んで祈りを捧げる。それに習うように、ハーディアのテンプルナイト達もまた、膝をついて両の手を組んで跪いた。
ハインリヒさんもまた、何が起きたのか分からず、ただ、私を見上げて涙を流していた。
「私に出来ることは目の前の命を救うことだけ。私にハーディアを元に戻す力はありません。ハーディアを生かすも殺すも、この地に住むあなた方次第。あなた達にハーディアを生かすという意思と決意があるならば、私達聖王国は助力を惜しみません。」
すすり泣く声が聞こえる中、パレイドリヤさんもまた茫然としたまま両膝を付き、大量の涙を流しながら両の手を組んだ。
「ああ…女神様…!女神オルフェリア様!!」
譫言の様に呟く彼女の目には、今の私はそのように見えているのだろう。
黄金の翼が神々しく私の背を飾っていることが予想できる。
私はふっと表情を崩すと、満面の笑みを浮かべた。
「それじゃあ、カテドラルに急ぎましょう。ラニーニャ枢機卿にも早く元気になってもらわないとね。」
砕けた話し方をする私の様子にハーディアのみんなが呆気に取られている中、ハイレンを筆頭に聖騎士団の面々は笑みを浮かべていた。
そうこれが私…。
聖女でも女神でもない。
私は遠くに見えるカテドラルを見て、歩くための準備体操を始めた。
「あ、そうだ!」
カテドラルまでの道のりへ足を進める前に、これは早く伝えなきゃいけない。
私はハインリヒさんに向き直った。
「とりあえず早急にハーディア中に徹底させて!煮沸消毒した水じゃないと飲んじゃダメ!!って。」




