第十七話
最初に動いたのはライオだった。
「カイル、入口。エヴァは奥を見ろ。ノアはそこで待ってろ」
長杖の先を室内へ向けたまま、半開きの扉を靴先で押す。
蝶番がひどく錆びた音を立てた。
「ノアさん、下ろします」
エヴァンジェリンが入口脇へ片膝をつく。
ノアは彼女の肩から腕を解き、壁へ手をつきながら左脚を床へ下ろした。続いて右脚へ体重を移した瞬間、膝の内側に鈍い痛みが走る。
「っ……」
思わず曲げた右腕にも、肩から遅れて熱が広がった。
エヴァンジェリンが振り返る。
「ここにいてください」
「はい」
大丈夫です、とまでは言えなかった。
彼女はノアが壁へ背を預けるのを確かめると、大剣の柄を短く持ち、ライオに続いて室内へ入った。天井の低い保守室では、あの長い刃を振り回すことはできない。それでも片手で支えた切っ先はほとんど揺れず、倒れた机の陰を一つずつ追っている。
ライオは黒ずんだ筋を踏まないよう、扉の脇へ足を置いた。
「人はいねぇ」
「点検蓋の奥は分かりません」
「分かってる。カイル、そのまま外を見てろ」
「了解」
古い機械油。湿った石材。長く動かされていない布や紙の埃っぽい匂い。
ライオが作業台の下へ長杖を差し込み、倒れた椅子を退けた。
床に広がった暗い染みが、照明の下へ露わになる。
「数時間以内にできたものではありませんね」
エヴァンジェリンが言った。
「見りゃ分かる」
染みの表面には細かな亀裂が走っていた。その一部を横切って、何か重いものを引きずったような二本の跡が伸びている。跡は壁際まで続き、四角い点検蓋の前で途切れていた。
ノアは入口から身を乗り出した。
「ライオさん。そのレンチ……ラチェットですか? それを見せてもらえますか」
「触るなよ」
「触りません」
ノアは部屋の中へ入り、床に落ちていた大型ラチェットの脇へしゃがんだ。
追いかけるようにカイルが一歩部屋へ踏み入って、退路である扉を見張りながらもちらちらとノアの様子を見守っている。
「床や机と埃の被り方が違います」
「ここに残ってた道具じゃねぇってことだな」
「はい。それに、油でしょうか……? まだ渇いていないものがついています」
工場に染みついた重い鉱物油の臭いとは別に、レンチの可動部からは薄い潤滑油の匂いがしていた。最近まで手入れされ、使われていた工具だ。
ライオはそのラチェットへ触れず、その位置を試験端末で記録した。
「人が入った痕跡はあんのに、死体も怪我人もいねぇ。扉にこじ開けた跡もなし」
「試験の設営職員でしょうか」
「だとしたらここは試験区域から外されてる。ここへ入ったのは五班の連中だろう。血痕は知らん」
エヴァンジェリンは答えなかった。
ライオが長杖の先で、点検蓋の取っ手を軽く押す。蓋は動かない。外から施錠されている様子はなかったが、枠ごと床へ固着しているようだった。
その時、わずかに床が震えた。
一度だけではない。
低い振動が数秒続いて止まり、少し離れた場所からまた始まる。さらに止まり、今度は保守室の真下に近い位置で鳴り始めた。
「これ……たぶん冷却補助系統の動作だとおもいます」
ノアは壁へ手をついた。掌を通して、古い配管の震えが伝わってくる。
「五班のひとたちかな?」
カイルが入口の外を警戒したまま聞く。
「……おそらくは」
点検蓋の縁に積もっていた埃が、細かく震えた。
隙間から冷たい空気が漏れ出し、巻き上げられた埃が床を這う。
「下は埋め立てられてるはずだ。エヴァ、図面確認しろ」
ライオの指示にエヴァが腰のポーチから端末を取り出して図面を表示させた。
ノアが横から覗き込むのをエヴァは嫌がらずに受け入れる。現在地の下は灰色で塗り潰され、配管も通路も記されていない。点検蓋を示す記号だけが取り残され、その先には小さな文字で使用不能と表示されていた。
「確かに埋め戻し済み区画になっています」
「じゃあ、この風はどこから来てやがる」
答えられる者はいなかった。
図面の端には、試験区域の安全情報が重ねて表示されていた。
室内へ、また低い起動音が響く。
今度は真下だった。
机の上に積もった埃が薄く広がり、乾いた血の亀裂から小さな欠片が剥がれ落ちる。
