第十三話
整備デッキの端、作業台の一角だけ、工具と部品が退けられていた。
ガンツがノアの持ってきた布包みへ目を向けたのは一度だけだった。包みを手に取り、顎で作業台を示す。
「開けろ」
ノアが布を解くと、緩衝材に包まれた部品が順番に現れた。
薄い金属板の断片。長さの違う接続ピン。黒く磨かれた小さな基盤。手順書は一番上に折りたたまれていた。
ガンツの反対側では、カイルが作業台へ肘をつきながら覗き込んでいる。朝から整備デッキへ顔を出したのは単純に中身が気になったかららしい。
「これ全部バラバラなんだ」
「組み立てキットだからな」
ガンツは部品を一つずつ取り上げた。片目に拡大鏡を当て、指先で縁をなぞり、継ぎ目を確かめ、また次を手に取る。
「追跡用の発信部はない。細工の痕跡もなし。部品も揃ってる」
「……よかった」
ノアは知らず知らずのうちに止めていた息を吐いた。
「ほれ、読め」
顎で促され、ノアは手順書に目をやる。図と短い説明が並んでいる。平易な言葉で書かれていて、確かに読めた。
読めたが、自分の手がそれを迷わず行えるかどうかは、別の話だ。
「どこから始めれば……」
「書いてある通りにやれ。わからなくなったら手を止めろ。勝手にできる気がしても、口に出して確認しろ」
ガンツは腕を組んでノアの手元を見ている。
「これどの程度の機材なんです?」
カイルが不思議そうに口を挟む。
「まあ、堅実な術士向けの古い機材だな」
「回答がふんわりしすぎててわからないんですけど……」
「お前の質問がふんわりしてたからな。勉強しろ」
ガンツは呆れたように言ってから、ノアの方を向いた。
「ノア、お前にわかりやすく伝えるならこいつは小型のエンジンみたいなもんだ。こいつを使って何をするかは使い手が術式として成立させなきゃならん……といっても、高次方術をなんとなくで使えるお前には違いがわからんかもしれんがな」
「……さっぱりわからないです」
「だろうな。お前も勉強しろ。……手ぇ止まってんぞ」
ノアは基盤を手に取った。
指先が冷たい金属に触れる。
手順書の通りに接続ピンを所定の位置へ差し込む。
考えるより先に、手が動いた。ピンが溝に収まる感触。二本目。三本目。
——知ってる。
この手が、どこへ何を差し込むのかを知っている。
手順書を確認している。その通りに動いている。けれど確認しなくても、たぶんできた。
ルカが積み上げてきたものが、この手の中にある。
そう気づくだけで、胸の内側が擦れる。
「……僕が使っても、大丈夫なんでしょうか」
「知らん」
あまりにもあっさりと返されて、ノアは顔を上げた。
ガンツは腕を組んだまま、ノアの手元を見ている。
「機械として壊れてねぇことはわかる。安全装置も生きてる。お前向きの機材だ。だが、お前がまともに扱えるかは別の話だろ。お前、野菜を前にしておっかなびっくり包丁持ってるやつに大丈夫って言えるか?」
「……そう、ですよね」
「だから、さっき言っただろうが。わからなくなったら手を止めろ。できる気がしても口に出せ。ダメそうなら近くにいる誰かが止める」
「……はい」
「また手ぇ止まってんぞ」
ノアは手元へ視線を戻した。
次のステップ。金属板の取り付け。指先が正しい位置を探す——すぐに見つかる。
最後に、小さな留め具が一つだけ残っていた。
決まった場所が一か所だけある。ノアはそこへ差し込み、軽く押した。
かちり、と乾いた音がした。
「……できました」
自分の声が少し驚いているのが、自分でもわかった。
ガンツは演算器を手に取り、角度を変えて見た。裏側を確認し、接続部を一つずつ指で押す。
それからノアの方へ押し戻した。
「ネジ止めがあまいが、及第点だな。持ってけ。ただし許可が出るまで使うな」
「はい。ありがとうございます、ガンツさん」
「よし」
ガンツはそれで話は終わりだと言わんばかりに背を向けると、近くの配管をハンマーの柄で二度叩いた。
少し離れた場所から、一度だけ硬い音が返る。
整備デッキの作業が、途切れることなく続いていく。
「終わった?」
カイルが尋ねた。
「はい。……お待たせしました」
「いいよ。まだ時間あるし」
壁に掛けられた時計へ目を向ける。
ジークから指定された時間までは、まだ少し余裕があった。
ノアは演算器を布へ包み直し、支給された小さな鞄へしまう。
