〜哭いた紅鬼〜
▮魔王
『腕力向上、攻速向上、体力向上、貫通付与、特効付与…。』
背後に立つ分身、二重影が次々と魔法を唱え、強化を重ねていく。
双頭魔術師と行動短縮を使用したことで、こちらの攻撃アクションが一回終わる度に発生する硬直時間を無視し、圧倒的な回転率で強化の付与を行っていく。
無数の殴打が嶽閻の巨体を歪に変形、破壊する。
腹部に打ち込んだ拳は嶽閻の体を宙高く舞い上げ、それを追って飛翔すると蹴りを放って地面に激しく叩きつける。
巻き上がる粉塵の中、脳内では次々とシステムコールが響く。
『非力付与成功しました。減速付与成功しました。虚弱付与成功しました。防御抑制成功しました。修復阻害成功しました。』
体の再生が鈍化し、嶽閻はまるで幽鬼の様にふらふらと立ち上がる。
「こんな…こんなことが…。なぜ?汝如きに…。余の方が圧倒的に格で上回っているはずであるのに…。なぜだ…?」
譫言の様に宣ったその言葉に、嘲笑を禁じ得なかった。
「どうやら『鑑定』スキルを持っているようだが、貴様は私の今のステータスと自分のステータスの状態が分かっているのか?」
嶽閻からは沈黙しか返ってこない。やれやれと肩をすくめる。
「私が常にかけ続けている強化魔法と貴様にかけている弱化魔法によって、私たちのステータスは既に逆転している。今のお前は低位のボスレギオンクラスの力しか発揮できていない。」
「そ、そんな馬鹿な!!余は魔法に対する絶対耐性があるのだ!弱化魔法が余に効くわけが…。」
「それを本気で言っているようなら本当におめでたいな。貴様は。」
私の言葉を素直に受け止めきれないのか、嶽閻はまだ猜疑的な態度を崩さない。
本当に、愚かな奴だ…。
「貴様の魔法耐性は確かに見事だった。私の重力槌からいともたやすく脱出し、反射防壁をもろともせず打ち破ったのはその力があってこそだ。」
「そ、そうだ!なのに…なぜ…。」
「夜郎自大とはこのことか…。あれは貴様の力などではない。貴様が纏っていた鎧が有していた付与効果に他ならない。」
嶽閻から驚愕と驚嘆が窺える。
「その様子だと、本当に知らなかったようだな。貴様と違って私の鑑定スキルは高性能でね。貴様の手の内は全て丸裸も同然なんだよ。」
嶽閻の体が震える。まるで親の庇護のない赤ん坊の様に恐怖が体全体を支配していた。
「貴様がこのひと月余り、周囲の異常に気付かず呑気に日々を謳歌していた頃から、貴様のステータス、スキルは全て調査済みだ。ついでに貴様らの食料備蓄からいつ痺れを切らして暴挙に出るかの予測まで、事前準備はしっかりさせてもらった。」
一歩ずつゆっくりと嶽閻に近づいていくが、その歩みに合わせて嶽閻の足は後ろへ下がる。
「LV差30はある貴様と私の戦闘力の差を埋めるために強化だけでは心許ない。どうしても弱化が必要だった。なので私はまず、貴様の鎧を破壊することを最優先とした。科学による攻撃はこの世界にて無属性の物理攻撃であることは実証済み。核熱爆発を編み出す時間と、練習時間をたっぷり与えてくれた貴様の体たらくには、自然と頭が下がる思いだよ。」
足の震えが限界に来たのか、嶽閻は足が絡まり、バランスを失って蹴倒す。
そんな嶽閻を見下ろしながら、一つの疑問を口にする。
「一つ聞きたいのだが、あの鎧は誰が作ったのだ?」
その言葉に、嶽閻は激しく動揺を見せたと思うと、狂声を上げて飛び掛かってきた。
「ガァアアアアアアア!!」
獣の様な咆哮を上げる嶽閻の攻撃を紙一重で躱すと同時に、両腕を引き千切り、背後から胸を打ち抜いた。
ハロウィンカボチャのようにぽっかりと空いた嶽閻の胸は、絶望か虚無感か、黒い霧をのようなものを吹き上げるばかりで塞がる様子を見せず、嶽閻はそのまま膝をついた。