人がここで傷ついた過去の痕跡。その下を、いま目を覚ました何かが通り過ぎていく。
それなのに、エヴァンジェリンの試験端末には異常を示す色が一つもなかった。
冷却圧、正常。
還流量、正常。
安全機構、正常。
構造震動、許容範囲。
すべてが、ひどく整っていた。
「ライオさん」
「分かってる」
ライオは端末の画面を指した。
「この表示、信用すんな」
その直後、試験端末が鋭い警告音を発した。
画面全体が暗転し、中央へ赤い枠が浮かび上がる。
――緊急通達。
――発信者署名を照合中。
短い表示の後、枠の中へ一つの名前が現れた。
アルマ・グレンデル。
発信者本人の固有署名と、試験本部の緊急認証。二つの照合結果が、どちらも確認済みを示している。
『全班へ通達』
端末から聞こえたアルマの声は、普段よりわずかに硬かった。
『現時刻をもって、ゼリウス第三区域における昇級試験を中止する。全課題を破棄し、指定された経路から直ちに帰投せよ』
エヴァンジェリンが大剣を下ろさないまま、端末へ視線を向ける。
『繰り返す。試験は中止だ。第三監視区域から取得される位置、映像、音声、感応波形、設備情報は信用するな。現場での確認を優先し――』
音声が歪んで、途絶する。
「撤収だ」
アルマの声が終わるより先に、ライオは言った。
「血と工具の位置は記録した。カイル、出ろ、警戒は緩めるな。エヴァはノアを運べ」
「理由を確認しなくていいの?」
カイルの問いに、ライオは端末を外套へ収める。
「あの人の判断を疑う理由がねぇ。戻るぞ」
迷いのない声だった。
カイルは何も言い返さず、複合盾を踊り場の内側へ引いた。完全には収納できない杭が内部で引っかかり、鈍い音を立てる。
エヴァンジェリンも大剣を背負い直し、ノアの前へしゃがんだ。
帰る。
一度そう決まると、保守室に満ちていた不気味さが少しだけ遠ざかった。
血痕も、レンチも、図面にない空間も、自分たちが解き明かすものではない。試験が中止された以上、ここから先は試験官や救助を専門とする人たちへ引き渡せばいい。
ノアがエヴァンジェリンの肩へ腕を回そうとした時だった。
ごん、と重い音がした。
全員の動きが止まる。
音は保守室の中から聞こえた。
続いて二度目。
ごん。
床へ固着していた点検蓋が、枠の中でわずかに浮いた。
三度目の衝撃で、蓋の隙間から埃が噴き上がる。
「中に誰かいます!」
エヴァンジェリンが立ち上がり、大剣へ手を伸ばす。
「待て」
ライオは長杖を点検蓋へ向けた。
カイルも複合盾の向きを変え、入口ではなく室内を塞ぐ。
蓋がもう一度、下から持ち上がった。
今度は人の声が混じる。
「――誰か、いるのか!」
聞き覚えのある女の声だった。
ライオとカイルが目を合わせる。
「第五班の班長です」
エヴァンジェリンが言った。
返事の代わりに、蓋の下から激しく咳き込む音がした。
「手を貸せ! こいつを上げたい!」
ライオは長杖を向けたまま、点検蓋の脇へ寄る。
「今開けるが、すぐに動くな。妙な動きをしたら燃やすからな」
「……相変わらずだな、第三班。わかった、それでいい、早くしてくれ」
「カイル、開けてやれ」
「はいはい」
エヴァが背後にノアを庇いながらカイルと位置を入れ替えた。彼は左手の盾を構えながら器用に右手でその重厚な蓋の取っ手を掴んで開けていく。一気にすべて開かないのは警戒の証拠なのだろう。
半分ほど開いた蓋の隙間から、短い茶髪と片方に切れ込みの入った猫耳が覗く。血がこめかみから頬へ筋を作り、片耳は力なく伏せられていた。
先ほど別れた時とは明らかに違う。
「っ! 今開けるよ!」
金属の蓋が完全に開け放たれる。
「先にこいつを頼む」
最初に上がってきたのは、第五班の盾役だった。
猫耳の班長が下から押し、カイルが両腕を掴んで引き上げる。男は意識こそあったが、自分の脚では立てなかった。左脇から腰にかけて作業着と防具が裂け、応急処置らしい布が赤黒く濡れている。あの薄い盾は真っ二つに割れ、すでに用をなさなくなっていた。
「壁に寄り掛かる? 寝転ぶ?」
カイルが男の背へ腕を回す。
「悪いな。さっき、散々やった後で……適当に転がしてくれ」