その様子を見ていたガンツが、ふと口を開く。
「そうだ、カイル」
「なに?」
「お前、なんでもかんでも勘でやろうとすんなよ?」
「急に何の話?」
「試験のアドバイスに決まってるだろ」
ガンツは作業台へ散らばった工具を拾い集めながら続ける。
「勘ってのは要するに人の無意識が経験や状況から導き出す答えのことだ。お前は勘がいいが、無意識すぎる。行き詰まるぞ」
カイルは少しだけ目を丸くした。
それから困ったように頬をかく。
「……そんなに何も考えてないように見えます?」
「自覚なかったのか」
「ガンツさん、言い方」
ノアは思わず小さく笑った。
「ちゃんと色々考えて行動してるつもりなんだけどな」
「考えてるやつは月に何枚も始末書を書かない」
「……気をつけます」
「そうしろ」
ガンツは鼻を鳴らすと、作業台の向こうへ戻っていった。
カイルと二人で整備デッキを出る。
閉じた隔壁の向こうへ、工具の音とエンジンの低い唸りが遠ざかっていった。
* *
港の事務区画に設けられた会場には、長机が段状に並べられていた。正面には大きな黒板と、数枚の地図が掛けられている。装飾はほとんどなく、椅子も長時間座ることを考えていないような硬い作りだった。
ノアが入った時には、既に半分以上の席が埋まっていた。
胸元に留められた薄い金属の参加票に、指先が触れる。ノア、と刻まれたその下に、小さく協力員とある。
一時間前のことだった。窓のない小会議室で、白い制服の女性と向かい合った。G.U.I.L.D.の上級職員を名乗るその女性は、ノアに試験の補助員として参加することを提案した。
——適性を把握できていない者に、なんであれライセンスを発行することは不可能だ。
拒否はできた。
けれど拒否した先にあるのは、セブンスヘブンにとってただの客員として留まることだった。方術も整備も許されない。どこにも登録されない。
ノアは参加を選んだ。
視線を上げると、会場には武器や防具を携えた者たちが並んでいる。
年齢も種族もまるで揃っていない。
ノアより少し年上にしか見えない獣耳の少女が杖の先端を磨いている。二本の角が額から突き出た大柄な男が工具鞄を開いている。鱗の混じった肌をした老人が静かに書類を読んでいる。
共通しているのは、胸元や腰にG.U.I.L.D.の認識票を下げていることだけだった。
壁際に設けられた協力員席は、受験者たちの机から少し離れた位置にあった。
カイルは受験者席へ、ジークとミラはさらに後方の関係者席へ座っている。
カイルから少し離れただけなのに、急に心細く感じられた。
膝の上へ鞄を置き、胸元の参加票へ触れる。
受験者席の方へ目を向けると、見知った顔があった。
ライオだった。
長い杖を壁へ立てかけ、腕を組んで座っている。
隣にエヴァンジェリン。
ライオの前の机には何枚かの紙が伏せてあった。その上にペンが置かれている。書き終えた後のように見える。
エヴァンジェリンは手元の紙束に目を落としていた。時折、小さく首を傾げる。けれどライオには何も聞かなかった。
周囲の受験者が雑談や確認に追われている中で、二人の間だけが妙に静かだった。
やがて、正面の扉が開いた。
ざわめきが少しずつ小さくなる。
入ってきたのは、端末を抱えた職員が二人と、灰色の制服に身を包んだ中年の女性だった。背筋がまっすぐに伸びている。
教壇の中央に立ち、部屋を一度見回す。
「時間です。着席してください」
大きな声ではなかった。
それでも室内の話し声が止まる。
ライオも不満そうな顔のまま前を向いた。
今回のG3昇級試験を担当する認定官だと、彼女は短く名乗った。
「ここにいる受験者は、全員が所属先からの推薦を受けています。個人技能については、既に一定の評価を得ているということです」
「戦えること。術を使えること。武器を正しく扱えること。それらを一から確認するつもりはありません」
室内の空気が、わずかに変わった。
「G3に求めるのは、危険区域において任務を独立して遂行する能力です。自分一人で問題を解決することだけでなく、与えられた人員を使い、必要な情報を集め、撤退すべき時に撤退する能力も含まれます」
試験官の視線が、受験者たちを順番に撫でていく。
「よって今回の試験では、こちらが指定した班で行動してもらいます。編成に対する異議は受け付けません」
後方で、誰かが小さく舌打ちをした。
