第十五話
第五班が一斉に動いた。
そう理解するより先に、カイルの盾に食い込んでいたチェーンフックがピンと張る。
第五班の盾役がワイヤーを巻き取り、カイルの体勢を強引に崩そうとしたのだ。
だが、カイルは引き倒されるより早く、盾から露出している杭の先端で鎖を絡めると、その機構を真下の石畳へ向けて作動させた。
腹の底まで揺さぶる衝撃とともに床が砕け、古い工場の一角を粉塵が覆い尽くした。
パイルバンカーの一撃が、鎖ごと石材を粉砕したのだ。
息を吸い込んだ瞬間、喉の奥へ細かな砂が入り込む。
「伏せて!」
カイルの声が飛ぶ。
拘束を振り解いた次の瞬間には、ノアの目の前へ分厚い複合盾が滑り込み、立て続けに飛来する硬い衝撃を叩き落としていた。
耳を劈く金属音。
盾越しにも伝わる振動に、ノアは咄嗟に腕で頭を庇った。
何が飛んできているのかさえ分からない。
砕けた石片。
細い衝撃波。
弾性のある球状の術式。
どれも殺傷力を抑えられているようには見えたが、まともに受ければ立ってはいられない。
「右!」
カイルが叫ぶ。
「動くな馬鹿!」
ライオの声が返った。
「このままじゃ右を抜かれる!」
「俺が防ぐっつってんだよ! てめぇが動いたら左を抜かれるだろうが!」
「今言ったんだろ!」
土煙の向こうで、淡い光がいくつも瞬いた。
第五班の術士たちだ。
彼らの周囲では、既に複数の術式が同時に構築され始めていた。
円。
直線。
重なり合う幾何学模様。
こちらを分断するための大規模な仕掛け。一つが完成するよりも早く次の術式が生まれ、それらが戦場を囲い込むように接続されていく。
「遅ぇんだよ!」
ノアのすぐ横を、鋭い光が走った。
ライオが長杖を振るっている。
彼自身の術式は、決して複数同時の並列展開ではない。だが、一つの防御、一つの牽制を異常な速度で切り替え、第五班の構築プロセスを一つずつ的確に撃ち落としていく。
相手の分断準備を、限界まで無駄を削ぎ落とした単発の連射で強引に押し留めようとするライオ。
だが、彼がそのすべてを潰しきるよりも前に、カイルが動いた。
「待ってられるか!」
複合盾の背面で低い駆動音が鳴る。
排熱口から白い蒸気が噴き出し、カイルは盾を構えたまま正面へ踏み込んだ。
巨大な質量が、粉塵ごと第五班へ押し寄せる。
だが、土煙の奥から一人の男が現れた。
第五班の盾役だった。
額の汗止め布と、少し曲がった鼻。構えた一般的な中型盾は傷だらけだが、手入れが行き届いている。
それでも男は真っ向から受け止めようとはしなかった。
半身になり、盾を斜めへ構える。
突進とともに、複合盾に内蔵されたパイルバンカーが作動する。
重い衝突音。
盾役の靴底が石畳を削り、衝撃を逃がす腕が微かに震える。
だが、力の大半と杭は的確な角度で斜め上へと逸らされていた。
「薄い盾でよくやるね!」
「生憎、盾に厚みの要る使い方をしないものでね!」
男は口元に余裕めいた笑みを残したまま言い返し、カイルの盾を横へ押し流した。
カイルの身体が僅かに傾く。
その瞬間、床が隆起した。
「カイル、下がれ!」
ライオの怒声。
カイルの足元から、瓦礫と砕けた石材を圧縮した低い壁がせり上がる。
高くはない。
膝ほどの高さしかない。
けれど、踏み込みの途中へ突然現れた段差は、重い盾を抱えたカイルの姿勢を崩すには十分だった。
「っ、くそ!」
カイルが盾を石畳へ叩きつけ、転倒だけは防ぐ。
その正面。
盾役の男の背後で、短い茶髪の女が長剣を構えていた。
頭頂部から覗く猫耳。その片方には、小さな切れ込みが入っている。
第五班の班長だ。
先ほどまで剣に添えていたはずの左手は地面へ向けられ、その指先から淡い光の粒子が散っている。
壁を作ったのは彼女だった。だが地面そのものを操作したわけではない。
周囲の石片や崩れた煉瓦、工場の床材を集め、圧縮して大小さまざまな壁へ変えている。その内の一つがカイルの足場を崩すのに利用されたらしかった。
「面倒くせぇ術だな!」
ライオが吐き捨てる。
彼の長杖から炎が放たれた。
壁そのものを壊すのではなく、その背後へ回り込むように軌道を曲げた術式。