完全に心が折れた瞬間だった。
「《凶骸》…回数制限が煩悩の数とは小粋な仕様ではないか。…ん?どうした?あと四回、貴様の命は残っているはずだが?」
嶽閻からは応答はない。
どうやら完全に壊れたか…。
「まあ、貴様を嬲るのにももう飽きた。幕引きだな。宣言通り、貴様の首をこの大衆の面前で晒してやる。己の愚かさに懺悔し、そして、死ね。」
さながら断頭台を彷彿とさせるかのように、右手を手刀の形で大きく振り上げる。先ほどまで歓声と歓喜に湧いていた客席も、この時ばかりを固唾を飲んで見守っているのか、静寂がその場を支配した。
糸の切れた人形の様に、微動だにせず、言葉を発することのない嶽閻に引導を渡そうとしたその時だった。
赤い人影が嶽閻との間に割って入る。
「陛下!畏れながら…畏れながら!後生でございます!!何卒、嶽閻にお慈悲を…。どうか…。どうか…!!」
それは涙で顔をぐしゃぐしゃにした紅麗尉だった。
紅麗尉は膝を折り、地面に額を擦り付けて懇願する。その姿に、嶽閻は力なく視線を向け、紅麗尉の名を呼ぶのだった。
▮紅麗尉
私が異世界転生を果たし、降り立った場所は鬼人族が住まう小さな島国だった。
海に隔てられている故か、敵からの脅威に晒されることなく、平穏で牧歌的な生活が繰り返される土地。
この島国の名前を【荒夜】といった。
転生直後、右も左も分からず、住まう家も何もない私に初めて声をかけてくれた鬼がいた。
それは黒鬼だった。
血気盛んな鬼人族の中でも温厚な類で、私の話を真剣に聞いてくれた初めての人だった。
黒鬼は村の人々に私を紹介し、共に暮らせるように取りなしてくれた。
それから私の十数年は、彼らの生活と共にあった。狩猟民族だった彼らに農耕を教え、道具を作り、彼らを導いていく存在になった私を中心として一つの組織が作られた。
鬼人会。
当時は名ばかりの紅き魔王が作り出した小さな組織だった。
だが、私の存在は穏やかな生活を送っていた彼らにとって猛毒であったと今ならば思う。
私の村が繁栄していく中で、他の村からの僻みや嫉妬が渦巻き、挙句の果てに私は鬼女として村々から敵視されることとなる。
なんとか味方に引き入れようと努力はした。だが、どの時代、どの集落、どの部族にも既得権益を持つ者はおり、そうした者たちは素直に私たち鬼人会の傘下に入ることを良しとはしなかった。
呪術を用い、人心を惑わす紅鬼女。
それが私の二つとなって久しく、私は周辺の村々から迫害の的となり、村同士の抗争に発展した。
焼かれ、踏み躙られ、奪われ、殺される仲間達…。
次第に私を差し出すことで難を逃れようとする者達まで現れた。
しかしながら、それでも私を守り続けてくれた者がいた。
黒鬼である。
黒鬼は私の手を取り、焼き討ちにあった村から逃げ出して山に身を隠した。
迫りくる追手に怯える中、私は覚悟を決めることとした。このまま、彼と一緒に命果てる道を選んだのである。
その時、私は一つ気になった。
彼らには名前がなかった。
十数年一緒にいながらも、私は彼のことを黒鬼としか呼んでこなかったのだ。
私は自嘲し、彼に名前を付けることにした。
名を嶽閻と…。
それにより、【名付け】の効果が発動し、嶽閻は【羅刹】へと進化を果たした。
圧倒的な彼の力の甲斐があり、私は難を逃れることが出来たが、同時に失ったものがあった。
優しかった以前の面影は消え失せ、嬉々として修羅場に身を投じ、殺戮の限りを尽くす悪鬼と化していた。
そして、彼は禁忌を犯す。
同族食いを好むようになったのである。
そんな彼を、同郷の者ですら受け入れる者はいなくなった。そしてついに、彼を暗殺する計画が持ち上がった。