ライオではなかった。
ライオは無言だったが、嫌な予感でもしたのか眉間の皺が深くなっている。
「また、編成は無作為ではありません。提出された勤務記録、所属先からの評価、過去の任務における行動、当然直近のものも含めた問題行動記録も参照しています」
受験者席の中ほどで、カイルが少しだけ肩を縮めた。
ライオは動かなかった。
ただ、机の上へ置かれた指先が、わずかに曲がる。
「各班には協力員が一名ずつ配属されます」
試験官の視線が、壁際の協力員席へ向いた。
「協力員にはそれぞれ、我々が『ストーリー』と呼んでいる固有の条件書が付与されています。条件書の内容は班編成と共に開示されます」
ノアの背筋が伸びる。
「協力員が何をでき、何ができないのか。その制約を把握し、適切に配置し、必要であれば保護すること。これも評価の対象です。なお、試験区域内では他班との遭遇が想定されます。戦闘、交渉、あるいは協力——状況に応じた判断が求められます。他班の協力員に対する行動も同様です」
何人かの受験者が、協力員席を振り返った。
ノアは逃げるように俯きそうになり、膝の上で拳を握る。
胸元には、ノアと刻まれた参加票がある。
それを指先で確かめてから、顔を上げた。
「班は協力員を含め四名から六名。班ごとに指定された実地課題へ従事してもらいます。課題の詳細は明朝、出発前に伝達します。班内での役割分担は原則として自由です。では、班編成と協力員の条件を発表します」
職員の一人が黒板の横へ立ち、細長い紙を貼り出していく。
名前がいくつも並ぶ。
受験者たちが首を伸ばし、自分の名を探し始めた。
ノアの位置からは、文字が小さすぎて読めない。
試験官が名簿に目を落とし、読み上げを始めた。
第一班、第二班の編成が告げられる。それぞれの協力員の条件も簡潔に読み上げられる。受験者たちが顔を見合わせ、何かを確認し合っている。
「第三班」
試験官が読み上げた。
「班長、ライオ・グレンデル。第七広域警備保障フリット支社所属」
短い間があった。
ライオは動かなかった。
背もたれへ深く身を預けたまま、腕を組み、前を向いている。
驚いた様子は、ない。
「構成員、カイル・ヴォルフシュテイン。第七広域警備保障セブンスヘブン所属」
「はい」
「エヴァンジェリン・ロート。第七広域警備保障フリット支社所属」
「はい」
エヴァンジェリンは、わずかに眉を上げたものの、静かに応じた。
「協力員、ノア」
「はい」
ノアも返事をする。
カイル。
ライオ。
エヴァンジェリン。
そして、自分。
フリットの演習場で向かい合っていた人たちが、今度は同じ班になる。
偶然とは思えなかった。
「第三班の協力員は、指定席へ移動してください」
試験官に促され、ノアは鞄を抱えて立ち上がった。
会場中の視線が自分に集まっている気がした。
足が少し重い。
それでも、胸元の参加票を握ることはしなかった。
足早に受験者席の間を進む。
カイルが椅子を少し引き、空いた場所を示した。
「こっち」
「ありがとうございます」
ノアが腰を下ろした直後、椅子の脚が床を擦る甲高い音が響いた。
「待て」
ライオが立ち上がっていた。
試験官を真っ直ぐに見ている。
「なんでこいつが同じ班なんだ」
指がカイルを指していた。
「じゃあ俺からも。なんでこの人が班長なんですか」
カイルが続けた。声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
ノアはその横顔を見た。カイルがこういう目をするのは、あまり見たことがない。
試験官は二人を見た。
「順番に答えます」
カイルの方を向く。
「ライオ・グレンデルが班長である理由は、この班の中で総合的な技術評価が最も高いからです」
カイルは口を閉じた。
納得した顔ではなかった。いつもの軽さが消えている。
ノアは、そんなカイルを見るのは初めてだと思った。
「次」
試験官はライオの方を向いた。
「あなたたちがフリット支社内で私闘を行ったことは把握しています。エヴァンジェリン・ロートを含めた関係者の言動記録も確認しました」
会場の空気が静まる。
ライオの顔から怒りが消えた。
代わりに、警戒するような硬さが浮かぶ。
「相性の悪い人員が存在するなら、試験では組ませます。任務中に好き嫌いで仕事の質が変わる人間を、G3へ昇級させることはできません」
