第十二話
扉が閉まる音は、ひどく小さかった。
ぱたん、と。
ただそれだけの音だったはずなのに、ノアには胸の奥で何かが落ちる音のように聞こえた。
——貴方なら。
オルドリシュカの最後の言葉が、耳の奥に残っている。
使い方は衛士なら誰でもわかる。
それに、私が教える必要はないでしょう。
貴方なら。
その言葉が、ノアに向けられたものではないことだけは、嫌というほどわかった。
彼女はきっと、悪意で言ったのではない。
オルドリシュカにとっては、ただの事実確認だったのだろう。入港時に読み取った感応波形。身体に残った技能。方術の教育を受けていたかもしれない痕跡。
それらを総合すれば、この演算器を扱える可能性が高い。
だから渡した。
だから、教える必要はないと言った。
ただ、それだけ。
けれどノアには、それだけでは済ませられなかった。
手の中には、暗い色の布で包まれた小さな演算器がある。掌に収まるほどの大きさなのに、妙に重い。
金属の重さではない。
そこに込められているのは、ノアではない誰かへの期待だ。
ルカ・ホークウィード。
この身体の、本来の名前。
——僕じゃない。
胸の奥で、声にならない言葉が沈んでいく。
自分でも馬鹿げていると思った。そんなことは最初からわかっていたはずだ。鏡を見た時から。ジークに名前を告げられた時から。工具を握った手が勝手に動いた時から。
この体には、自分の知らないものが残っている。
その事実は、何度も突きつけられてきた。
それでも、誰かに当然のように「貴方なら」と言われると、息が詰まる。
「……ノア」
低い声で名前を呼ばれて、ノアは肩を震わせた。
顔を上げると、ジークがこちらを見ていた。椅子の背に片手をかけたまま、何かを言うべきか少し迷っているような顔だった。
「気にすんな」
結局、出てきたのはそんな短い言葉だった。
「リシュカはああいう奴だ。人の気持ちより先に、使えるか使えねぇかで物を見る。悪気はねぇんだろうが、刺さる時は刺さる」
ノアはすぐには返事ができなかった。
「……はい」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも小さかった。
ジークはそれ以上深く聞こうとはしなかった。代わりに、面倒そうに頭を掻く。
「お前さんが何をどこまで思い出せるのかは知らん。思い出せねぇなら、それでいい。だが、体が覚えてることまで全部捨てる必要はねぇ」
体が覚えていること。
その言葉に、ノアは手元の包みを見下ろした。
違う、と言いたかった。
捨てたいわけではない。捨てられるはずもない。これはきっと、ルカが積み上げてきたものだから。
けれど、だからこそ怖いのだ。
自分が使えば使うほど、彼女の人生を勝手に消費している気がする。
自分が役に立てば立つほど、それは自分ではなくルカの価値なのだと思い知らされる。
そんなことを言えるはずがなかった。
ジークもミラも、カイルも、みんなノアを「記憶を失った少女」として扱っている。少なくとも、そういう形で納得しようとしてくれている。
ならば、ここで自分だけが違う真実を吐き出すわけにはいかない。
「……怖いんです」
だから、言えたのはそれだけだった。
ミラの耳が、わずかに伏せられる。
彼女はノアの隣まで歩み寄ると、いつものように急かさない声で言った。
「前にも少し話しましたよね。自分の名前や来歴を思い出せなくても、身体に染みついた作業や技術だけが残ることはあります。だから……怖いことではない、とは言いません。でも、すぐに悪いものだと決めつけなくてもいいと思います」
医師としての言葉だった。
優しいけれど、慰めだけではない。ノアの不安を消し去るのではなく、名前を与えようとする言葉。
ノアは小さく頷いた。
「……はい」
「それに、怖いなら一人で触らなければいいんです。ガンツさんに見てもらいましょう。あの人なら、危ないものかどうかはきっとわかります」
「ガンツさんに……」
その名前が出ると、少しだけ息がしやすくなった。
