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第十一話

 港の事務区画は、ドックの喧騒とは別の世界だった。

 剥き出しの配管や蒸気弁が支配する港湾から一歩奥へ入ると、壁は平滑な石材に変わり、天井の照明は柔らかく安定した白色光を落としている。床に敷かれたリノリウムが、靴底の下で微かに軋む。

 通路を歩きながら、ノアはオルドリシュカの背中を見ていた。

 小さい。ガンツよりは背丈があるが、それでも決して高くはないノアの目線のあたりに頭頂部がある。深い色の外套の裾が、歩くたびに床を掠める。背越しにも見える側頭部の二本の角が、否応なく目を惹いた。


 案内された部屋は、広くもなく狭くもない事務室だった。

 長机がひとつ。椅子が五脚。壁際に書架。窓はない。

 ドック側の騒音は壁で遮られているが、完全には消えず、低い振動だけが床越しにかすかに伝わっている。


「座ってください」


 オルドリシュカが長机の向こう側に着いた。声に抑揚はない。

 ジークがノアの肩に軽く手を置き、長机のこちら側の椅子を引いた。ノアはそれに従って座る。ジークはその隣に、ミラはノアの反対隣に腰を下ろした。

 挟まれるように座ったことで、ノアは少しだけ息がつけた。

 オルドリシュカの紅い瞳が、正面からノアの顔を捉えている。

 瞳の色はジークと似ている。けれど、そこに宿る光の質がまるで違った。ジークの赤は獣のような鋭さを持っているが、この少女の赤は——何かを測定している計器のような、底の見えない静けさだった。


「それでは始めます」


 オルドリシュカは手元に薄い端末を置いた。端末の表面に、淡い青の文字列がいくつか浮かんでいる。


「セブンスヘブン、第七広域警備保障所属。登録乗員六十八名。入港時の照合で一名、名簿上の登録人員と一致しない乗員を検出しました。——該当者は」


 紅い瞳が、ノアの上で止まった。


「あなたですね」


 ノアは小さく頷いた。声が出なかった。

 自分でも情けないと思う。聴かれるとわかっていたことなのに、いざこうして問われると、喉が詰まる。


「俺から説明しよう」


 ジークが口を開いた。椅子の背にもたれ、片手で顎を掻きながら、いつもの飄々とした口調で。


「砂漠で拾った。アルザーの南西縁、旧帝国の遺構が点在してる区域だ。衰弱状態だったために救護して艦に収容した」


「収容日は」


「共暦三五〇年、陽昇月の十七日だ」


 オルドリシュカの指が端末の上を滑る。何かを入力しているらしいが、指の動きが速すぎてノアには追えなかった。


「身元の確認は」


「本人に記憶障害がある。名前も出自も不明だ」


 ジークの声には、事実を淡々と並べるだけの温度しかなかった。

 嘘は言っていない。だが、全てを言っているわけでもない。ノアにはそれがわかる。

 ジークは「ルカ・ホークウィード」の名を出さなかった。出すつもりもないのだろう。


「記憶障害の診断根拠は」


「当艦の船医が診ている。ミラ」


 名前を呼ばれて、ノアの隣でミラが背筋を伸ばした。

 普段は気弱で慌てがちな彼女だが、今は違った。声を発する前に一度、短く息を整えている。


「はい。初診時の所見として、自伝的記憶——個人の来歴に関する長期記憶の広範な欠落を確認しています。手続き記憶や言語能力は保持されており、脳の器質的な損傷を示す所見はありません。外傷性よりも、心因性もしくは……特殊な外的要因による解離性の記憶障害の可能性が高いと判断しています」


