第十六話
エヴァンジェリンの唇に浮かんだ笑みが消えるより早く、前方の短剣から二つの光が立ち上がった。
まだ放たれてはいない。
けれどノアには、右の一つが胸の高さを、遅れて生まれる左の一つが逃げ道を塞ぐように腰の高さを通る光の線が見えていた。
「右から二つ。二つ目が少し遅いです!」
「分かりました」
エヴァンジェリンは振り返らなかった。
「では、避けてください」
「えっ」
「信じます。無理になったら、必ず言ってください」
短剣の切っ先で励起光が弾けた。
ノアは咄嗟に身を低くしようとして、膝を曲げるだけでは間に合わないと気づいた。胸元を通る一発目。その下を潜れば、腰を狙う二発目が待っている。
避け方を考えている時間はなかった。
両手を床へ突き、ほとんど倒れ込むように頭から前へ飛び込む。
一発目が銀髪の上を掠めた。続く光弾は浮いた腰のすぐ後ろを抜け、壁へぶつかって乾いた破裂音を立てる。
避けた。
だが、受け身など取れるはずもない。手袋越しにざらついた石床が掌を削り、右肩を床へ強く打ちつけた。肺から空気が押し出される。
「っ、ぐ……!」
痛みに止まることさえ許されなかった。
背後の男が持つ定義器。その鈍色の先端に、次の光が細長く引き伸ばされていく。床すれすれを這い、伏せたノアの足首へ巻きつく軌道だった。
「後ろ、足元!」
起き上がって跳ぶ余裕はない。
ノアは床に手をついたまま、身体を横へ投げ出した。肩、背中、腰の順に硬い床へぶつかる。勢いを止められず、最後には積み上げられていた空の資材箱へ背中から突っ込んだ。
耳元で箱の潰れる音がした。
直後、光の鞭が床を薙ぐ。巻き上げられた石片が頬へ当たり、細い痛みを残して跳ねた。
「……本当に、見えているんですね」
エヴァンジェリンの声に驚きが混じった。
ノアは潰れた箱の中から這い出しながら、どうにか頷いた。右肩が熱を持ち、打ちつけた背中が息をするたびに痛む。避けられる。けれど、どう避ければ次に動けるのかまでは分からない。
「見えては、います。避け方は……分かりません」
「十分です」
即答だった。
エヴァンジェリンは大剣を握る両手の間隔を広げた。
「どこから来るかだけ、教えてください。避けた後のことは私が考えます」
前方の短剣が、再び甲高い励起音を発する。
同時に、背後の定義器へも光が集まり始めた。
ノアは潰れた箱へ片手をつき、震える膝を立てる。
「前、三つ。真ん中が先です。後ろは――まだ来ません!」
「了解しました」
エヴァンジェリンが踏み込んだ。
彼女は真ん中の光弾だけを刃の腹で弾く。右から来た一つが彼女の肩口を通り過ぎ、ノアへ向かうが、もとより軌道は見えている。ノアは立ち上がりかけた姿勢を自分から崩し、エヴァンジェリンの背後へ転がり込んだ。光弾が頭上を抜ける。
左の一つは壁へ当たった。砕けた煉瓦が降りかかり、ノアは腕で顔を覆った。
その間にも、エヴァンジェリンの剣は動き続けている。
光弾を弾いた勢いのまま刃先を下げ、床すれすれを横に薙ぐ。前方の男は短剣で受けず、大きく後ろへ跳んだ。幅のある刃が通路脇の古い作業台を巻き込み、固定具ごと床から引き剥がしながら真っ二つに両断する。
工具が甲高い音を立てて散った。
しかしエヴァンジェリンの刃は止まらない。遠心力に身体を預けて一回転し、刃を肩の上へ戻す。踏み込む足が床の工具を蹴り、一本のレンチが壁際へ跳ねた。
前方の男が、回り込むように左へ動く。エヴァンジェリンは肩へ戻した大剣を斜めに振り下ろし、その逃げ先を追ってさらに踏み込んだ。
男が短剣で刃の側面を叩き、軌道を外へ逸らす。刃先が床を擦った。
それでもエヴァンジェリンは止めない。逸らされた勢いのまま刃を身体の後ろへ回し、次の横薙ぎへつなげる。一撃ごとに長い柄と重い刃が生んだ勢いを次へ渡し、連撃の速度を上げていく。
男はそれを捌くことに追われ、もはやノアへ注意を向ける余裕を失っていた。
