第十四話
説明会が終わると、張りつめていた会場の空気が一斉にほどけた。
椅子の脚が床を擦り、受験者たちが立ち上がる。新しく組まされた班員へ声を掛ける者、協力員を囲んで条件を確認し始める者、配布資料を抱えて早々に退室する者。
ノアも膝の上の鞄を抱え直した。
「明朝、午前四時五十分。ここに来い」
ライオが言った。
机の上の資料をまとめながら、こちらを見もしない。
エヴァンジェリンが手帳を開く。
「正式な集合は午前六時ですが」
「知ってる」
「一時間十分前?」
カイルが眉を上げた。
「早すぎない?」
「遅ぇよりマシだ」
「課題も午前六時に発表されるって話だったし、早く来てもすることないんじゃない?」
ライオの手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「課題が出てから準備するつもりか?」
「課題が出ないと準備できないって話をしてるんだけど」
「頭ん中が空っぽだから、与えられたもんしか見えねぇんだろ。候補くらい絞れる」
「言い方」
「間違ってねぇ」
カイルの表情が僅かに冷えた。
ライオは気づいているのかいないのか、ノアへ視線を移した。
「お前は演算器と工具を全部持ってこい。携帯食、水、救急用品。抜けがあったら置いてく」
「置いて……」
「使えねぇ奴を担いで走る趣味はねぇ」
胸の奥が、少し冷えた。
「はい」
「返事だけは早ぇな」
何と答えれば正解なのかわからない。
ライオは続ける。
「体調が悪かったら来てから言うな。事前に報告しろ。黙って来て途中で潰れたら、てめぇごと減点材料にされる」
自分を心配している言い方には、まったく聞こえなかった。
「……わかりました」
「分かってねぇ顔すんな」
「先輩」
エヴァンジェリンが静かに呼んだ。
ライオが睨む。
「なんだ」
「ノアさんは理解されています」
「ならいい」
それ以上は何も言わなかった。
エヴァンジェリンも、ライオの言葉を明確に訂正しなかった。彼の言った自体は間違いではなかったからなのだろう。
ただ、彼女は少し申し訳なさそうにノアへ向けて小さく会釈する。
「明朝、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
カイルが椅子から立ち上がった。
「午前四時五十分ね」
「遅れるなよ、鈍間」
「遅刻したことないんだけど」
「知らねぇよ」
「じゃあ、なんで決めつけたの?」
「遅れそうな顔してる」
「顔で遅刻を判断するなよ」
言い合いながらも、カイルは集合を拒まなかった。
ライオは長杖を取り、資料を抱えて歩き出す。
エヴァンジェリンが後を追う。
扉の前で、ライオが一度だけ振り返った。
「寝坊したら殺す」
扉が閉じた。
ノアはしばらく、閉じた扉を見ていた。
「……あの人、いつもああなんですか」
思わず口から出た。
カイルが少し考える。
「たぶんね」
「許されるんですか? アレ……」
「だから四年も推薦されてなかったんでしょ」
こちらの世界に来て、いちばん深い納得があった。
* *
翌朝。
ゼリウスの空は、まだ夜の色を残していた。
東の端だけが薄く白み、工業区画の煙突が影のように立っている。昼夜を問わず動き続ける都市の低い振動が、石畳を通して足の裏へ伝わってきた。
ノアが試験会場へ到着した時、時刻は午前四時四十分を少し過ぎたところだった。
これなら文句は言われない。
そう思いながら扉を開く。
「遅ぇ」
ライオがいた。
昨日と同じ机の上へ、見覚えのない資料が広げられている。
古い地図。
設備図。
数値の並んだ計測表。
色の違う付箋が何枚も貼られ、細い字で書き込みが加えられていた。
エヴァンジェリンも既に席についている。
「まだ指定時刻より前ですよ、先輩」
「俺より遅い」
窘めるエヴァンジェリンに対して眉間に皺を寄せながら不満そうにライオが吐き捨てる。
「それは遅刻ではないと思います」
反射的に言い返してしまってから、のあは自分で目を丸くした。
ライオがゆらりと顔を上げる。
「言うじゃねぇか」
口角が上がった獰猛な笑み。