だが、班長は新たな壁を作らない。
代わりに盾役が一歩前へ出る。
斜めに構えた盾へ術式がぶつかり、表面で滑るように上方へ逸らされた。
光が工場の天井へ突き刺さる。
錆びた鉄骨が悲鳴を上げた。
「ちいせぇ盾だと思ったが、パリイングシールドか……!」
「大盾は性に合わなくてね」
「聞いてねぇんだよ!」
ライオの声に苛立ちが混じる。
第五班はカイルにもライオにも勝とうとしていない。
「正面からは防げないな」
「それでいい。一度下がろう」
盾役と班長が短い言葉を交わし、間合いを再構築する。
カイルの突進を躱す。
ライオの術式を逸らす。
それだけを徹底している。
そして、その間にも班長は壁を次々と作っていた。
カイルとライオの間。
ライオからノアたち後方へ伸びる射線。
カイルが戻ろうとする位置。
どれも決して巨大な壁ではない。
腰までの高さしかないもの。
一人が隠れられる程度の幅しかないもの。
けれど、その全てが移動と視線を少しずつ遮り、第三班の立つ空間を細かく切り分けて分断していく。
ノアの足元が、唐突に鳴った。
床の石材が軋む音。
「下がって!」
エヴァンジェリンの叫びと同時だった。
ノアが反射的に身を引いた直後、カイルとノアの間に斜めの壁がせり上がる。
壁はそのまま伸び、カイルの背中とノアたちを完全に遮断してしまった。
「カイルさん!」
ノアが声を上げるが、分厚い壁の向こうからは重い衝突音とライオの怒声が響くばかりだ。
「あの人達なら大丈夫です」
「どうして」
「あの二人ならなんとかします!」
説明になっていない。
だが、エヴァンジェリンにも説明する余裕がないのだろう。
彼女はノアを背後へ押し込み、担いでいた長大な武器を下ろした。
大剣。
そう呼ぶには柄が長すぎる。
剣槍。
そう呼ぶには刃が大きく、幅広すぎる。人の胴ほどもある巨大な刃と、両手を大きく離して握れる長い柄。ただ持ち上げるだけでも相応の膂力を要求するその武器を、エヴァンジェリンは片手で軽々と構えた。
土煙の向こうから、細い光弾が飛んでくる。
エヴァンジェリンは長柄大剣の腹でそれを受け止める。剣の厚みと彼女の膂力の前では、光弾を受け止めても刃はびくともしない。
光が刃の表面で弾け、周囲へ散る。
二発目。
三発目。
彼女は大きな刃を盾のように傾け、ノアへ届く軌道だけを的確に塞いでいく。やがて光弾の連射が途切れた瞬間、エヴァンジェリンは短く柄を持ち直すと、弾いた光弾が巻き上げた粉塵の中にまぎれて距離を詰めてきていた第五班の男へ刃を振り下ろす。
決して大きな動きではない。ノアを背後に置いたまま、上から下へ真っ直ぐ振るうだけ。それでも、人ひとりより重そうな巨大な刃に膂力が乗った一撃だ。容易に防げるようなものでないことは明らか。
当然、男は受けようとしない。
横へ跳ぶ。
刃が石畳を叩き割り、轟音とともに破片が舞い上がった。
もし受け止めようとしていれば、構えた武器もろともに押し潰されていただろう。
男がたまらず距離を取ろうとステップする瞬間、エヴァンジェリンは刃を振り下ろした動作の勢いを殺さず体の捻りへと変換し、そのまま横薙ぎへと繋げるような動きを見せた。
だが途中でその動作が止まる。
回転半径の内側に、ノアがいる。
「……っ」
振り抜けない。
大きく回せば巻き込む。
小さく回しても、返した柄が触れる。
一歩踏み込めばノアを背後へ残すことになる。
彼女は再び盾のようにその巨大な剣を構え直した。
その刹那、ノアの視界の端で光が動いた。あの時、セブンスヘブンの艦内にヴィジルが現れた時と同じように、光の粒が集まっていく気配。だが、これはあの時のように何かが"出てくる"ための門を開ける代物ではないと直感する。
「右、左の順で来ます!」
ノアが叫んだ。
エヴァンジェリンが大剣を立てる。
刃の腹へ、二発の光弾がぶつかった。
続いて左。
彼女は柄を滑らせ、石突きで飛来物を弾く。
「ノアさん、いまのは!?」
エヴァンジェリンが驚いたように声を上げる。
——エヴァンジェリンさんには、あの光の粒は視えていないのか……?!