しかし背後の男は違う。エヴァンジェリンがノアから離れたのを幸いと、ひたすらにノアだけを狙った動きを繰り返す。光の鞭を自在に操り、ノアの退路を塞いでいく。
「エヴァンジェリンさん、右を開けてください!」
彼女の連撃の角度が変わる。
通路の前方、右側に大きな空白が作られる。
ノアは半ば這いずるような必死の動作でそこへ滑り込むと、そこにあった金属の棚を掴んで引き倒した。
金属棚が大きな音を立てて崩れ、光の鞭の軌道を遮る。粘つく光の帯が棚へ巻きつく。
「ぬっ!?」
光の鞭を引き戻すことができず、後方からの攻撃が止まる。
「いまです!」
ノアは倒れた棚を盾にしながら通路の脇へと飛び込むように退避する。着地した足が散らばったボルトを踏み、盛大に滑る。転がる体にボルトやら工具やらが食い込んで痛い。
しかしエヴァンジェリンは、ノアが作った隙を無駄にはしなかった。
大剣を床へ突き立て、両腕で柄を押す。浮かせた身体を振り子のように前へ送り、鋼鉄のガードがついたブーツを男の顔面へ叩き込んだ。
「っ!?」
頭を揺らされた男がたたらを踏み、そのまま倒れる。
エヴァンジェリンは着地と同時に大剣を引き抜き、身体を返した。数歩で金属棚へ迫ると、片手で棚の枠を掴み、光の鞭が巻きついたまま持ち上げる。その勢いを殺さず、通路の後方へ投げ返した。
「何っ!?」
鞭を引いていたことが災いし、鱗の男は避ける方向を選べなかった。投げ返された棚が正面からぶつかり、轟音とともに男を押し倒す。
ほどなくして轟音の反響が収まり、さっきまでの戦闘が嘘のような静けさが通路を包んだ。
「動けますか」
「はい」
「なら、進みましょう。あの程度なら二、三分もすれば起きてくる」
エヴァンジェリンは呼吸を整える間もなく、大剣を構え直した。
そのまま石突きで、倒れた男の手元に残っていた短剣を通路脇へ弾く。
ノアも散らばった工具へ手をつき、どうにか身体を起こす。踏み出した右膝が痛んだが、立ち止まって確かめている暇はない。
二人は倒れた男の脇を抜け、設備間通路の先へ急いだ。
進むにつれて、遠くに聞こえていた衝撃音が腹へ響くほど近くなる。続いて石材の砕ける音と、何を言っているのかまでは聞き取れないライオの怒声が通路を抜けてきた。
出口の手前には、瓦礫と鉄片を圧縮した腰高の壁が斜めに置かれていた。通路を完全に塞ぐのではなく、通れる位置を左端の一か所へ限定している。抜ける場所を選ばせ、動きを読めるようにするための壁なのだろう。
エヴァンジェリンは大剣を立て、長い柄を身体へ寄せながら先にそこを抜けた。ノアも壁へ肩を擦りつけるようにして後へ続く。
開けた視界の先には、同じような小壁がいくつも点在していた。
真っ直ぐには並んでいない。カイルの進路を狭めるもの。ライオからこちらへの射線を切るもの。第五班の盾役が後退する先を隠すもの。カイルが隙間を選ぶたび、盾役と班長が先回りし、ライオとの距離を広げている。
その一つの向こうに、傷だらけの複合盾を構えたカイルがいた。
視線が重なった。
「ノア!」
カイルがこちらへ踏み出そうとする。
その進路へ、第五班の盾役が滑り込んだ。薄い盾を斜めに構え、カイルの複合盾を外側へ流す角度を取る。
だが、エヴァンジェリンは足を止めなかった。
「その人を押さえてください!」
大剣を低く構え、点在する小壁の間へ走り込む。
ノアも後を追った。痛む右脚は最初の一歩から遅れ、開いた距離が縮まらない。
前方には通れる隙間が三つあった。最も広い中央を盾役が塞ぎ、エヴァンジェリンはその左を抜けようとしている。
猫耳の班長が左手を下げた。
ノアの視界で、エヴァンジェリンの進路を塞ぐ位置へ線が立ち上がる。
「左、塞がります! 中央へ!」
エヴァンジェリンが床を蹴った。
左の隙間へ集まり始めた石片を背後に置き、盾役のいる中央へ進路を変える。