笑っているのに怒っているように見える。けれど雰囲気はさっきまでよりも少しだけ落ち着いたようにも思えた。
「すみません」
「謝るなら黙ってろ」
どうすればいいのだろう。
少なくとも、彼の求めていた答えではなかったのだろう。刺々しさがまた戻ってしまった。
「おはようございます、ノアさん」
エヴァンジェリンが声を掛けた。
「おはようございます」
机の端には、湯気の立つ紙杯と、半分ほど残った携帯食がある。
意外にもそこにはあと三つ、紙杯と携帯食が用意されていた。しかしライオが用意してくれたのだと思うと少し癪だったので、ノアはそれをエヴァンジェリンが用意してくれたものだと解釈することにした。
「先輩、残っていますよ」
「食った」
「残っています」
「頭回すには十分だ。あとはお前食っていいぞ、どうせ足んねぇんだから」
「……大食い扱いしないでください」
エヴァンジェリンは少しだけ恥ずかしそうに言って、結局、ライオと自分の分をぺろりと平らげてしまった。
その様子を眺めながら、ノアはもさもさと携帯食を口に入れる。パサついて口の中の水分を持っていかれるが、味は悪くない。
「荷物を出せ」
ノアが携帯食を食べ終わったのを見計らって、ライオがぶっきらぼうに言う。
「は、はい」
ノアは口の中でもちゃもちゃと水分を奪い続ける携帯食の残党を紙杯に注がれた白湯で飲み下すと、鞄を机へ置いた。
演算器。
小型レンチ。
数種類のドライバー。
簡易計測器。
絶縁手袋。
補修材。
携帯食、水筒、救急用品。
ライオは一つずつ手に取り、雑に机へ置き直した。
少しだけ、食料のたぐいが多いかもしれない。
「おいコラ、てめぇも食いしん坊か」
「全部持ってこいと言われたので」
「言った。不要な分まで持って来いって意味じゃねぇがな」
「……はい」
「補修材は半分。工具は汎用性のある二番と四番とそれ以外で分けろ。使いやすいほうだけ持て。計測器はエヴァに持たせとけ。救急用品は最低限。食料は一食分でいい、俺たちも持ってる」
「足りなくなったら?」
「足りるようにやんだよ」
ライオが補修材と工具の一部を自分の鞄へ放り込む。
「でも——」
「お前みてぇな細っこいのが欲張って抱えたら、途中で潰れててめぇが荷物になるのが関の山だっつってんだ」
荷物。
一瞬、自分のことを言われたと理解できなかった。
理解してから、胸の奥が沈んだ。
ノアはライオを見た。
ライオはもう次の道具を確認していて、何でもないことのようだった。
「予備は先輩が持つそうです」
エヴァンジェリンが小さく言った。
ノアだけに聞かせるような声だった。
意味は、わかる。
体力を温存させようとしている。
途中で動けなくならないよう、荷物を分けている。
けれど。
言い換えれば済むことを、どうしてわざわざ人を傷つける言葉にするのだろう。
「ありがとうございます」
「礼なんざ要らねぇ。仕事で返せ」
「……はい」
この人は嫌だ。
はっきりそう思った。
ノアはこれまで、誰かを嫌いだと思うことがほとんどなかった。
怖いと思ったことはある。
苦手だと思ったこともある。
けれど、一緒にいたくないと、ここまで明確に感じた相手はいなかった。
「え、はやくない?」
扉の方から声がした。
カイルが入ってきていた。
複合盾を左腕へ固定し、大きな荷物を右肩へ下げている。
時計を確認する。
午前四時四十五分だった。
「遅ぇ」
「間に合ってるだろ」
「俺より遅い」
「それを遅刻とは言わないんだよ。一般的にはね」
カイルは荷物を机へ置き、そこでノアの顔を見た。
「……何かあった?」
「何もねぇ。荷物を減らしただけだ」
「その言い方で、何かあったのは分かった」
「うるせぇ。地図見ろ」
カイルは何か言いたげにライオを見たが、ひとまず広げられた資料へ視線を落とした。
「昨日はなかったよな、これ」
「当日配布資料だとよ。受付でもらった」
「もう受付開いてるの?」
「じゃなきゃどこで貰うんだ。頭腐ってんのか」
「聞いただけだろ」
カイルの声が少し低くなる。
ライオは気にも留めず、地図へ視線を戻した。
ノアも資料を手に取る。
上部には、当日追加資料と記されている。
旧工業区G7ブロック暫定地図。