「……いえ、ノアさん、私から離れないでください!」
強い声だった。
エヴァンジェリンは敵から目を離さないまま、もう一度繰り返した。
「今は、それだけ守ってください」
ノアは言葉を飲み込んだ。
第五班の三人目。
こめかみから喉元へかけて淡い灰緑色の鱗を持つ細身の男が、床すれすれを這う尾を揺らしながら崩れた設備の向こうを移動している。
武器は短剣。直線を基調にした形状の護拳が付いており、柄の部分にはカートリッジ状の輝く部品が取り付けられている。十中八九、演算器を兼用する装備だ。先程の光弾はこれを使って放たれたものだろう。
そこから放たれる術は決して強力なものではない。一撃では決定打にならないが、エヴァンジェリンが大剣を振り始めようとするたび、その初動へ正確な妨害が差し込まれる。
足を踏み出す先へ、振りかぶろうとすれば逆側の生身部分へ、距離を取ろうとすればノアへ牽制を向ける。
彼女に武器を回させない。ただ、それだけを正確な手順で実行している。
「先輩!」
エヴァンジェリンが叫ぶ。
「このままではノアさんを確保されます!!」
「分かってる!」
ライオの声は近い。
けれど姿は見えない。
その間にはいくつもの壁と土煙が視界を切っている。
「ならば指示を!」
「見えない戦場の指示なんざできるか!」
「ではどうすれば……?!」
「てめぇの頭は飾りかボンクラ!!」
エヴァンジェリンの眉が吊り上がった。
だが、言い返す前に攻撃が来る。
彼女は刃を立て、ノアを庇う。
その向こう。
カイルとライオも足止めされ続けていた。
「カイル、二歩下がれ!」
「下がれない!」
「なんでだ!」
「壁!」
「壊せ!」
「壊したらお前の術式に入る!」
「入んねぇよう撃ってんだろうが!」
「それを先に言ってってば!」
複合盾から射出されたパイルバンカーが低い壁を粉砕した。
そのままカイルが一時的に下がろうとするが、それを見計らったかのように、また第五班の盾持ちが距離を詰める。
近接戦闘能力そのものはカイルが勝っている。だが、巧い。盾役は腕を痺れさせながらも決定的に崩される前にステップで威力を逃がしていく。
「腕が限界なんだが。そろそろ褒めてくれてもいいんじゃないか班長殿」
「ふざけるのは後にしなさい」
班長の耳がライオの術式音にピクリと反応し、短い返答とともに再建された壁の向こうから石片弾が放たれる。
自分を餌にカイルの攻め気を誘い、深追いしようとすれば牽制で踏み込みを止められる。
かといってノアとエヴァンジェリンの援護に戻ろうにも、容易くそれを許してくれない。
「こいつら、俺たちを倒す気じゃない!」
カイルが叫ぶ。
「ノアの方が本命だ!」
「分かってる!」
「だったらなんとかして!」
「簡単にできりゃ世話ねぇんだよ!」
カイルの盾が第五班の盾役へ叩き込まれる。
今度は受け流しきれず、男の身体が大きく横へ流れた。
カイルが押し切ろうとした瞬間、その前に新たな壁が立つ。だが、カイルの足が止まるよりも早く、ライオの放った炎弾が壁を粉砕した。
カイルの進路を、ライオが的確にこじ開けている。
しかし、ライオ自身もまたその場から後退できずにいた。
彼がカイルを援護するたび、第五班の班長はすかさずライオの周囲へ射線を遮る壁を立て、頭上から無数の石片弾を降らせてくる。
カイルをカバーしようとすれば、ライオは足を止めて防御術式を展開せざるを得ない。逆に自分が後退への初動を見せれば、今度はカイルが壁と盾役に囲い込まれる。
個々の戦闘力は勝っているのに、互いをカバーする行動そのものを利用され、二人ともこの局地戦から抜け出せないでいた。
「ちまちま、ちまちまとォ……!」
ライオの声に怒気が滲む。
石片弾と石壁そのものを利用した嫌がらせ。おそらくすでに数合の撃ち合いで向こうの班長はライオの「術式の同時展開不可」という弱点を見抜いたのだろう。
そしてライオ自身もまたそれを見抜かれていることを理解している。