 ミラの口調は、普段の彼女からは想像できないほど淀みなかった。

 医師としての言葉だった。この場にいる理由を、彼女自身が正確に理解している。


「特殊な外的要因、とは」


「方術的な介入の痕跡です。詳細な検査機材がない環境のため確定診断には至っていませんが、通常の記憶障害パターンとは一致しない欠落の形が見られます」


 オルドリシュカは数秒、ミラの顔を見つめた。

 それから視線を端末に戻し、何かを記録した。


「了解しました。——それで、現在この方はセブンスヘブンにおいてどのような立場で乗船していますか」


「整備班の見習いだ。身元が判明するまでの間、艦の運営に必要な労働力として雇用している。報酬は現物支給。俺の裁量権の範囲内での措置だ」


 ジークが言い切った。

 そこには言い訳の色がなかった。事実を事実として提示し、その判断の責任は自分にある、という態度。

 オルドリシュカは再び端末を操作した。


「第七広域警備保障の内規では、隊長権限による臨時雇用は三ヶ月を上限として認められています。現時点で——」


 指が止まった。


「まだ上限内です。書類上の問題は、現時点ではありません」


 ノアは、自分の膝の上に置いた手が微かに震えているのに気づいた。

 書類上の問題はない。その言葉が、安堵なのか猶予なのか、判断がつかなかった。

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けかけた——その瞬間だった。


「ただし」


 オルドリシュカのどこまでも澄んだ赤い瞳がノアを貫く。


「身元を伏せている理由については、お聞きしなければなりません。ジーク、あなたは意図的にこの方の本来の身元情報を提出していませんね」


 空気が凍った。

 ノアの肩に、ミラの手が触れた。小さな手が、そっと制服の布越しに添えられている。

 ジークは表情を変えなかった。顎を掻く手が、ほんの一瞬だけ止まった。それだけだった。


「……何をもってそう判断した」


「入港スキャンで取得した生体情報と、G.U.I.L.D.(ギルド)の国際行方不明者データバンクに登録されている捜索依頼との間に、有意な類似が検出されています」


 ノアの心臓が跳ねた。

 捜索依頼。何者かが裏から維持し続けている、ルカ・ホークウィードの——。


「完全一致ではないため自動照合では弾かれていますが、生体パターンの基底構造に重複が見られます。……ジーク、合理的な説明を」


 ノアは唇を噛んだ。指先が冷たい。


「まいったなこりゃ。あの数分で船員の生体情報までスキャンしてたのか」


 ジークの声には、開き直りとも覚悟ともつかない軽さがあった。


「……お察しの通り、俺達もその捜索依頼に行き着いている。だが捜索依頼の出元にこの子の所在が伝わるのはまずい」


「まずい、とは」


「依頼の裏にいる人間が、この子の味方じゃないからだ」


 短く、はっきりと言い切った。

 オルドリシュカの紅い瞳は、ジークの顔を数秒見つめた。それから、端末に視線を落とした。


「根拠は」


「本人の状態が根拠だ。砂漠の旧帝国遺構で衰弱状態の人間を拾って、記憶もない。

 依頼元のホークウィード家はもう存在しない。なのに依頼だけが生きている。依頼を維持しているのが誰かは匿名加工で身元が追えん」


 ジークは一度区切ってから、真っ直ぐにオルドリシュカを見た。


「リシュカ。お前の権限で、あの捜索依頼を握りつぶしてくれ」


 ミラが小さく息を呑んだのが聞こえた。

 ノアも息を止めていた。ジークが何を言ったのか、理解するのに一瞬かかった。


「……もとからそこに持って行く気で来ましたね?」


「想像力がたくましいな。それで、できるのか?」


「可否でいえば、可能です」


 オルドリシュカの声にわずかの呆れが混じる。


「ただしG.U.I.L.D.(ギルド)のデータバンクに対してのみです。依頼者が別の手段で捜索を継続している場合、それを止める権限は私にはありません」


「わかってる。だが、一番でかい穴は塞がる」


 ジークはそう言って、肩をすくめた。


「——頼めるか」


 沈黙が、数秒。

 オルドリシュカは端末に視線を落としたまま、小さく頷いた。


「事実関係を確認した上で、対応します。入管についてはひとまず当初の説明通りで通します」


 それ以上でもそれ以下でもない言葉だった。

 ジークは軽く息を吐いた。礼を言う代わりに、鼻を鳴らしただけだった。

 ノアは膝の上の手を握りしめた。

 安堵と、名前のつけられない痛みが、同時に胸を突いた。


「ここからは、私個人の質問です」


 ジークの眉が僅かに動いた。


「メッセージで依頼を受けた件です。艦と乗員のエーテル感応波形の精査。その業務の一環として、追加で確認したいことがあります」


 ジークは鼻を鳴らした。異議はないらしい。


 オルドリシュカの視線が、ノアに戻った。


「あなたの名前を教えてください」


「……ノア、です」


「ノア。——姓は」


「……ありません」


「ではそう記録します」


 小さな沈黙が落ちた。

 オルドリシュカの表情は変わらなかった。読み取れるものが何もない顔。整った造形だけが静かにそこにある。


「あなたの感応波形について疑問があります。さきほどの『記憶喪失』という言葉が真であれば理由は納得できますが」


 唐突だった。

 ノアには、その言葉の意味を正確に理解する知識がなかった。エーテル感応波形。ガンツやジークが以前口にしていた言葉だ。自分が術を使うたびに漏れるという、あの——。


「あなたの波形には——特異な点がいくつかあります」


 紅い瞳が、ノアの顔を真っ直ぐに見ている。

 表情は変わらない。だが、その視線の中に、先ほどまでとは違う何かが混じっていた。

 事務的な確認ではない。もっと別の——何かを見定めようとする目。

 興味、だろうか。


「あなたは方術の教育を受けたことがありますか」


「……いいえ。覚えている限りでは」


「覚えている限りでは」


 オルドリシュカが、ノアの言葉をそのまま繰り返した。

 否定でも肯定でもない。ただ、その言葉を空中に置いたまま、数秒。


「わかりました」


 それだけ言って、オルドリシュカは端末に何かを入力した。

 ノアは唇を噛んだ。この少女が何を考えているのか、まったく読めなかった。


「……リシュカ。波形に『特異な点がある』ってのは、具体的にはどういうことだ」


 ジークが訊いた。


「説明します」


 オルドリシュカは端末の画面をこちらに向けた。

 淡い青の線が、波打つように横に走っている。心電図のようにも見えるが、もっと複雑で、いくつもの層が重なり合っているようだった。


「これが、入港時にスキャンしたノアさんの感応波形です」


 ノアには、その図形が何を表しているのか理解できなかった。ただ、線がいくつかの場所で不規則に乱れていることだけは見て取れた。


「通常、感応波形は個人の生体リズムと一致した安定パターンを示します。高次方術の教育を受けた術士であれば、波形をある程度一定に整えるようになります。情動による方術の暴走を防ぐためです。