男の視線が、迫る大剣へ一瞬だけ動いた。
薄い盾の角度が変わる。
カイルはその一瞬を逃さなかった。
左腕を振り、盾役が構える盾の上端へチェーンフックを撃ち込む。鉄の鉤が縁へ噛みつき、鎖が張った。
男は即座に盾を外へ傾け、鉤を滑らせようとする。
カイルは巻き取らず、一歩右へ回った。
鎖が盾の表面を斜めに横切り、男の左腕を外側へ引く。盾を傾けて衝撃を流そうとしても、角度を変えるたびに鎖が張って構えを引き戻した。
「ライオ、班長を止めて!」
「何秒だ!」
「三秒!」
「三秒で片づけろ!」
点在する小壁の隙間を縫い、炎弾が猫耳の班長の足元へ落ちた。
石床が爆ぜる。班長は集めかけていた石材を放棄し、腕で顔を庇いながら後ろへ退いた。
カイルが巻き取り機構を作動させる。
鎖に引かれ、盾役の腕が上がった。
男は後ろ足を踏ん張る。引き寄せられる力を利用し、カイルの突進を外へ流すつもりなのだろう。薄い盾を斜めに構え直そうとする。
だが、上端を鎖で引かれた盾は、必要な角度まで傾かなかった。
「盾を奪う気か?」
「違うよ」
カイルは鎖を巻き取りながら、自分から男との距離を詰めた。
「そこを空けてほしいだけ」
複合盾の下部で、パイルバンカーが引き絞られる。
太い杭が、男の盾の中央へ押し当てられた。
直後、腹の底を揺さぶる衝撃が廃工場を貫いた。
受け流す角度を作れなかった盾役の身体が、真後ろへ押し出される。
一歩。二歩。
三歩目で、男の踵が背後にあった低い壁へ当たった。倒れまいと身体を横へ逃がし、その壁の裏へ退く。
それまで男が塞いでいた隙間から、ノアにはライオの姿が見えた。
ほんの少し前まで、壁と人影に遮られていた場所だった。
カイルはすぐにその隙間へ入った。
猫耳の班長へ複合盾を向け、自分の背後をこちらへ開ける。
班長が再び床の石材へ手を伸ばす。だが、その手元へライオの次の炎弾が落ちた。集まりかけた石片が散り、壁の構築が止まる。
カイルの盾から細い警告音が鳴り始めた。
側面の放熱板が開き、熱せられた空気を吐き出す。杭は戻りきらず、半ばで一度引っかかってから鈍い音を立てて収納された。
それでもカイルは盾を下ろさなかった。
「エヴァ! ノアを連れてこっちへ!」
小壁の間に残されていた狭い通路。その入口へカイルが盾を差し込み、第五班からの直接攻撃を遮っている。
土煙の向こうで、カイルがこちらを見た。
無理をしている時の、少しだけ明るすぎる笑顔だった。
エヴァンジェリンは目前の隙間を抜けず、大剣を引いて踵を返した。
「行きます」
今度は柄尻ではなく、ノアの作業着の袖を掴む。
引かれて走り出した直後、盾の陰で見えなかった床からエーテルの流れが立ち上がった。二人の進路を横切るように、散らばった石片と鉄屑へ伸びている。班長が先に仕込んでいたものだ。
「二歩先、壁が出ます!」
エヴァンジェリンは速度を落とさず、左へ進路をずらした。
ノアの身体だけが元の方向へ残り、掴まれた袖に引き回される。足が交差し、転びかけたところをカイルに作業着の襟ごと掴まれた。首が締まり、情けない声が漏れる。
直後、二人が通るはずだった場所へ石片と鉄屑が滑り込み、圧縮されて膝高の壁を作った。
「走れる?」
「た、たぶん」
「じゃあ走って!」
背を押される。三歩目でようやく足が身体へ追いついた。
小壁を一つ回り込むと、長杖を構えたライオがいた。外套の裾は焦げ、右の頬には浅い裂傷が走っている。
「遅ぇ!」
「すみません!」
「お前じゃねぇ!」
答えながら、ライオは杖を横へ振った。
炎が一線に走り、追ってきた盾役の足元を横切った。男が薄い盾を前へ向けたまま足を止める。すぐに杖先の光が消えた。次の術式へ切り替える、一瞬の空白。
猫耳の班長は新しい壁を足さなかった。
先ほど下げた左手、その手首を覆う金属環に外見上の変化はない。
だが、ノアには見えていた。