今朝の感応値。
使用可能な搬入口。
支給可能な資材。
入域予定区域。
正式な集合時刻まで一時間以上あるのに、既に試験に関する情報が配られている。
「他の班も、来ればもらえるんですか」
「受付で聞け。だが俺たちが貰えたんだ、貰えねぇ理由はねぇ」
「早く来た班だけ先に見られるなら、不公平じゃない?」
カイルも同じ疑問を持ったらしい。
「公平にお手々繋いで走る試験だと思ってんのか」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話だ」
「同じ試験を受けるなら、情報を渡す時刻くらい揃えるものじゃないかって話」
「揃えねぇ意図があんだろ間抜け」
「すぐそういう言い方するよな、お前」
「事実だろ」
その時、灰色の制服を着た職員が会場へ入ってきた。
手には新しい書類の束がある。
「第三班。当日追加資料は受領済みですね」
「ちょうど聞きたいことがあったんですけど、いいですか?」
カイルが職員へ向き直った。
「この資料、到着した班から配っているんですか?」
「はい。受付開始後、到着した班へ順次交付しています」
「正式な集合時刻は午前六時ですよね。早く来た班だけ先に情報を見られるのは、不公平では?」
職員は表情を変えなかった。
「既に試験は始まっています」
会場の空気が、僅かに変わった。
「昨日の班編成発表からですか?」
「正確には、皆さんがゼリウスに到着した時点からです」
「……でも、集合は午前六時と」
「もちろん午前六時までに到着すれば、遅刻にはなりません」
「それなら――」
「逆に伺いますが」
職員はカイルを見た。
「任務当日、予定より早く現着しておきながら、正式な開始時刻まで油を売るのですか?」
カイルが口を閉じる。
「受付開始時刻は昨日の資料に記載されています。早着して準備時間を確保するか、睡眠や休息を優先するか。それぞれの判断です」
職員の視線がライオへ向いた。
「なお、準備のために睡眠を削り、判断力を低下させた場合も評価対象です」
エヴァンジェリンが、そっとライオを見る。
「先輩。睡眠時間は」
「寝た」
「何時間ですか」
「二時間」
カイルが目を見開いた。
「先輩、それは十分ではありません」
エヴァンジェリンの声は強くなかった。
責めるのではなく、確認するだけだった。
ライオは答えず、地図へ目を落とす。
職員は手元の端末へ何かを入力した。
「減点されてるんじゃない?」
カイルが言う。
「されねぇ。減点されるならそのせいでやらかした時だ」
「でも記録はされてたよ」
「てめぇは今朝まで何も調べず寝てたんだろうが」
「調べられる範囲は調べたよ。二時間しか寝ないほどじゃないだけで」
「“られる”と“べき”の意味の違いをレクチャーしてやろうか?」
「調べるべきだって寝不足になって、頭回らなくなったら意味ないだろ」
「回ってる」
「だいたい本人はそう言うよね」
ライオが睨む。
カイルも目を逸らさなかった。
職員が書類を机へ置く。
「正式課題書は午前六時に開封してください。それまでは当日資料の確認、装備調整、作戦立案を認めます」
ライオが即座に口を開いた。
「投入地点は確定か」
「現時点では」
「エーテルの測定値が三時間前のだ」
「入域直前に更新します」
「未確認区画はいくつある」
「非公開です」
「他班の目標は」
「非公開です」
「役に立たねぇ資料だな」
「不足した情報を補うことも試験内容です」
「そうかよ。案山子の方がまともな受け答えするぜ」
職員の眉が僅かに動いた。
「グレンデル」
「なんだ」
「試験官への態度も審査対象です」
「なら勝手に減点しろ。情報が増えるわけじゃねぇ」
「先輩」
エヴァンジェリンが小さく呼んだ。
ライオは舌打ちした。
職員は何も言わず退室する。
扉が閉じた瞬間、カイルが言った。
「君本当に口悪いね……」
「うるせぇ。地図見ろ」
「会話になってないよ」
「お前と会話する必要がねぇ」
「班員なんだけど」
「だから必要なことだけ聞け」
「必要なことを説明しろって言ってる」
「地図見りゃわかる」
ライオは机の中央を叩いた。