「喋らなくていい」
「そうする」
男は短く答え、それきり目を閉じた。呼吸は浅く、額には汗が滲んでいる。
続いて第五班長が穴から這い上がった。
右脚を庇ってはいたが、自分で立てる。長剣も腰に残っている。ただし左手首の金属環はひしゃげ、表面の一部が黒く焼けていた。
彼女は床へ寝かされた盾役の傍らへ膝をつく。
「血を流しすぎている。応急処置では限度がある。緊急回線で救援を呼んでほしい」
「お前が班長か」
「……テッサだ。そっちはベルン」
「何があった」
ライオが聞く。
テッサは答える前に、室内の四人を数えた。ノアで視線が一度止まり、すぐに戻る。
「冷却補助系統を復旧した。私たちの課題だ」
床下で、また設備の起動音が響いた。
「復旧を完了した直後、旧導管側の設備まで勝手に動き始めた。退路を塞ぐように隔壁が降りて、図面にない区画へ追い込まれて襲撃を受けた」
「誰にだ」
「分からない。…………ヒトではない」
テッサの指が、わずかに震えた。
「少なくとも、試験用の仕掛けではない。あんなものが課題に含まれているはずがない」
カイルがベルンの傷口へ新しい圧迫帯を重ねる。布へ滲む血を見たノアは、点検蓋から伸びる古い引きずり跡へ視線を移した。
この二人の血ではない。
では以前にも、同じ場所から誰かが上がろうとしたのか。あるいは、引きずり込まれたのか。
「ほかの二人は」
エヴァンジェリンが聞いた。
「ルッツと、協力員のネレスが下に残っている。最後に見た時は二人とも生きていたが、隔壁で分断された」
「救難信号は」
「送った。三度」
テッサが自分の端末を床へ置く。
ひび割れた画面には、三件の救難要請が並んでいた。そのすべてに受理済みの表示がある。
「応答はなかった。お前たちの端末でも試してほしい」
ライオが画面を覗き込み、眉を寄せた。
受理済みの表示はある。だが、三件のどれにも試験本部の受領署名が付いていない。
端末がそう表示しているだけで、本部へ届いた証拠はなかった。
「ちょっと待ってろ」
ライオがテッサの報告と現在位置を入力し、試験本部へ送信する。
画面にはすぐ、送信完了と表示された。
だが、いつまで待っても本部側の受領署名は返らない。
「届いていません」
ノアが言う。
「だろうな」
ライオは端末を閉じた。
それからテッサへ向き直る。
「試験は中止だ。さっき本部から通達があった。そいつを連れて帰還する」
テッサは、ベルンの肩へ掛けていた手を動かさなかった。
「断る」
「交渉してるんじゃねぇ。帰還命令だ」
「わかっている。ベルンは連れていってくれ」
テッサは腰の長剣を確かめ、立ち上がろうとした。
「私は二人を迎えに戻る」
「一人で?」
カイルが圧迫帯を押さえたまま顔を上げる。
「ほかに誰がいる」
「俺たちがいる」
カイルはそう言って視線をライオへ移す。
「勝手に頭数へ入ってんじゃねぇ。帰還だ、聞こえなかったのか」
「生きてるって分かってるんだろ。置いて帰るの?」
「俺たちが戻れば救助班が入る。血ぃ流してる奴と、まともに走れねぇ奴を抱えて二次被害を増やすよりマシだ」
「でも、救援要請が本部へ届いてるかも分からないんだよね?」
「だから直接戻って報告すんだろうが。理屈は知らんが異常事態そのものは向こうも把握してるみてぇだし、対応は早いはずだ。……てめぇ職業倫理についての講習を受けてねぇのか?」
ライオの声が一段低くなる。
「助けに行った俺たちまで二次被害を受けたら、本末転倒だっつってんだ。三度目は言わねぇぞ」
カイルは口を閉じた。
代わりに答えたのは、エヴァンジェリンだった。
「受けています」
ライオが彼女を見る。
エヴァンジェリンはまっすぐに視線を返した。
「要救助者の推定生存時間が、外部救援の到達時間を下回る場合、初動要員には現場判断が求められます」
「状況からして間に合わない、なんて話なら聞かねぇぞ。時間と根拠を出せ」
「分かりました」
エヴァンジェリンはテッサへ向き直る。
「二人の最終位置は」
「ここから保守階段を下り、旧導管沿いに百五十メートルほどだ。間の隔壁は一枚だろう」
「負傷は」