戦が終わり、村の平和を祈っての盛大な祭り。英雄として祭り上げられた嶽閻の下に、次々と運ばれる料理と酒。
その中には、強烈な毒が仕込まれていた。
体の自由が奪われ、恨み言を上げる舌さえも動かなくなってきた彼に、村の人々は油を被せ、火をかけたのだ。
その火は瞬く間に嶽閻の体を焼く。
別室に引き離されていた私が異常を感じた頃にはもう遅く、嶽閻は業火に包まれ、力なく倒れていく姿に、私は嶽閻の名を叫び、慟哭した。
私の呼びかけに応えるように、火達磨になっている嶽閻の体がゆっくりと擡げる。
村人たちは戦々恐々としながら、各々に武器を取り、嶽閻の体を突き刺していくが、嶽閻は倒れない。
すっかりと顔が焼けただれ、骸のそれに変わった頃、祭りは惨劇に様相を変え、屍の山を築くこととなった。
そんな彼の良心と言えるものはただ一つ。
私を守るという一点だけだった。
どんな姿になっても、彼は私を守るために片時も離れなかった。
だが、今や彼の顔は見る者を怯えさせ、一層彼の心を孤独にした。
私は以来、何度も試行錯誤をして鎧を作った。
試せることは何でもやった。
それが嶽閻に何度も救われてきた私にとって、精いっぱいの恩返しのつもりだった。
幾年もの時を経て、その鎧は完成した。重量は200kg。常人が身に纏える代物ではなかったが、嶽閻はいとも容易く着こなして見せた。
今となっては材料など分からない。手あたり次第の素材を使ったため、おそらく自然由来の物ではない合金、化合物が大半を占めるのだろう。
そしてその鎧には、魔法耐性が施されていた。
彼を失いたくないという願いか…それとも呪いか…。
後にも先にもそんな伝説級のアイテムを作れたことはなかった。
無敵となった嶽閻に逆らうものはそれ以降一切現れず、島は嶽閻の下で統率されていく。恐怖という共通意識の中、長くバラバラだった鬼人族達は一つに纏まろうとしていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
荒夜にある巨大な火山が大噴火を起こし、それによって各地で連鎖噴火が引き起こされ、島は今も起こり続ける余震と噴煙、有毒ガスに晒され、全ての生き物を排除する死の島となった。
それを機に、私たちは島を出た。
初めての大陸に渡り、棲み処を求め、大陸を放浪する。その道中に、鬼人族の仲間達が一人、また一人と倒れていった。
この大陸に、私達を受け入れてくれるところなどなかった。それに気づいた嶽閻は、あることを決意する。
「俺らがアイツらを支配すればいいんだよ。力を示して従わせればいい。俺たちが王なのだと。」
私は反対したが、飢えと渇きに苦しんでいた仲間たちは嶽閻に賛同した。他者から奪い、虐げる存在になることでしか、当時の私たちが生き残る術を持たなかった。
「我らは王だ…。鬼人会ではちと生ぬるい…。今後我らは【鬼王会】としてこの大陸の種を支配する王となるのだ!!」
嶽閻の檄に仲間たちは応える。その時、私は拳を振り上げることなく、それを傍観した。
もしかしたら、彼は私を本物の魔王にしたかったのかもしれない。そう自分を納得させるしか出来なかった
その結果、私たちは多くの亜人達を何百年もに渡り、苦しめていくことになるなど、当時は想像することすらできなかった。
▮
紅麗尉の悲痛な独白に、魔王は表情を変えない。
「なるほど、君にとって嶽閻は言うなれば命の恩人。共にこの世界を生き抜いてきた戦友といったところか。だが、今更なぜ君がこいつを庇うのだ?」
紅麗尉は唇を震わせ、目を戦慄かせる。
「そ、それは一体どういう…。」
ドォゴォオオオオン!!