「……なんだと」
「親しくなる必要はありません。互いを尊敬することも求めません。ただし、任務遂行に必要な情報を共有し、能力を適切に利用し、必要であれば相手の正しい判断に従ってください」
ライオの拳が握られる。
「俺に問題があるって言いてぇのか」
「個人技能については、フリット支社から十分な評価を受けています」
試験官は一度区切った。
「しかし、コミュニケーション能力への懸念のために、四年にわたり所属先からの昇級推薦が行われなかったという事実があります」
会場のどこかから、小さく息を呑む音がした。
エヴァンジェリンが目を伏せる。
間があった。
「もうガキじゃないんだ。噛みつくんじゃないよ」
試験官の声ではなかった。
会場の後方、壁際に立っていた女性が一歩前に出た。
白い制服。短く切り揃えた白髪交じりの黒髪。左頬に残る古い傷跡。目を引く狼の耳は、左だけ一部が欠けていた。胸元の徽章が、照明を鈍く反射している。
一時間前、ノアと向かい合っていた女性だった。
ライオの目が見開かれた。
一瞬、殴られたような顔をした。怒りが浮かび、次に何か別のものがその顔を通り過ぎていく。
耳まで赤くなっている。
「——クソババァ……」
「責任者として、ここで不合格にしてやってもいいんだよ?」
声は柔らかかった。けれど、目が笑っていなかった。
「…………チッ……すんません」
声が絞り出すように小さかった。
ライオは腕を組んだまま、座った。
「……先輩」
エヴァンジェリンが小さく声をかけた。
「黙ってろ」
低い声だった。
エヴァンジェリンは口を閉じた。何か言いたそうだったが、言わなかった。
「説明を続けます」
試験官が第三班の協力員条件を読み上げた。
「協力員ノアの条件は以下の通り。エピソード記憶の喪失状態にあり、身元は確認中。方術機械および方術への無意識的な理解を持つが、程度は不安定。高次方術の行使は、本人が使用可能と申告した場合であっても許可しない」
ノアは自分のことが、他人の症例のように読み上げられるのを聞いていた。
全部事実だった。
けれど、こうして条件として並べられると、自分が試験の課題の一部になったように感じる。
「班長はこの条件を踏まえ、協力員の運用を判断してください」
ライオがこちらを見た。
顔にはまだ苛立ちの名残がある。
「……整備はできるのか」
突然問いかけられ、ノアは目を瞬いた。
「はい。まだ見習いですけど」
「何が触れる」
「圧力計の分解と補修は少し。バルブユニットの洗浄と仮組み、配管の亀裂なら——」
「方術回路は」
「見ればわかる時もあります。でも説明できるかは……」
「使えるかもわかんねぇもんは使わせねぇ。できることだけやれ。余計なことすんな」
言い方はきつい。
さっきの苛立ちがまだ残っているのかもしれない。
けれど、聞いていることは実務的だった。
ルカならできるかとは聞かれなかった。
過去に何を学んだのかも問われない。
今、何ができるのか。
それだけを聞かれた。
「……はい」
「聞こえねぇ」
「はい」
「……ったく」
ライオはそれきり前を向いた。
エヴァンジェリンはライオとノアのやり取りを黙って見ていた。
試験官は短く息を吐いた。
「……試験の有効性が、開始前から証明されたようでなによりです」
誰も返さなかった。
説明会はその後も続いた。
集合時間。携行品。試験中の連絡手順。
配布された資料を受け取ると、ライオはすぐにペンを走らせ始めた。
ページをめくる間もなく書き込んでいく。その速さが、周囲の受験者と明らかに違っていた。
エヴァンジェリンが何かを指摘すると、ライオは一瞬だけ手を止め、短く頷き、また書き続けた。
ノアは膝の上の鞄へ手を置いた。
その中には演算器がある。
胸元には、ノアと刻まれた参加票がある。
明日から始まるものが、自分に何を与えるのかはわからない。
怖くないはずがなかった。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
できることをやる。
まだ、それしか決められない。
けれど今は、それでいいような気がした。
説明会の終わりを告げる鐘が、会議室の壁で短く鳴った。
その音の向こうで、ゼリウスの地下を走る大型の搬送路が、重い車輪の音を響かせていた。