「投入地点は南西第四搬入口。中央管理棟まで旧経路は三本。一番は搬送路。二番は地下導管。三番は旧住宅区」
「二番は閉鎖とあります」
ノアが指差す。
「見りゃわかる」
返事が鋭い。
「すみません」
「謝る暇があったら続き読め」
「先輩」
エヴァンジェリンがまた小さく呼んだ。
「なんだよ」
「ノアさんは確認をされただけです」
「だから答えただろ」
「……はい」
エヴァンジェリンは引いた。
ライオがノアへ向き直る。
「二番は閉鎖。現時点では使わねぇ。三番は昨日からエーテルの計測値が上がってる。異常か試験側の仕込みかはわからん。俺たちが使う一番の搬送路は第五班の投入地点と重なる」
「つまり第五班とぶつかる可能性がある?」
カイルが聞く。
「可能性じゃねぇ。ぶつかる前提で考えろ」
「相手の目標が違えば、譲ってくれるかもしれないだろ」
「最悪を想定しろつってんだ。お前の頭ん中は花畑か」
「交渉の可能性を言ってる」
「可能性なら最悪のほうを想定しろ。交戦以外ならその場でもどうとでもなんだろ」
「最初からそう言えばいいだろ」
「今言った」
「言わせたからね」
また空気が硬くなる。
ライオは意に介さず、カイルの複合盾を指した。
「最大展開幅」
「一・三くらい」
「くらいじゃわからねぇ」
「構え方で変わるだろ」
「通路の幅は変わらねぇ。最大を測れつってんだ」
「今?」
「じゃあ現地で引っかかってから測るか?」
カイルが息を吐き、盾を展開した。
ライオが巻尺を投げる。
「用意がいいな」
「てめぇが悪ぃだけだろ」
カイルは盾の幅を測る。
「一・二八」
「構え直して杭を打つのになんぼ必要だ」
「最大幅以下ならどうとでもする」
「一・二八か」
ライオは紙へ書き込んだ。
「搬送路では正面展開可能。並走不可。お前が先頭で正面警戒。エヴァが後ろから右側監視。ノアは真ん中。俺が最後尾から左と後方の警戒をする」
「術士が最後尾?」
「全員が見える」
「それならエヴァが後ろでもいいんじゃないの?」
「お前が俺に指図すんな」
「理由を聞いてるだけだろ」
「盾持ちが先頭は当然。前が詰まった時、こん中で一番パワーのあるエヴァが真後ろにいた方がいい。壁蹴って立体機動もできるからなこいつ。で、ノアに最後尾なんざさせたら着いてこれるかわかんねぇ。それに技術屋を隊列の端に置くバカがどこにいるんだよ? これ以外に選択肢あんのか?」
説明すれば、まともだった。相変わらず言い方は最悪だが、理屈がわかるだけまだマシだ。まだ飲み込みやすい。
どうせ口の悪さを直せないなら、せめて最初からそれを言えばいいのに。
カイルも同じことを思ったらしい。
「できるじゃないか、説明」
「できねぇと思ってたのか」
「本当にコミュニケーション能力がダメなんだなって確認できたって言ってるの」
「あ?」
「君の真似だよ」
ライオは苛立たしげに舌打ちしたあと、ノアの鞄へ視線を向けた。
「演算器は勝手に使うな」
「はい」
「返事だけはいいな」
ノアの手が止まった。
「……すみません」
「なんの謝罪だ。要らねぇんだよ」
声が出なくなる。
ライオは続けた。
「てめぇ、調子悪くても言い出せねぇタイプだろ」
「……たぶん、そうです」
「クソだな」
「それは言いすぎだろ」
カイルが低く言った。
ライオは視線だけを向ける。
「事実確認だ」
「違う。今のはただの罵倒だ」
「黙って潰れる奴が現場で何を起こすか知らねぇから言えんだよ」
「だったら、そう言え」
「今言ってるだろうが」
言っていない。
少なくとも、ノアにはそう聞こえなかった。
「いいか? 痛い、見えねぇ、聞こえねぇ、吐きそう、知らねぇことを思い出した、知ってたことを忘れた。全部吐け。黙ってられるのがいちばん迷惑だ」
自分の判断を、信用していない。
そう言われたようにしか聞こえなかった。
「はい」
「なんの“はい”だ」
「異常があれば、報告します」
「最初からそう言え」
「……わかりました」
どうしてこの人は、こちらが一番傷つく言葉ばかり選べるのだろう。
ノアは俯いた。
机の下で手を握る。
この人が嫌いだった。
正しいことを言っているのかもしれない。