励起光になるより前、周囲から金属環へ集まっていたエーテルの流れが、壁を作り終えた途端にほどけている。散った流れは金属環の周囲へ広がったまま、すぐにはまとまり直さない。
壁が続けて作られなかったのではない。作れなかったのだ。
「左手の輪です! 壁を作った後、次の流れが集まるまで間があります!」
「間は!」
ライオに聞かれ、ノアは息を詰まらせた。ここまでに見た壁と壁の間隔を思い返す。
「二呼吸くらいです!」
「十分だ。カイル、右を塞げ! エヴァは左から行け!」
カイルが複合盾を押し出した。警告音は鳴り続け、杭も使えない。それでも大きな盾を斜めに構え、盾役が右へ退く道を身体ごと塞ぐ。
同時にライオの炎弾が猫耳の班長の右側へ落ちた。
石床が爆ぜる。班長は左へ逃れるしかない。
そこへエヴァンジェリンが走り込んだ。
走り込んだ勢いを長い柄へ乗せ、大剣を低い位置から斜めに跳ね上げる。
盾役が班長の前へ入った。
薄い盾で刃を受け流そうとするが、右にはカイルがいる。踏み込む角度を選べず、盾と大剣が正面からぶつかった。
男の靴底が石床を滑る。班長を庇ったまま、一歩、二歩と後ろへ押された。
ノアには、四人の動きが綺麗に揃ったようには見えなかった。
カイルの盾は熱で軋んでいた。エヴァンジェリンの剣先は予定より低く、小壁の角を削っている。ライオも次の術式へ切り替えるため、荒い息を一つ挟んでいた。
それでも、ノアが伝えた二呼吸をライオが指示に変え、カイルが右を塞ぎ、エヴァンジェリンが空いた左へ踏み込んだ。
互いの動きを邪魔していた先ほどとは違う。
分断されていた四人が、ようやく同じ場所で戦っていた。
その時、背後の設備間通路から金属の擦れる音がした。
ノアが振り返る。
先ほど倒した短剣使いが、壁へ片手をつきながら姿を現した。もう一方の手で首を押さえ、頭を動かすたびに顔をしかめている。
その後ろから、ひしゃげた金属棚を押し退け、鱗の男も出てきた。肩の鱗が何枚か欠け、片脚を引きずっている。
エヴァンジェリンが目を見開いた。
「あれだけ蹴ったのによくまだ動けますね」
短剣使いが恨めしそうに彼女を睨む。
「首が抜けるかと思ったぞ、馬鹿力め……!」
悪態には力がなかった。短剣を握り直そうとした指も、一度では柄へ掛からない。
鱗の男も定義器を持ち上げたが、先端の光は定まらずに揺れている。
猫耳の班長が片手を挙げた。
「ここまでか」
短剣使いが不満そうに口を曲げたが、構えを解いた。盾役もエヴァンジェリンとの間合いを切り、班長の前へ戻る。
「ノアくん」
班長はまっすぐにノアを見る。
「最後に確認する。我々と来る意思は?」
息が詰まり、返事が一拍遅れた。
その間にも、カイルは盾を構え直そうとしている。エヴァンジェリンは剣を下ろさない。ライオは何も言わず、ノアの答えを待っていた。
「ありません」
今度は、先ほどより小さな声だった。
けれど、誰にも遮られなかった。
班長の猫耳がわずかに伏せられる。
「……では仕方ないね。いまこれ以上やっても、お互い得はないだろう」
盾役を先頭に第五班が後退を始める。短剣使いと鱗の男を中央へ置き、猫耳の班長が最後尾についた。
ライオは追わなかった。
長杖を向けたまま、彼らが小壁の向こうへ消えるまで見送る。
最後に残った班長が左手を床へ向けた。新しい壁は作らない。圧縮を解かれた石材が一つだけ崩れ、追う側の足を止める程度の瓦礫となって通路へ広がった。
足音が聞こえなくなると、廃工場には複合盾の警告音と、四人分の荒い呼吸だけが残った。
最初に座り込んだのはカイルだった。
複合盾を床へ置こうとして、途中で手を止める。
「熱っ」
固定具を外す指がうまく動かない。エヴァンジェリンが留め金を外し、盾を横倒しにした。開いた放熱板から熱気が立ち上り、床の粉塵を薄く押し退ける。
エヴァンジェリンも大剣を立てたまま、その場へ膝をついた。肩が大きく上下している。