オイルの匂いと、鉄の音。短くて乱暴な物言い。大きなサンドイッチ。
ガンツなら、この演算器を見て何と言うだろうか。余計なことを考える前に「まず手を洗え」とでも言うかもしれない。
そう想像したら、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「そうですね。ガンツさんに見てもらいます」
「それがいいです」
ミラも小さく微笑む。
その表情に、ノアの肩から少しだけ力が抜けた。
ジークは扉の方へ顎をしゃくった。
「話は終わりだ。戻るぞ。リシュカは放っておいても勝手に調べる」
「セブンスヘブンに戻るんですか?」
「一旦な。艦の検査と入港手続きが残ってる。それと、カイルの試験関係の話もある」
カイルの試験。
その言葉で、ノアはフリットでの模擬戦を思い出した。
ライオの炎。
カイルの複合盾。
砕けた防壁。
演習場に落ちた静寂。
そして、去っていく背中。
あれから、まだそれほど時間は経っていない。
なのに、随分遠い出来事のような気がした。
「カイルさんの、昇級試験ですよね」
「ああ。あいつはそのためにゼリウスまで来てる。……途中で余計な私闘を挟んだせいで、面倒が増えたがな」
「すみません。僕がいたから」
「お前さんが謝る話じゃねぇ」
ジークは即座に言った。
その言い方があまりに断定的だったので、ノアは言葉を止める。
「喧嘩を買ったのはカイルだ。止めなかったのは俺だ。お前さんのせいにする理由がねぇ」
「でも」
「でもじゃねぇ」
切り捨てるような言葉だった。
けれど、不思議と痛くはなかった。
「お前さんはすぐ自分のせいに持っていくな。癖か?」
ノアは返事に詰まった。
癖。
そうかもしれない。
自分が生きていること自体が誰かの負担になるという感覚は、前の世界からずっとあった。病室のベッドの上で、何もできず、誰かに世話をされるばかりだった日々。
そこに今は、ルカという少女の存在が重なっている。
「……そうかもしれません」
「なら直せ。少なくとも仕事中は邪魔になる」
「仕事中」
「お前さんは今、整備班の見習いだろうが」
ジークは当然のように言った。
整備班の見習い。
その言葉が、胸の奥に小さく落ちる。
それは偽りの立場だ。便宜上のものだ。ジークの裁量で与えられた、一時的な居場所でしかない。
それでも、確かに今のノアに与えられている役割だった。
「……はい」
「なら、まず飯を食え。次に寝ろ。明日からはガンツの言うことを聞け」
「え?」
「腹が減ってる時に人生の方針なんざ決めるな。ろくなことにならん」
あまりにも実際的な言葉だった。
ミラが小さく吹き出す。
「隊長らしいですね」
「何だその顔は」
「いえ、正しいと思います。ノアちゃん、朝からあまり食べていないようですし」
「……どうしてわかるんですか」
「医師ですから」
ミラは少しだけ得意げに言った。
その耳が、ほんのわずかに前へ傾いている。
ノアは観念して頷いた。
「食べます」
「よし」
ジークはそれで話は終わりだと言わんばかりに歩き出した。
ノアは慌てて小さな包みを抱え直し、ミラと並んでその後に続く。
部屋を出ると、港の事務区画には変わらず柔らかな白色光が満ちていた。
壁は平滑で、床は磨かれている。けれど足元からは、ドック側の低い振動が絶えず伝わってきた。
ゼリウスという都市そのものが、壁の向こうで呼吸しているようだった。
通路の先に、オルドリシュカの姿はもうない。
代わりに、制服姿の職員が一人待っていた。大きな丸い耳と落ち着きなく動く指先。その姿はどこかネズミのように思える。
彼は端末を抱え、ノアたちを見るなり早口で口を開いた。
「ロックウッド隊長ですね。入港手続きの追加確認です。セブンスヘブンの一次検査は本日中に実施、詳細検査は明朝以降。乗員の外出許可は限定付きで発行されます。未登録乗員ノアさんについては、監督者同伴時のみ港湾区画内の移動を許可。港湾外への移動も同様です。簡易、高次いずれも含む方術の使用禁止。都市管轄の方術機械への無許可接続禁止。以上です」