 未訓練の一般人であれば、波形そのものが微弱で読み取りにくいか、方術の発動に適した波形でないことがほとんどです」


 オルドリシュカの指が、画面上の一点を指した。


「しかしノアさんの波形は、そのどちらでもありません。微弱ではない。はっきりとした出力があり方術を用いるのに適した波形です。しかし、訓練された術士の波形でもない。形は整っているのに、揺らいでいる」


 最後の一文だけ、ほんの僅かに声の調子が変わった気がした。

 だが、顔を見ても何も読み取れない。ノアは視線をジークに向けた。


「……つまり、こいつの波形は普通じゃないってことか」


「極めて阿呆らしい言い方ですが、理解はあっています」


 オルドリシュカは一度だけ瞬きをした。


「相当な訓練を受けた術士にしか見られない特徴を有するにもかかわらず、意識活動や感情変動に由来する層は、一般人のそれと変わらない。まるで——」


 言葉がそこで途切れた。

 オルドリシュカは口を閉じ、端末の画面を自分の方に戻した。


「……まるで?」


 ジークが促した。


「仮説の段階です。この場で述べるのは適切ではありません」


「焦らすなよ」


「二度言わせないでください」


 初めて彼女の声音が明確に咎めるような鋭利な色を宿した。


「……わかったよ」


 ジークは椅子の背にもたれ直した。


「じゃあそれについてはいい。俺が聞きたいのは、あのクソったれがまた艦を補足したからくりだ」


「メッセージにあった襲撃の件ですね。それについては数日かかります。全艦チェックとその他要因を虱潰しにするのは流石に骨が折れます。

 ただ、ノアさんに高次方術を禁止したのは賢明な判断といえます」


 その言葉は、ノアの胸のどこかに引っかかった。

 高次方術の禁止が賢明。——それはつまり、術を使えば、また何かが起きるということだ。


「……僕が高次方術? を、使わなければ、大丈夫なんですよね?」


 自分でも驚くほど掠れた声だった。

 オルドリシュカの視線がノアの顔の上を滑った。


「断定はできません。それに——」


 短い沈黙。


「使わないことと、使えないことは違います。波形そのものが不安定であれば、意図しない発動の可能性は常にあります。特にあなたの場合——身体的特性による基底パターンの出力が高い。リスクは常人より高いと言っていいでしょう」


 ノアは言葉を失った。

 つまり、黙っていても、何もしなくても、いずれまた——。


「だから俺はお前に頼んだんだ、リシュカ」


 ジークの声だった。先ほどまでの飄々とした調子ではなく、静かな、しかし明確な意図を含んだ声。


「お前ならなにか手を打てるんじゃないか」


 オルドリシュカはジークの顔を見た。

 数秒、沈黙があった。

 そして、小さく頷いた。


「ええ。ただこれも応急的な措置でしかありません」


 それだけ言って、オルドリシュカは椅子から立ち上がった。

 聴取が終わったのだと理解するまでに、少し時間がかかった。

 ジークとミラが先に立ち上がり、ノアも慌てて椅子を引いた。

 オルドリシュカは部屋の隅に置かれていた自分の荷物——黒い布で包まれた平たい箱のようなもの——を手に取ると、こちらへ歩いてきた。


「ノアさん」


 名前を呼ばれて、ノアは足を止めた。

 オルドリシュカが差し出したのは、掌に収まるほどの小さな包みだった。暗い色の布で丁寧に巻かれている。


「これは」


「組み立て式の演算器です」


 ノアは受け取った。布越しに、硬い金属の感触と、柔らかな何かの重さが手に伝わる。


「……僕に、ですか?」


「はい。組み立ての手順書も同封しています。平易な内容なので、方術の知識が失われていても問題ありません」


 オルドリシュカの声は変わらなかった。抑揚のない、事務的な声。

 だが、ノアは一つだけ気づいたことがあった。

 手順書。平易な内容。——この少女は、ノアが方術の教育を受けていないという前提で、これを準備してきている。

 つまり、ジークからのメッセージを受け取った時点で、すでに。


「あの……これは、どう使えば」


「使い方は衛士なら誰でもわかります。それに、私が教える必要はないでしょう、貴方(ルカ)なら」


 オルドリシュカはそれ以上何も言わず、ドアに向かって歩き出した。

 その足が、一度だけ止まった。

 振り返りはしなかった。ただ、横顔がほんの僅かに見えた。


「あの……!」


 ノアが問う前に、彼女は部屋を出ていた。

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