突如鳴り響いた轟音に紅麗尉は体を飛び上がらせる。
みると、魔王の拳が紅麗尉の座する目の前の地面を拳で打ち抜いていた。
「私に虚言をかけることは禁じたはずだぞ、紅麗尉?キサマが密かに作り上げていた魔動兵 朱天。あれこそキサマ自身が嶽閻を討つ為に作り上げた代物であることは疑いようなどない!キサマはこいつを殺すことを考えて数百年の時を生きてきた…違うか?!」
魔王の叱責は会場の雰囲気を異様なものに変えた。嶽閻への断罪を期待する視線、紅麗尉への同情、魔王への畏怖。全てが混沌と交じり合い、気味の悪い静寂を維持した。
そんな空気の中、紅麗尉は顔を伏せたまま頷いた。
「仰る…通りでございます。私は命の恩人の死を、誰よりも長い間願っておりました。まさしく、鬼女と呼ばれるに相応しい性無しでありましょう。しかし…。」
紅麗尉は顔を上げる。
見開かれた目からは止めどなく涙が溢れ出る。
「それでも…あたしは…あたしは!彼に死んでほしくない!お願いします!!彼の罪はあたしの罪でもあるはずでしょう?!どうか!どうか!!」
紅麗尉の決死の哀願に、場の空気はここに集う者たちの思いを一つに象り始め、次第に張り詰めた。
「お願い…嶽閻を…助けて…。」
消え入りそうな声が響く中、紅麗尉の背中を軽く叩く大きな手があった。
紅麗尉が振り返ると、そこにはボロボロになった。骸の鬼の姿があった。
「どけ…。ここは魔王殿と余の戦いの舞台。局外者は控えていろ。」
「が、嶽閻…あんた…。」
地に座す紅麗尉を顧みることなく、嶽閻は立ち上がり、魔王の元へとゆっくりと近づく。
「さあ、決着を付けようぞ。」
嶽閻の言葉に、魔王は何の反応も見せない。
屍の妄言を聞くかのように、小さな溜息をついた。
嶽閻が大きく右手を振りかぶる。
「ゆくぞ!!」
嶽閻の言葉を掻き消すように、魔王の脳内に無機質なシステムコールが響く。
『《ディバンク》が発動。対象より、虚偽の発言が行われました。』
次の瞬間、嶽閻の首が魔王の足元に転がった。
それを見て、紅麗尉は戦慄き、押し寄せる悲壮感の波から狂ったような嘆きが押し出された。
「い…いやぁああああああああああ!!!」
紅麗尉は半狂乱になり、嶽閻に駆け寄る。
嶽閻の頭を抱き、慟哭に暮れる紅麗尉の目は、毛細血管が破れ、血の涙となって溢れ出した。
魔王は嶽閻を《超鑑定》で見る。
《凶骸》の残り回数が0になっていた。
魔王は咽び泣く紅麗尉の姿を見て、一つの誓いが頭を過ぎる。
『今度こそ、間違えない…他者の幸福を願い…そして自分が真に幸福だと思えるように…。』
魔王は会場に向き直る。
「断罪はなされた。貴殿らも目撃したように、嶽閻は自らの手で首を差し出し、その罪を贖ったと私は考えるが、相違ないだろうか?」
魔王は観客全員の顔を見渡していく。
長い沈黙の中、魔王は口元を緩ませた。
「しかしながら、嶽閻は死の間際に再び罪を犯した。」
魔王の言葉に、紅麗尉は血で濡れた視線を上げ、魔王を見上げる。
「自分を想う女性の気持ちを無下にし、泣かせたことである。これは大変罪深く、死すら生温い。」
魔王の言葉に、紅麗尉は目を白黒させる。
そして、言葉にならない言葉を紡ぐために懸命に口が動く。当然、言葉にはならない。
会場は騒めき始め、貴賓席では魔王の意図を汲むことが出来たフェルがニヤニヤと笑い、ベルフェルトはほくそ笑んでいた。
「会場に集う諸君らに是非を問う!嶽閻に今一度命の火を灯し、彼女に絶対の忠誠を捧げさせる機会を与えるか否か!挙手をもってその意を示せ!!」
魔王の言葉にフェルが颯爽と手を挙げる。
ゾゾも手を巨大化させて賛成の意を示す。
その流れは大きな波となり、10万を超える観客席の人々が皆立ち上がり、挙手する。
それは次第に喝采となり、声援となった。
その様子を見て、ベルフェルトも目を細めると、小さく手を挙げた。
『嶽閻!嶽閻!嶽閻!!』
会場を埋め尽くす嶽閻コールに、紅麗尉は茫然としていた。そして、涙が熱を持ち始め、珠の様に零れ落ちる。
そんな紅麗尉に魔王は一枚のハンカチーフを差し出した。
「拭け。厚化粧が台無しだぞ。」
魔王の一言に唖然とした紅麗尉は、すぐに言葉を理解し、目元を雑然と拭き取るとハンカチーフを丸めて魔王に投げ返した。
「大きなお世話よ!!」