カイルとライオ、どちらを狙うのか読ませないように徹底してテンポを変え続けながら放たれる石片弾がライオの防御術式以外の選択肢を削っていた。
「ライオ! 向こうのサポートに……!」
「行けりゃ行ってんだよ!!」
二人とも強い。
個の力で言えば、間違いなくカイルとライオの方が上だ。
カイルの猛攻は確実に第五班の盾役を削っているし、ライオの術式も直撃さえすれば一撃で戦局を覆せる威力がある。
それでも、二人は現状から抜け出せない。
カイルとライオが連携を欠いたただの「強い個」であるのに対し、第五班が一つの完璧な「チーム」として立ち回っているからだ。
盾役の男はカイルを倒す気などなく、ただライオの射線を塞ぐ位置へ彼を誘導し続ける。班長はライオと正面から撃ち合わず妨害と分断に専念している。
カイルは目の前の盾を退かそうと動き、ライオはそれをカバーしようとして術式のテンポを崩される。
それぞれが自分の「正解」で動いているだけで、そこには互いの意図を擦り合わせる余裕も言葉もない。
第五班は、その僅かな呼吸の「ずれ」に、壁を一枚、あるいは石片を一つ差し込むだけでいい。
一秒。
一歩。
一言。
それだけの遅れが積み重なり、土煙の向こうで諍う二人は少しずつノアたちから遠ざけられていく。
「ノアさん、移動します」
状況を容易く打開できないと察したエヴァンジェリンが言う。
「どこへ?」
「左の通路です」
狭い設備間通路。
本来であれば長大な武器を持つエヴァンジェリンにとっては不利な地形だ。
しかし、ノアを庇いながら戦う前提であれば話が変わってくる。敵が迫ってくる方向を一つに限定できるのであれば、防御の負担を軽減しながら攻撃の機会を伺うことが可能だろう。
「このまま強行突破します。失礼」
「えっ」
エヴァンジェリンがノアの身体を片腕でひょいと抱え上げた。
空いたもう片方の手で大剣を短く持ち直す。
柄の中ほどを握り、刃を身体の右側へ寄せる。
大きく回すための持ち方ではない。
狭い場所で、最小限の軌道だけを使う片手用の構え。
「舌を噛まないように気をつけてください」
エヴァンジェリンが地面を蹴った。
速い。
重い武器と人を抱えているとは思えない加速。
踏み抜かれた床の石材が砕け散り、極限まで強化された脚力が二人分の重量ごと前方へ運んでいく。
通路の入り口へ立ち塞がった短剣の男が、柄の演算器を向ける。
光弾の連射。
エヴァンジェリンは止まらない。縦に構えた大剣の分厚い刃で、ノアへ向かう軌道の光弾だけを的確に弾き落としながら真っ直ぐに突っ込んでいく。
そして間合いへ入るなり、片手で大剣を上段から一直線に振り下ろした。
狭い通路。男に横へ躱すスペースはない。
男は手にした短剣の腹を斜めに当て、その一撃を受け流そうとした。
だが、刃が短剣に触れた瞬間、男の顔が微かに歪む。
流しきれない。
火花が散り、強烈な重圧に耐えきれず男は後方へとステップを踏んで強引に威力を逃がした。
それでも衝撃は殺しきれず、男の体勢が大きく崩れる。
「一撃だけなら、やはり重い」
「一撃だけで終わるとでも?」
エヴァンジェリンは抱えていたノアを自らの背後へ下ろすと、大剣を両手で握り直した。叩きつけた剣を通り過ぎるように踏み込みながら体を翻す。体の回転とともに再び持ち上がった刃が今度は遠心力を伴った袈裟斬りの一撃へと変じて、弾き飛ばされて姿勢を崩していた男を狙う。
「俺を殺す気か……?!」
「その調子なら平気です!」
横へ転がるようにしながらその一撃を避けた男が吐いた悪態にあっさりと返し、エヴァンジェリンはさらに踏み込もうと一歩足を出す。
その時だった。
ノアの背後。暗がりの中で、何かが配管から音もなく離れる気配がした。
直後、ノアの視界の端——誰もいないはずの『背後』の空間に向かって、唐突に光の粒子が収束するのが見えた。
あの時と同じだ。ヴィジルが現れる直前、あるいは先ほど短剣の男が光弾を放つ直前に見えた光。
だが、エヴァンジェリンは目の前の敵を追撃するため踏み込んでおり、背後は完全に死角になっている。
(後ろから来る……!)