一息で言い切られ、ノアは内容を飲み込むのに少し遅れた。
未登録乗員。
その言葉が、じわりと胸に滲む。
この世界において、ノアという人間はまだ書類の上に存在していない。
名前を名乗っても、姓はない。
来歴もない。
記録もない。
ただ、ジークたちの保護と説明によって、かろうじてここに立っている。
「了解した」
ジークは短く答え、端末に表示された何かを確認する。
職員はさらに指を動かした。
「それと、カイル・ヴォルフシュテインさんの昇級試験に関する招集通知が出ています。明朝、第二会議室にて説明会があります。推薦者であるロックウッド隊長の出席も求められています」
「明日非番の予定だったんだがなぁ」
ジークが嫌そうに眉を寄せる。
職員はそれを見かなかったことにするように、端末へ視線を落とす。
「それと、ノアさんについても同席の可否を確認したいとのことです」
「僕も、ですか?」
思わず声が出た。
職員の丸い耳がぴくりと動く。
「はい。正式な受験者としてではありません。臨時雇用者としての扱い確認、および今後の認定試験適性についての予備面談です。詳細は明朝説明されると思います」
認定試験。
適性。
予備面談。
言葉だけが、頭の中で順番に並んでいく。
意味はわかる。けれど、自分のこととしてうまく結びつかない。
ノアという名前で。
ルカの身体で。
公的な何かに、記録されるかもしれない。
それは少しだけ救いのようで、同じくらい恐ろしかった。
「……大丈夫ですか?」
ミラが隣でそっと尋ねる。
ノアは一度息を吸ってから、小さく頷いた。
「はい。……たぶん」
「たぶん、が多いですね」
「自信がなくて」
「いいんです。自信がない時に自信満々で動く方が、医者としては怖いです。カイルくんとかほんとひどいんですよ……」
ミラはそう言って、優しく笑った。
その言葉に、ノアは少しだけ息を吐く。
自信がなくてもいい。
怖くてもいい。
そう言われると、ほんの少しだけ立っていられる気がした。
手続きを終えると、三人は事務区画を出てターミナルへ戻った。
扉が開いた瞬間、ゼリウスの音が押し寄せてくる。
蒸気弁が開く音。荷役機械の駆動音。遠くで怒鳴る作業員の声。金属がぶつかる高い音。
整った事務区画の白い静けさとは違う、鉄と油の現実。
その雑踏の中に、見慣れたオレンジ色があった。
「あ、戻ってきた」
カイルがこちらに気づいて手を振る。
彼は何人かの乗員と一緒に、荷物の積まれた台車のそばに立っていた。いつもの明るい顔だったが、ノアを見る目には隠しきれない心配があった。
「大丈夫だった?」
近づいてきたカイルが、まずそう聞いた。
ノアは少しだけ迷ってから頷く。
「はい。ひとまず、書類上は問題ないそうです」
「そっか。よかった」
カイルは心から安堵したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった硬いものが少しだけ緩む。
だからこそ、心配をかけたくないと思ってしまう。
「それ、なに?」
カイルの視線が、ノアの手元の包みに向いた。
「オルドリシュカさんから渡されました。組み立て式の演算器、だそうです」
「え、あの人から?!」
カイルの表情が、わかりやすく変わった。
驚きと、困惑と、少しの警戒。
「……うわ、絶対むずかしいやつだ」
「見ただけでわかるんですか」
「見た目が小さい道具って経験上やたら難しいんだよね。俺は触らない方がいいと思う」
「さすがにちょっと雑じゃないですか?」
「そ、俺大雑把なんだよね」
カイルは真顔で言った。
思わずノアは小さく笑ってしまう。
「ガンツさんに見てもらおうと思っています」
「それがいい。ガンツさんなら、危ないかどうかすぐわかるだろうし」
「はい」
「ノア、こういうの得意だよね?」
何気ない問いだった。
けれど、ノアは一瞬だけ返事に詰まる。
得意なのだろうか。
わからない。