荷物も持ってくれた。
体調を報告しろとも言った。
ひとつひとつ、彼の言葉の棘を抜いて、中身を分析して、組み立て直せば一定以上正しいのだろう。
それでも、嫌なものは嫌だった。
正しいなら、何を言ってもいいわけではない。
「先輩」
エヴァンジェリンが呼ぶ。
今度は少しだけ声が硬かった。
「なんだ」
「追加条件書です」
止めるのではなく、紙を差し出すだけだった。
ライオは受け取り、目を走らせる。
「協力員ノア、追加ストーリーあり」
ノアが顔を上げた。
「追加?」
「読め」
紙を投げるように渡される。
受け取り損ねそうになり、慌てて両手で掴んだ。
記載は短かった。
協力員ノアは、他班の副次目標に指定される可能性がある。
他班から同行、移送、確保を要求された場合、本人の意思による同行を認める。ただし第三班は命令によってその意思決定を制限してはならない。
「僕が、他の班の目標になる?」
「見りゃわかるだろ」
「どうして?」
「知るか。使えるからだろ」
使える。
自分が何かの鍵として扱われている。
「他班について行くな」
ライオが言った。
「でも、本人の意思を命令で拘束してはいけないと」
エヴァンジェリンが指摘する。
「命令じゃねぇ。忠告だ」
「言い方が命令です」
「なら好きに捕まれ。そんで俺たちの点を下げろ」
「ライオ」
カイルの声が低くなった。
「今それを言う相手はノアじゃない」
「じゃあ誰に言うんだよ」
「少なくとも、彼女にじゃない」
「事実だろ」
「事実なら、何をどう言ってもいいわけじゃないんだよ」
ノアは条件書を握りしめた。
自分が感じた痛みを、カイルが言葉にしてくれた気がした。
ライオは舌打ちする。
「綺麗事で点が増えんのか」
「増えない。でも班員は減るよ」
「……話は終わりだ」
ノアの胸がまた冷えた。
「……捕まったら、減点なんですか」
「知らねぇ。だが自班の協力員を横から取られて評価が上がると思うか?」
「先輩」
「なんだよ」
「ノアさんが他班へ同行すること自体も、判断として評価される可能性があります」
「だから面倒なんだろうが」
ライオは苛立ったように額を押さえた。
「相手の条件も知らねぇ。目的も知らねぇ。そんな状態でついて行く馬鹿がどこにいる」
「でも、僕が決めるんですよね」
ノアが言った。
ライオが見る。
「で、決める材料を持ってんのか?」
嘲るような言葉だった。
ノアは何も返せなかった。
決められる自信はない。
何を基準にすればいいかもわからない。
「ほら見ろ」
「先輩」
「事実だろ」
エヴァンジェリンはそれ以上言わなかった。
ノアは条件書を握った。
この人には、絶対について行きたくない。
そう思った。
けれど、他班へ行きたいかと聞かれても、それもわからなかった。それがカイルの昇級の邪魔になるのなら、安易に選ぶことはできない。
ライオは嫌いだ。
でもカイルとエヴァンジェリンのことは、応援したいと思う。
午前六時が近づき、会場の外が騒がしくなってきた。
他班の受験者たちが次々と入ってくる。
空いていた机が埋まり、各所で資料を開く音が重なる。
早く来た班が追加資料を持っていることに驚く者。
追加資料の存在を初めて知る者。
受付へ駆け戻る者。
第三班は既に、経路、隊列、装備、初動方針まで決めていた。
午前六時を告げる鐘が鳴った。
灰色の制服を着た職員たちが、各班へ封筒を配る。
「午前六時を確認しました。正式課題書を開封してください」
ライオが封蝋を切る。
四人で紙を覗き込んだ。
——試験区域、旧工業区E7ブロック。
——主目標、都市冷却補助系統の再起動。
——中央管理棟の制御権を確保せよ。
——必要な情報、資材および権限のすべてが、第三班へ与えられているとは限らない。
「不完全な情報か……」
カイルが悩ましげに呟いた。
「第五班が鍵。部品は第二か第九。完全図面は協力員の誰かってとこだろうな」
ライオは即答した。
「まだ確定してないだろ」
「携行品の量、協力員の様子、公開されてる入域経路から推測できる」
「その推測の中身を聞いてるんだけど?」
「あとでな」