考えるより先に、ノアは反射的に身を屈めて前へ倒れ込んだ。
直後、さっきまでノアの胴体があった空間を、真後ろから飛来した「光の鞭」が薙ぎ払う。
粘性を持った強靭な光の帯。
もし気付かずに突っ立っていれば、確実に身体を絡め取られ、後方へ引きずり込まれていただろう。
「なっ……!?」
エヴァンジェリンが驚愕とともに振り向く。
通路の後方。ノアたちが通ってきたはずの暗がりから、四人目の人影がゆっくりと歩み出てきた。
他の三人よりも年嵩で、細長い体躯にイタチのような尾と耳を持つ男。何度も繕われたらしい作業外套には古い油汚れがこびりつき、装備の中で協力員用の認識票だけが真新しい。
男の手にある鈍色の定義器から伸びた光の鞭がシュルシュルと音を立てて巻き戻っていく。
「勘がいいな……」
男は舌打ちもせず、大げさに驚くこともなく、ただ静かに評価するように呟いた。
視線はエヴァンジェリンではなく、床へ転がったノアへ向けられていた。
「君、私の術が放たれる前に避けたな? 何が見えている……?」
「……え?」
ノアはどうして自分が避けたのか、まだはっきりとは分かっていなかった。
光ったから。
そう思った。
けれど、術式が起動してから見えたのではない。
起動するより前に、そこへ何かが集まる明確な予兆が視える。
「ノアさん?」
エヴァンジェリンの声に、ノアは弾かれたように顔を上げた。
伏兵の男——第五班の協力員が、油断なく手元の定義器を構え直している。
そして通路の反対側では、エヴァンジェリンに吹き飛ばされた短剣の男が体勢を立て直し、再び立ちはだかっていた。
前と後ろ。
完全に挟まれている。
「驚いたな。ただの素人かと思っていたが」
男が一歩、距離を詰める。
「だが、チェックメイトだ。君が我々に同行すると決めるなら尊重する。これ以上君の護衛たちと無意味に消耗し合う気はない」
エヴァンジェリンが大剣を握り直す。
男は肩をすくめた。
「第三班は君を守れていない。前線の二人は完全に抑え込まれているし、彼女もいずれ力尽きるぞ」
事実だった。
遠くからは、いまだにカイルの盾が壁を叩く音と、ライオの苛立った怒声が響いている。
この場も、エヴァンジェリンが一人で前後を凌ぎきれるとは思えない。
第五班へ行けば、少なくとも怪我人は出ない。
けれど。
「行きません」
ノアははっきりと答えた。
「状況が分かっていないのか?」
「分かっています」
「では、それが君の役目ということかな?」
「違います」
ノアは首を振った。
遠くで、ドンッ、と一際大きな激突音が響く。
「ライオ! 今の俺を巻き込んでも良いと思って撃っただろ!」
「んなわけあるか! ごちゃごちゃ言うならマジでまとめて吹き飛ばすぞ!」
カイルの呆れたような声と、それに返すライオの怒声。
相変わらずのやり取りに、ノアは一瞬だけ口元を緩めた。
奇妙だった。
完全に挟み撃ちにされて、追い詰められているのに。
「僕は、まだ何も分かっていません」
伏兵の男を真っ直ぐに見返す。
「何ができるのかも、誰についていけばいいのかも。でも、安全だと言われた方へそのまま行くのは、僕が決めたことにならないと思います。僕は、第三班の協力員です」
男はしばらくノアを見ていた。
やがて、小さく溜息をつく。
「……交渉決裂、か。残念だ」
男の持つ定義器が淡く発光する。
同時に、反対側の短剣の男も演算器を構えた。
「ノアさん、私の背中に張り付いてください!」
エヴァンジェリンが叫ぶ。
前後からの同時攻撃。
光弾と光の鞭が狭い通路を飛び交う。