そう言った紅麗尉の表情は、怒りではなく、少しはにかんだものだった。
魔王はその反応を見て笑みを浮かべると、《カドゥケウス》を振るう。
そして、譲与の魔法を発動したのだった。
▮
ウルルでの興奮冷めやらぬ中、魔王は後の事はフェル達に任せ、魔族領の廃城に足を運んだ。
理由はただ一つ、ベルフェルトとの約束を果たす為である。
久しぶりに訪れるその場所に少し感慨深いものを感じながら、魔王はベルフェルトの待つ部屋の扉を開く。
扉の先には相変わらず廃墟の中には似つかわしくない美しい調度品で飾られた広い部屋と、膝をついて傅くベルフェルトの姿があった。
魔王はベルフェルトの態度に当惑を禁じ得ない。傲慢とまでは言えないが、自信家で不遜な態度を崩してこなかった彼の、低頭低身なその姿には思わず魔王も身構えてしまったのだった。
「お待ちしておりました。魔王 シェブニグラス様。」
敬意を全面に示すその動作と言葉に、魔王は未だ緊張を解けず、表面上の平静を装う。
「う、うむ。待たせてすまなかったな。この地に転移陣がない為、空間転移で直接来れなかった。許せ。」
「とんでもございません。むしろあの後、共に転移門で戻ってくれば何の問題もなかったと今では後悔しております。」
ベルフェルトは立ち上がり、中央に用意された椅子へと魔王を促す。
それはティータイムを共にした簡易なテーブルと椅子ではない。一人掛けの玉座であった。
想定と違うベルフェルトのもてなしに、魔王は二の足を踏んだ。
「ベルフェルト…貴公、どうしたのだ?まるで私を王として扱い、自身をその従者とでも言わんばかりの様だが…。」
「ご明察通りでございます。」
冗談を込めた本音の疑問に対し、ベルフェルトは肯定の意を示す。
困惑する様な状況の中、ただ一つ、魔王を冷静にさせる事実があった。
《ディバンク》が発動していないのである。
その事実は魔王から不安や駆け引きとしての胸襟が解かれ、素直に玉座へと足を向かわせた。
そして、徐ろに腰を下ろす。
深く沈みすぎずそれでいて姿勢を保つその設計は座り心地の良さを感じさせた。
だが、魔王は未だ眼下で平伏するベルフェルトに対し、腰の座らないむず痒さを感じた。
「ベルフェルトよ。私は貴公をこの地で出会った最愛の友だと思っている。右も左もわからなかった私にとって、恩人と言ってもいいだろう。貴公にどの様な心境の変化があったのかは窺い知れないが、楽にしてもらえないか?」
その言葉を受け、ベルフェルトは優しげに微笑んだ。
「畏まりました。陛下が私に向けて下さる親愛の情に添える形で、私も最大限の敬意を払わせていただきます。」
ベルフェルトはそういうと腰を上げ、改めて魔王に対して優雅に御辞儀をして見せる。
「本題に入る前にまず聞いておきたい事が出来た。ベルフェルトよ、貴公のその所作、言動は私に仕える気になったと私は受け取った。何故だ?聞かせてもらえるか?」
ベルフェルトは頷き魔王に視線を向けた。
「簡潔に申し上げれば、貴方様こそがこの世を統べるに相応しい真の魔王だと確信したからでございます。」
「…契約ではこのニブルデッドに住まう全ての種族を統括出来たら…との話だったが?」
魔王の問いにベルフェルトは首を横に振った。
「そのつもりでしたが、それを待っていては勿体ない…そう思えたのですよ。早く貴方の元で、貴方の覇道のお手伝いをしたい。そう、心から思わせられたのです。」
魔王はベルフェルトの嘘偽りの無い言葉に、柄にもなく胸が熱くなった。
前世では、表の成功の裏に多くの恨みを買い、寄る辺ない疑心暗鬼の海を漂うかの様な毎日を送っていた魔王にとってみれば、それは自然な感情と言えるだろう。
《ディバンク》が発動しない事でそうした懐疑的な思考が止まり、素直に相手の賛辞を受け入れる事が出来た。それは今まで経験した事がない程の幸福感で胸が押し潰されそうになった。
「『愛されるよりも恐れられる方が安全。』私はその理念に従って行動したに過ぎないのだがね。」
ベルフェルトはそれを聞いて薄く笑みを浮かべる。
「そして、『君主たるもの罠を知る狐であり、狼を怯えさせるライオンであれ』ですか?」
ベルフェルトの返しに、魔王は虚を突かれた。
「マキャベリの君主論を心得ているとは驚きだな。」
「貴方がただ非道の限りを尽くしながら、亜人種達を力と恐怖で支配する様であれば、私は貴方を殺すつもりでした。」