カイルが言い返そうとした時、正面の認定官が声を上げた。
「課題書を確認した班も、まだ移動しないでください。試験区域への入域はこちらから指示します」
立ち上がりかけていた受験者たちが止まる。
会場がざわついた。
「全班同時ではないのか?」
「先に入った班が有利になるだろ」
「投入順はどうやって決めた?」
認定官は騒ぎが収まるのを待たなかった。
「第六班。東側第二搬入口より入域してください」
第六班の五人が顔を見合わせる。
呼ばれた班だけが立ち上がり、案内役の職員に続いて会場を出ていく。
扉が閉じる。
次の班は呼ばれない。
一分。
二分。
会場の空気が落ち着かなくなる。
「これは不公平ではありませんか」
受験者の一人が立ち上がった。
「先行班が設備や情報を確保すれば、後発班は不利になります」
「そういう面もあるでしょう」
認定官は平然と答えた。
「では――」
「しかし、協力員のストーリーが個別に設定されている時点で、全班が同じ条件で受験する試験でないことはわかっていたはずです」
会場が静まる。
「なぜ、“よーいどん”で始まると思っていたのですか?」
誰も答えない。
「早く投入される班には、情報が少ない状態で先行する危険があります。後発班は痕跡や変化を利用できますが、既に確保された経路や設備へ対処しなければならない可能性があります」
認定官は続ける。
「与えられた条件を不公平と呼んで止まるか、利用可能な状況として扱うか。それも審査対象です」
「性格悪い試験だな」
カイルが小声で言った。
「あの人が関わってる試験だ。当然そうなる」
ライオは一度だけ、壁際へ視線を向けた。
白い制服の女が、壁にもたれたまま腕を組んで立っていた。
短い黒髪には白いものが混じり、頭上の狼耳は片方だけ途中から欠けている。古傷の残る顔に表情らしい表情はない。けれど、ざわつく受験者たちの中で、彼女だけが最初からこの混乱まで予定に入れていたように見えた。
ライオは、苛立ちとも確認ともつかない目で彼女を見る。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
すぐに視線は、先行投入された第六班の席へ移る。
資料の残り方。
協力員の装備。
会場を出た方向。
入域までに与えられた時間。
何かを記録している。
「何見てるの?」
「全部」
「答えになってない」
「お前の質問が馬鹿なんだよ」
「……隊列ですか? それとも装備?」
ノアが尋ねる。
「見りゃわかるだろ」
「わからないから聞いています」
思わず言い返した。
ライオの目がノアへ向く。
「東側第二搬入口。協力員の装備が軽い。移動目標か、運搬物を現地調達する課題。第一目的が設備修復なら、あの荷物じゃ足りねぇ。協力員を先頭にしている隊列からして、アレは“護衛対象”じゃねぇ。大方、現地協力者かなんかってストーリーだろうと想像できる。大穴で地雷避けだが、まぁそんな編隊組むバカはいねぇだろ」
説明はできる。
やはり、しないだけなのだ。
「最初から言ってください」
口にしてから、ノアは自分でも驚いた。
ライオの眉が動く。
「聞かれなかった」
「聞きました」
「何について聞かれてるかまで俺に判断しろってか? てめぇらが聞くべきことを整理してから口開け」
まるで何も問題がないように言う。
ノアはまた腹が立った。
自分が誰かへ腹を立てていること自体が、少し不思議だった。
「第二班。地下第三保守坑より入域してください」
次の班が呼ばれる。
さらに時間が過ぎる。
第五班。
第一班。
投入順に規則性はない。
班ごとの投入間隔も一定ではなかった。
ライオはそのたびに何かを書き込んでいる。
「第五班は先に入った」
カイルが言う。
「同じ搬送路を使う可能性があるんだよな」
「ある」
「先に押さえられたかも」
「押さえるだけの時間を与えられたとも限らねぇ」
「どういうこと?」
「投入地点と目的地が同じだと思ってんのか。別方向へ行かされてる可能性もある」
「なら先行かどうかは、まだわからない?」
「そうだ。警戒しとくに越したことはないがな。やっと頭が動いたか」
「一言余計だよ」