エヴァンジェリンは大剣を盾のように使い、ノアへ向かう軌道を全て弾き落としていく。
だが、第五班の連携には一切の容赦がなかった。
前後からタイミングをずらして放たれる術式。
エヴァンジェリンは前を弾き、すぐさま後ろへ刃を向ける。
彼女の体力と集中力を確実に削るための波状攻撃。
大剣を動かすたび、始動のために自分の力を使う。
本来なら、一度生まれた勢いを次へ繋げられるはずの武器だ。
だが今は毎回、止めている。ノアを巻き込まないために。
毎回、最初から重い刃を動かしている。
呼吸が荒くなる。
額に汗が浮かぶ。
それでもノアのそばを離れない。
(僕が、止めている)
ノアは理解した。
自分がいるから、エヴァンジェリンは自身の特性を殺す定点防衛を強いられている。
自分がいるから、カイルとライオも本来の戦い方ができず連携を乱されている。
第五班は、第三班の「護衛対象を守る」という行動そのものを利用して、彼らを崩しているのだ。
胸の奥が苦しくなる。
役に立ちたいと思った。
けれど、何ができる。
誰かに守られるしかないのか。
その時。
——視界の端で、何かが揺れた。
ノアは顔を上げる。
前方の短剣の男。
その後方の伏兵。
二人の周囲の空間が、わずかに歪んで見えた。
いや、空間ではない。二人の身体の表面を、薄い「光の膜」のようなものが覆っているのだ。
それは生き物の呼吸に合わせて脈動し、動作の直前に特定の部位へと急速に偏っていく。
短剣の男は、腕から手元の演算器へ。
伏兵の男は、重心を落とした脚と、定義器を握る手首へ。
ノアにはそれが何の光なのか分からない。
ただ、これまでの状況から直感した。
あの光が強く集まった場所から、常人にはあり得ない力や速度、あるいは未知の現象が放たれるのだと。
先ほど伏兵の不意打ちを躱した時と同じ。
さらに、ノアの眼はもう一つの明確な違いを捉えていた。
身体の「動き」を生み出す光と、「術」として外へ放たれる光では、収束の仕方が違うのだ。
前方の短剣の男。身体を覆う光から手首の角度が読める。そして演算器の先端に集まった光は、放たれる一瞬前、二つの球体——『光弾』の形に収束する。
後方の伏兵。光の偏りから沈み込んだ脚の踏み込みが分かる。そして定義器に集まった光は、振るわれる直前、床を這う『紐』の形へと引き伸ばされる。
どう動くのか。
どのような形の術が、どこへ来るのか。
手に取るように分かる。
ただ、視える。
「前、二発! 後ろから足元に来ます!」
考えるより先に、ノアは叫んでいた。
エヴァンジェリンが驚いたように目を見開くが、直後、ノアの言葉通りに前後から術式が飛来する。
彼女は迷うことなく大剣を縦に構えて前の光弾を弾き、そのまま石突きで後方の鞭を叩き落とした。
「チッ、なんだ今の!?」
伏兵の男が苛立ちの声を上げる。
エヴァンジェリンはわずかに息を乱しながら、驚いたようにノアを見た。
「ノアさん。今の、見えていたんですか?」
「エヴァンジェリンさん」
ノアは彼女を見上げた。
心臓がうるさく鳴っている。手も震えている。
けれど、自分が足手まといになっている今の状況だけは、どうしても変えたかった。
「僕を庇って、武器を止めないでください」
「え?」
「……たぶん、僕、今なら全部避けられます……!」
だから、思い切りやってください。
非戦闘員の口から出たあまりにも無謀な提案に、エヴァンジェリンは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
彼女の唇に、隠しきれない獰猛な笑みが浮かんだ。