言葉とは裏腹にベルフェルトの視線は柔らかい。
「しかし、そうではなかった。この度の戦いの中で、貴方はその力を示すことによって圧倒的な恐怖と共に、絶大な信頼を勝ち得ていた。それは貴方に従うことを決めた数多の種族達を見れば一目瞭然というもの…。」
ベルフェルトの言葉に魔王は無言のまま耳を傾ける。
「貴方が求めた『恐怖』とは民心を勝ち取るために絶対に必要な感情だった。畏怖は庇護下にあれば安心安全の担保となり、反乱や犯罪の芽を積むことにもなる。そうした治安と統制は貴方がこれから築いていく国家体制の礎となるのでしょう。ある意味、貴方を突如失うことへの恐怖が有り続ける限り、民心は貴方と共にあり続けるのでしょうね。」
魔王は軽く首を横に振った。
「買い被り過ぎだ。すべからず、こうなったわけではない。私は全てに迷い続け、最善となるカードを切ってきただけだ。あの時も、土壇場で出すカードを改めなければ、私は多くのものを失っていたやもしれない。」
「嶽閻を生かす決断をしたこと…ですね。」
魔王は頷いた。
「私は思い違いをしていた。紅麗尉にとって嶽閻は不倶戴天の宿敵であると。奴を始末する事で紅麗尉は本当の意味で前を向いて進めるのだろうと。あの死合いはそういった打算の上に、私の力を大衆に見せつけるという打算を積み上げて企画したものだった。」
魔王は思わず自嘲する。
「だが蓋を開けてみればどうだ?いざその時という場面になってアイツは大衆の前で土下座し、泣き喚きながら敵の首魁の命乞いをするのだ。悪を断罪する英雄という配役であったはずの私が、一転して弱いものイジメの筆頭にでもなったかの様で、正直言って相当頭に来ていた。」
あの時のことを思い出し、憤慨する魔王に対し、ベルフェルトは堪らず吹き出して笑ってしまった。
それには魔王も憮然顔である。
「笑い事ではない。紅麗尉を例外としても荒虎衆は全員斬首に処すと決めていたのだ。それなのに筆頭主である二人を生かすなど、あまりに危険だ。反乱の因子を敢えて抱える様なもの。当然受け入れられるものではない。直前まで私はそう考えていた。」
「しかしながら、その考えを180度変えた。その理由をお聞きしても?」
魔王は気不味そうに顔を背ける。
「この世界に転生する前に誓ったことがあってな。もう二度と、私は間違えない…と。自分の幸福の先にあるものが他者の幸福であり、それが可逆的に成り立つものだけを信じて行動しようと…。」
魔王は顔を上げ虚空を見つめる。それはまるで自分自身と向き合っている様でもあった。
「アイツの泪に絆されたか…大衆が作り出した空気に流されたか…。このまま嶽閻を断じても、誰も幸福にならず、私自身も薄ら昏い思いを抱えるだけだと思い立った。」
ふっと魔王が笑う。
「だが、振り上げた拳の行き場を無くし、簡単に前言を撤回する事が出来なかった私は、決断を民意に委ねた。民主主義じゃあるまいし、王として失格と言える大失態だよ。」
自らを卑下する魔王に対し、ベルフェルトは首を横にを振った。
「確かに、私も思うところがないわけではありませんでした。しかしながらそれが貴方の魅力なのだろうとも感じましたよ。あの時、真っ先に手を挙げたフェルさんとゾゾさんは、そんな貴方だからこそ敬意と親愛の情を絶やさないのでしょう?」
魔王はしばらく無言になり、はにかんだ様にベルフェルトから目を背けた。それを見てベルフェルトはクスクスと笑う。
「そして、あの決断のお陰で紅麗尉さんは改めて貴方に、絶対の忠誠を誓った筈ですよ。王のプライドを捨てたあの決断があったからこそ、貴方は全てを失わず今日を迎え、そして私もまた、貴方と共に在りたいと願う事となったのですから。」
ベルフェルトは改めて膝を突き、平伏する。
「魔王 シェブニグラス=インフェルド陛下。不詳ながら、この私を陛下の直属にお迎え下さい。身命と真名を賭して、陛下に忠誠を捧げる事を誓います。」
誓いの言葉に、魔王は耳を疑う。
「真名…それは真名契約をするということに相違ないのか?」
ベルフェルトはしっかりと確かに頷いた。
「もう一度…見せていただきたい。魔王と共に見る世界の景色を…。」
ベルフェルトの揺るぎない決意に応える様に、魔王は玉座から腰を上げると深く頷いたのだった。