けれど、手順書を見た瞬間、部品の位置が少しだけわかった気がした。指が先に理解しようとしていた。
「……わかりません。でも、手順は少しだけわかる気がします」
「そっか」
カイルはそれ以上深く聞かなかった。
ただ、いつものように柔らかく笑う。
「じゃあ、なおさら一人で組まない方がいいね。わかる気がする時って、結構危ないし」
「そうなんですか?」
「うん。俺もたまに、いける気がして突っ込んで隊長に怒られる」
「お前はたまにじゃない」
ジークが横から低く言った。
カイルは気まずそうに目を逸らす。
「……反省してます」
「嘘つけ」
少し空気が軽くなった。
ノアは包みを胸元に抱え直す。
まだ怖い。
けれど、今すぐ一人で向き合わなくてもいい。
ガンツに見せる。ミラに相談する。ジークに止めてもらう。カイルに笑ってもらう。
そうやって、一つずつ触れていけばいいのかもしれない。
「それとカイル」
ジークが言った。
「明朝、説明会がある。第二会議室。俺とお前、ついでにノアも呼ばれるらしい」
「ノアも?」
「予備面談だとよ。臨時雇用者の扱いと、認定試験適性がどうこう」
「ああ……そっか」
カイルは納得したように頷いた。
そして、ノアの方を見る。
「緊張する?」
「……します」
「だよね。俺もするよ」
「カイルさんでも?」
「するよ。昇級試験なんて初めてだし、書類とか説明会とか苦手だし」
「お前は戦闘以外だいたい苦手だろ」
「隊長、ひどくないですか」
「事実だろ」
カイルが情けない顔をする。
ノアはまた少し笑った。
カイルでも緊張する。
それは、ノアにとって少し意外で、少し安心できることだった。
強い人でも、不安になる。
明るい人でも、怖いものは怖い。
なら、自分が震えていることも、少しだけ許される気がした。
「できることをやろう、ですよね」
ノアが言うと、カイルは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに目を細めた。
「うん。まずはそこから」
その言葉を聞いて、ノアは頷いた。
できることをやる。
今の自分にできることは、多くない。
演算器をガンツに見せること。
ご飯を食べること。
寝ること。
明日の説明会に出ること。
高次方術を使わないこと。
怖い時は、怖いと言うこと。
一つずつなら、まだ考えられる。
その時、ターミナルの奥で短い警告音が鳴った。
壁面に設置された案内板の一つに、淡い青の文字が走る。
周囲の職員たちが一瞬だけ視線を向け、すぐに自分の作業へ戻っていく。
大きな騒ぎではないらしい。
ノアも何となく目を向けた。
『第三下層工区、一部方術導網に出力不安定を検出。該当区域への一般立入を一時制限』
数秒で表示は別の案内へ切り替わった。
第三下層工区。
方術導網。
出力不安定。
読める。
意味もわかる。
けれど、それだけのはずだった。
それなのに、ノアはしばらくその案内板から目を離せなかった。
胸の奥に、ほんの微かなざわめきがある。
水筒に水を満たそうとした時のような強い手応えではない。
溶接器の中に光の線を見た時のような鮮明さもない。
ただ、遠くで金属板を爪の先で撫でられたような、かすかな違和感。
「ノア?」
カイルの声で、ノアは我に返った。
「あ……すみません。今の表示が少し気になって」
「出力不安定? ゼリウスだと珍しくはないよ。古い工区も多いし、導網の負荷も大きいから」
「そう、なんですね」
「うん。まあ、監査官がいる時期に出ると、関係者は胃が痛いだろうけど」
カイルは軽く言った。
ノアも頷いた。
頷いたけれど、手の中の包みを握る指には、無意識に力が入っていた。
第三下層工区。
その言葉だけが、なぜか頭の奥に残る。
ゼリウスの港は、相変わらず鉄と蒸気の音で満ちていた。
その巨大な音の奥で、何か小さな歯車が一つ、噛み合わないまま回り始めているような気がした。
それがただの不安なのか、あるいは別の何かなのか。
ノアには、まだわからなかった。