「ルッツは首と左肩。ネレスは右脚と肩の鱗を損傷している。どちらも自力歩行はできていた」
エヴァンジェリンが小さく頷く。
「あの二人……特にルッツさんは、顔を強かに蹴りましたので。万全には動けないかと」
ライオが眉間へ皺を寄せた。
「……あいつ、よく首もげなかったな」
エヴァンジェリンはわずかに首を傾げた。
「加減はしました」
「お前の加減は聞いてねぇ」
床へ横たわったベルンが、目を閉じたまま小さく笑った。すぐに傷へ響いたのか、顔をしかめる。
テッサは笑わなかった。
「隔壁が落ちた時、あれは私たちの側にいた。この男が押さえている間に、私たちは保守口まで退いた」
「なら、残った二人は安全なんじゃないの?」
カイルが聞く。
「アレはダクトを移動していた。ダクトのある場所ならどこへでも移動できると考えるべきだ」
保守室から笑みが消えた。
「あれが二人へ向かったと?」
「断定はできない。だが、最後の通信でルッツが何かを引きずる音を聞いている。その後に途絶えた」
「外部救助班は試験区域の外周に待機しています」
エヴァンジェリンが言った。
「試験設計上不使用となっている区画です。外部救助班は経路を確認しながら侵入することになります。この保守室へ到達し、さらに下層の構造を確認していては時間がかかりすぎます」
「その経路が正しいって保証もなくなったけどね」
カイルが試験端末を見る。
ライオは舌打ちしたが、否定はしなかった。
「カイル、エヴァ。ベルンとノアを連れて帰還しろ。俺とテッサで二人を回収する」
カイルはすぐには返事をせず、ベルンの脇へ膝をついた。圧迫帯の外側に新しい血が滲んでいないか確かめ、呼吸を数える。
「ベルンはいま動かさない方がいい」
「理由は」
「圧迫止血で一時的に出血は止まってる。呼吸もさっきより安定した。ここから担いで階段を下ろす方が、傷が開く可能性が高い」
「ここへ一人で残せってのか」
「試験は中止されたんだよね。帰還しない班があれば、救助班は投入地点から順に捜索する。この部屋は試験区域の図面に載ってるし、入口へ標識を残せる」
図面外の地下へ連れていくより、既知の場所で安静にさせた方が発見も処置も早い。
ベルンが薄く目を開けた。
「俺も……その方が、ありがたい」
掠れた声だったが、意識ははっきりしていた。
ライオは一度だけ苛立たしげに頭をかき、テッサへ向き直る。
「テッサ。二人を閉じ込めてる隔壁は、どういう状態だ」
「閉じ切っている。非常開放は反応しなかったが、正規手段でなら開放できるはずだ」
「ほかには」
「制御盤は完全封鎖の工程に入ったと表示していた。一定時間は制御室からの開放も受け付ける構造だが、その後は制御盤の直接操作による正規開放しか受け付けない。ここへ退避するまでに受付時間はもう過ぎてしまっている」
ライオは短く頷いた。
「つまりは直接操作の正規開放だけが救出手段ってことか、クソが」
ライオの不愉快そうなつぶやきに一度目を伏せてから、テッサは続ける。
「制御盤は非常に古い形式だった。隔壁の脇にある黒い筐体で、上部にパネルがあるタイプだ。手動開閉用のハンドルは差し込みタイプで、ハンドルそのものがどこにあるかはわからない。パネル操作で開ける必要があるだろう」
その特徴には聞き覚えがあった。
セブンスヘブンの機関区画にある圧力隔壁。そこに据えられた制御盤も同様のタイプだ。以前、熱喰らいに襲撃された際に封鎖されていた隔壁がそういう構造だったはずだ。
「……似ています」
全員の視線がノアへ集まった。
「何にだ」
「セブンスヘブンの圧力隔壁です。ガンツさんから、古い設備は船でも工場でも、保安装置に共通の部品が使われていると教わりました」
「同じもんなら開けられるか」
「分かりません。同様のタイプなら対応はできます。……連れて行ってください」
開けられるとは言えなかった。ただ、まったく知らない機械でもなかった。
「セブンスヘブンのものと同じなら、俺でも対応できる。ならノアはここに残るべきだと思う。軽いものでも、捻挫した非戦闘員が行く必然性はないよ」
カイルがすぐに言う。
右膝が疼いた。深く曲げることもできない。