ノアは何か言おうとした。
だが肺の奥が粉塵でざらつき、咳しか出なかった。
「水」
差し出された水筒を反射的に受け取る。
ライオはノアの返事を待たず、自分の外套の裂け目を確認していた。
「ありがとうございます」
「一口にしろ。残りは移動中に使う」
水はぬるかった。それでも焼けた喉には痛いほど冷たく感じた。
水筒を返すと、カイルがノアの前へ膝をついた。
「右膝、見せて」
作業着は破れ、布越しに血が滲んでいた。カイルは傷口へ触れず、膝の上下を両手で押さえる。
「足首、動かせる?」
ノアが爪先を上下させると、カイルは次に膝を少しずつ曲げるよう促した。曲がる。だが深くなるにつれて、関節の内側へ鈍い痛みが走る。
「右肩も動かしにくそうだね。上げられる?」
「少しなら」
腕を上げようとすると、肩の高さで止まった。
カイルの表情から、わずかに残っていた笑みが消える。
「歩けなくはないと思う。でも、走るのは無理。ここで無理に歩かせると、たぶんもっと腫れる」
エヴァンジェリンが第五班の消えた方角を見る。
「ここに留まるべきではありません。先ほどの二人は、私が予想したより早く戻ってきました。再び来ないとは限りません」
「俺の盾もしばらく杭は使えない。ここみたいに開けた場所でもう一度囲まれたら、さっきと同じことはできないよ」
ライオは二人の報告を聞き、廃工場の北側へ目を向けた。
壁沿いに鉄階段が延び、その先の上階に保守員用の小さな詰所が張り出している。上がる経路は階段だけ。工場内を見渡す窓も半分ほどが鉄板で塞がれている。少なくとも、この場所より背後を取られにくい。
「あそこまで移動する。休むのは中だ」
エヴァンジェリンが大剣を片手に持ち替え、ノアの前で背を向けてしゃがんだ。
「どうぞ」
「歩けます」
「いま、歩かせない方がいいと聞きました」
振り返らないまま言われ、ノアはカイルを見る。
カイルも首を横に振った。
ノアは諦めて、エヴァンジェリンの肩へ両腕を回した。彼女は左腕をノアの両脚の下へ入れ、軽々と立ち上がる。右手には大剣を提げたままだった。
背負われた高さから見る廃工場は、先ほどまでとは少し違って見えた。
点在する小壁。床を焦がした炎。砕けた煉瓦に混じる、盾の表面から剥がれた金属片。
ライオが先頭に立つ。エヴァンジェリンがノアを背負って続き、カイルが熱を持った複合盾を引きずるように最後尾へついた。
遠くで都市冷却補助系統のものらしい低い振動音が響いている。第五班の足音は、もう聞こえない。
鉄階段は、一段上がるたびに錆びた継ぎ目を軋ませた。
エヴァンジェリンの背はほとんど揺れなかったが、片手でノアを支えながら大剣を運ぶ呼吸は次第に深くなる。最後尾では、カイルの盾が何度か段差へ当たり、重い金属音を響かせた。
先に踊り場へ着いたライオの歩調が落ちた。
入口の扉が、わずかに開いている。
その下から、黒ずんだ筋が踊り場へ伸びていた。
古い油汚れにも見えた。だが筋の端には、指で床を掻いたような跡が残っている。
ライオが片手を挙げた。
全員の足が止まる。
カイルが複合盾の照明を点け、細く開いた扉の奥へ向けた。
白い光が、倒れた椅子を照らす。
次に、床へ落ちた大型の工業用レンチ。青い樹脂製の握りには錆がなく、この工場に残された物より明らかに新しい。厚い顎の内側に、乾いた暗色のものがこびりついている。
さらに奥、作業台の下には広い染みがあった。
黒く乾いた染みから、何かを引きずった跡が床を横切り、壁際の閉じた点検蓋まで続いている。
エヴァンジェリンの左腕に力が入り、ノアの身体がわずかに持ち上がった。
カイルは照明を動かさなかった。
誰も保守室へ入ろうとしない。
「……これがすべて人の血なら、生きていられる量ではありません」
エヴァンジェリンの言葉に眉をひそめながら、ライオが長杖を抜いた。
「……どうなってやがる」