認定官が資料を見る。
「第三班」
四人の空気が変わった。
「西側第四搬入口より入域してください」
ライオが立ち上がる。
「カイル。入ったら盾構えろ」
「なんで?」
「言われた通りやれ」
「理由を言ってくれって」
「……奇襲がねぇと断言できるのか?」
カイルの顔から軽さが消えた。
複合盾の固定具を締める。
「待ち伏せってこと?」
「投入順がずれてる。ノアに追加ストーリーがある。先行班のどれかが狙っててもおかしくねぇ。さっきも言ったが、何もなきゃ何もないでいい。けど備えてなきゃ遅れる」
「そこまで考えてたならちゃんと言ってくれ」
「いま言った」
カイルがため息を吐いたのがわかった。彼にしては相当イラついている……というより、困っているように思えた。
四人は案内役の職員へ続く。
集合場所を出ると短い廊下の先に、金属製の昇降機が待っていた。
中へ入ると、重い扉が閉じる。
やがて機械音がして身体に僅かな浮遊感を覚えた。
地下へ降りている。
ノアは鞄の紐を握った。
隣にはカイル。
その先にエヴァンジェリン。
一番奥で、ライオが目を閉じている。
眠っているようには見えない。
頭の中で、何かを組み立て続けているようだった。
「先輩」
エヴァンジェリンが呼ぶ。
「なんだ」
「熱源反応があります。……支社から持ってきた探知機、役に立ちましたね」
「どうでもいい。数は」
「右前方、三。左上方、一。正面奥に二」
「人か」
「断定できません」
「カイル」
「はいはい、わかったよ」
複合盾が展開される。
金属音が狭い昇降機の中へ響いた。
ノアの心臓が速くなる。
「ノア」
ライオが目を開いた。
「勝手に動くなよ」
「どうして」
「てめぇみてぇな鈍臭い荷物が一人で動くと、拾い直すのが面倒だ」
また荷物と言われた。
不安より先に、腹が立った。
「僕は……荷物じゃありません」
ライオが一瞬、黙る。
「なら荷物にならねぇ動きしろ。十中八九、てめぇが狙われてるのはわかってんだろうな?」
昇降機が止まる。
扉の向こうで、大きな機械が動く音がした。
金属扉が左右へ開く。
薄暗い旧工業区。
錆びた搬送路。
剥き出しの配管。
遠くで明滅する非常灯。
「カイル、盾!」
ライオが叫ぶ。
カイルの複合盾が正面へ滑り込んだ。
直後。
鋭い金属音。
細い杭のようなものが盾へ着弾した瞬間展開し、がっちりと盾を掴むように食らいつき、鎖が張る。
「チェーンフック?!」
カイルが盾を引く。
左右の高架通路から人影が飛び降りた。
正面の廃工場、二階の窓にも人がいる。
三方向。
全員が受験者用の認識票を身につけていた。
「第三班へ通告する」
正面に立った女が、片手を挙げた。
「我々、第五班の副次目標は、協力員ノアの確保および指定端末への護送だ。……ノアくん、我々と共に来てもらえるかな?」
ノアの喉が鳴った。
予想していた。
資料にも書いてあった。
それでも、実際に自分を目標として見られると、身体が固まる。
「抵抗しなければ危害は加えない」
「チッ、俺たちは無視か?」
ライオが吐き捨てる。
長杖を抜き、石突きを床へ打ちつける。
淡い光が足元へ広がった。
「ノア、下がって」
庇うように右手でノアを押しやりながらカイルが言う。
「な、なんで……」
「わからねぇのがてめぇのストーリーだろ。記憶喪失って設定なんだからよォ」
言葉は突き放すようだった。
けれどライオは、ノアと第五班の間へ立っている。
「ぼさっとすんな。てめぇが確保されたら俺たちが損すんだよ」
損。
また、そういう言い方をする。
ノアは歯を食いしばった。
この人は嫌いだ。
正しいことをしている。
たぶん、守ろうとしている。
それでも嫌いだった。
「……行きません」
それでもノアは答えた。
誰のためでもない。
少なくとも、ライオに命令されたからではなかった。
「第五班には、ついて行きません」
「聞いたな」
ライオが笑った。
楽しそうではない。
獲物へ牙を見せるような、ひどく獰猛な笑みだった。
「先手とったくらいで余裕こいてんじゃねえよ。……俺たちゃ、強いぜ」
第五班が一斉に動く。
試験は既に始まっている——。