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
「パネルが故障していたら? もし類似はしていても別の機構で、カイルさんが対応できない形式だったら? 僕なら、修理できます。場合によっては回路をいじって無理やり開ける事もできると思います。……本気でおふたりを救出するなら僕も行くべきです」
ノアは言い切ってしまってから、そこまで言った自分自身に驚いていた。
本当は自信なんてない。カイルだけでも対応できるかもしれない。本当に壊れていたら、修理もできないかもしれない。
それでも、自分が動かなかったことで助かるかもしれない誰かの命が失われるかもしれないという恐怖心……そこからくる使命感がノアの背中を押していた。
「連れていってください」
ライオは返事をしなかった。
一人ずつ、装備と身体を確認していく。
横たわるベルン。右脚を庇うテッサ。呼吸の深いエヴァンジェリン。傷だらけの複合盾を押さえるカイル。そして、右膝を庇って立つノア。
「カイル。盾はどこまで使える」
「パイルは当面は使えない。でもチェーンフックとライトはまだいける。防御面にも問題はないよ」
「エヴァ。最悪ノアを支えたまま戦えるか」
「背負ったままでは難しいですが、抱えていいなら回避に徹する分には問題ありません。わたしの剣のほうがずっと重い」
「てめぇ道は忘れてねぇだろうな」
「馬鹿にするな。それに万が一忘れていても、匂いでわかる」
ライオは目を閉じ、短く息を吐いた。
試験本部からの帰還命令は正しい。あの命令が発された時点では、それが最も多くの人間を生かす判断だった。
けれど本部は、第五班の二人が隔壁の向こうに残されていることを知らない。
送信完了の表示はあっても、新しい事実が本部へ届いた証拠はない。
「現場判断ってのは嫌いなんだがな」
ライオが顔を上げ、最初にベルンを指す。
「ベルンはここで待機。動かさねぇ。救助標識と処置記録を入口へ残す」
次にノアを見る。
「ノアは隔壁を開けるまでだ。戦闘になったらエヴァに持たれてろ、邪魔だ」
「はい」
「カイルが前。テッサは道案内。俺が後ろを見る」
最後にテッサへ視線を止める。
「……開放不能と判断した時点で打ち切る。反対は認めねぇからな」
テッサの伏せられていた猫耳が、わずかに起きた。
「承知した。恩に着るよ」
「勝手に着てろ」
ライオは外套から白い布を取り出し、保守室の扉へ結びつけた。試験用の救助識別布だった。
カイルとテッサは、ベルンを入口から離れた作業台の陰へ移す。裂けた防具を外し、止血帯を巻き直す。折れた椅子と金属棚を重ね、点検蓋から直接姿が見えないよう遮蔽を作った。
エヴァンジェリンは帰還経路側の壁へ、救助対象一名、室内、重傷と大きく書く。ライオはその下へ時刻と第三班の識別番号を加えた。
通信が嘘を返しても、壁に残した文字までは消せない。
「悪い。少し待ってて」
カイルがベルンへ言う。
「すまない。二人を頼む」
「ああ。俺達に任せて……!」
男は目を閉じたまま、口元だけを僅かに上げた。
カイルが立ち上がり、複合盾を固定する。放熱板はまだ閉じきっていない。
テッサが先に点検蓋へ脚を下ろす。そしてカイル、エヴァンジェリン、ノア、ライオと続く。かなり角度が急だがかろうじて階段状になっている。だからこそテッサ一人でなんとか人一人を抱えて登ることが出来たのだろう。
四十段近い保守階段の先にあったのは、冷却設備のための地下通路ではない。
搬入路だった。
石を敷き詰めた道の両側に、煉瓦造りの工場棟と倉庫が並んでいる。建物の壁を穿って太い冷却導管が渡され、道幅いっぱいの鋼鉄製遮断扉が、少し離れた交差路を塞いでいた。二階部分を押し潰すように、その上へ築かれた現在の工業区の基礎。
天井から伸びる冷却管には結露が浮かび、雫が錆びた荷役設備へ落ちていた。
現行図面では、存在しないはずの工廠区だった。
「……工場?」
「旧第三工廠区。事故のあと封鎖されて、その上に今の工業区が増築されたって聞いたことがある」
ノアのつぶやきに答えるカイルの声が、並び立つ工場棟の間へ妙に響いた。




