第十話
フリットを発ってから二日が経った。
セブンスヘブンはアルザー砂漠の北縁を縫うように東へ進んでいる。甲板に出れば乾いた風が容赦なく吹きつけるが、艦内は安定した温度に保たれていて、エンジンの低い唸りだけが時間の経過を教えてくれる。
整備デッキの端、ノアは工具箱を膝の横に置いたまま座り込んでいた。
手元にあるのは航行用の圧力計。ガンツから「数値がおかしい」と渡されたそれを、教わった手順通りに分解して、ひとつひとつ部品の状態を確認している。
接合部のボルトに僅かな緩み。ガンツに教わったばかりのトルクレンチで締め直す。続いて内部の配管を目視で確認していくと、細い管の繋ぎ目にごく薄い亀裂が入っているのに気づいた。
——これ、かな。
自信はない。でも配管に亀裂があれば圧力が逃げて計測値が狂う、というのは教わった。
「ガンツさん、ここを見てほしいんですけど……」
振り返ると、ノアの腰ほどの背丈しかない小柄な影が立っていた。油で黒く汚れた頬と、小柄な体躯に似合わぬ節くれ立った腕。
彼女は差し出された圧力計を無言で受け取ると、鋭い目で指摘した箇所を覗き込む。
そして工具箱から溶接ペンを取り出し、手早く亀裂を塞いでから圧力計をノアの胸に押し付けてきた。
「まぁまぁだ。次からはいまの補修も自分でやれ」
整備デッキでの日々は、少しずつ形になりつつある。右も左もわからなかった作業もだんだんと任せてもらえることが増えてきた。
でもときどき、ガンツの視線が自分の手元で止まっていることがある。あの目に何が映っているのか、ノアにはまだわからない。
——まだ、わからないことだらけだ。
圧力計を組み直して、動作確認。数値が正常範囲に収まっているのを確認してから、ノアは工具箱を閉じた。
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ガンツに作業の完了を報告した後、ノアは整備デッキを出た。
通路ですれ違ったカイルに「ちょうどよかった、飯食った?」と声をかけられ、そのまま食堂へ引っ張られた。空腹であることを自覚するのはいつも、誰かに指摘されてからだ。
食堂は昼時を外れていたせいか人影はまばらだった。
窓の外を、赤茶けた砂漠の地表がゆっくりと流れていく。遠くに、細く白い煙が立ち上っているのが見える。地熱の噴出口だろうか。
「はい、これ」
カイルがトレイを片手に向かいの席に座った。トレイの上には二人分の飲み物が載っている。
ノアが礼を言って受け取ると、カイルはいつものようにけらけらと笑った。
「お疲れ。ガンツさんと仲良くやってる?」
「仲良く……なのかはわかりませんけど、仕事は任せてもらえるようになりました。あと、おやつを分けてもらえるようになりました」
「あのバカデカいサンドイッチ?」
「はい。すごく大きくて、一切れで満腹になります」
カイルが声を出して笑う。
ノアは飲み物を一口含んだ。温かい何かの穀物茶だった。
少しの間、窓の外を二人で眺める。砂漠の色が、夕方に近づくにつれて淡い金色へ変わっていく。
「……カイルさん」
「ん?」
「昇級試験って、なんですか」
カイルの手がカップの上で止まった。
驚いたわけではなさそうだった。むしろ、いつか聞かれると思っていたような顔。
「ノアは衛士が免許制って知ってる?」
「えっと……カイルさんたちの仕事って、そういうものなんですか?」
「うん。第七広域警備保障——俺たちの会社もそうだけど、衛士ってのはG.U.I.L.D.に登録された公的な資格なんだ。免許がないと武器を持って仕事をすることもできない」
カイルはそう言って、自分のジャケットの胸元を軽く叩いた。そこに認識票のようなものが下がっている。
ギルド。
あまりにも聞き馴染みのある単語だった。かつて読んだ小説やゲームに何度出てきたか知れない。まさかそれが現実の——いや、この世界の制度として存在しているとは。
不意をつかれたような、妙な可笑しさがこみ上げる。
「で、その免許には等級がある。四段階あって、上に行くほど受けられる仕事の幅が広がる。今の俺はG4。ほとんどの衛士が引退までG4のままだったりするから、一番下とは言っても別に『新人』ってわけじゃないんだけど……。その等級を上げるための試験だね。
受験者は書類審査に加えて、班ごとに分けられて与えられた模擬任務で見せた能力を評価されるんだ」
「……ということは試験官が模擬任務に同行するんですか?」
「そう。G.U.I.L.D.の認定官。あ、でも——」
カイルはそこで少し言い淀んだ。
「これ以外のパターンもある。特例、ってやつだね」
「……特例?」
「滅多にないよ。G.U.I.L.D.の上の方の人が承認すれば、通常の手続きをすっ飛ばして特例で試験組めるらしい。まぁ都市伝説みたいなもんだけど」
「カイルさんは、今回受けるんですか?」
「うん、俺もG4からG3に上がる予定。ライオたちがフリットで乗り込んできたのも一緒に試験を受けるため」
カイルはそう言って頭を掻いた。
「正直、俺が受かるかは五分五分かなぁ」
「……あの戦いを見て、そう思う人はいないと思いますけど」
フリットでの模擬戦。あの精密で容赦のない戦い方を見た後では、冗談にしか聞こえなかった。
だがカイルは首を横に振った。
「戦うだけなら、まぁなんとかなる。でも昇級試験ってそういうことだけじゃないんだよ。判断力とか、周囲との連携とか、あと——自分の限界をちゃんと知ってるかどうか、とか」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。
ノアは黙って頷いた。
「——それで言うと、ノアはたぶん、特例の認定試験を受けることになるんじゃないかな」
カイルがさらりと言った。
「僕が、ですか? そんなことができるんですか……?」
「うん。少なくとも隊長はそのつもりだと思うよ。身分証は必要だし」
ノアは何も言えなかった。
カイルの言葉は当然の推論だ。でも、当然だからこそ重かった。
公的な試験を受け、衛士として登録する。「ノア」という名前で。ルカの体で、ルカの能力を使って。
そもそも、そんな事が可能なのだろうか?
偽名を使って出自を誤魔化している人間に。
「ま、難しく考えなくていいよ」
カイルがまた、あの穏やかな声で言った。
フリットの演習場の後、帰り道で聞いたのと同じ声。
「できることをやろう。まずはそこからだよ。細かい段取りは隊長がやってくれるさ」
ノアは飲み物のカップを両手で包んだ。
穀物茶の温度が、ゆっくりと掌に染み込んでいく。
「……はい」
ノアはカップに残った穀物茶を飲み干した。
ゼリウスまであとどのくらいだろう。窓の外を見遣ると、砂漠の地平線に、ほんの僅かに色の違う影が浮かんでいる気がした。
——あれが、ゼリウス?
すると突然、窓の外を強い光の帯が走り抜けた。
「……なに?」
一つではない。いくつもの光の筋が、セブンスヘブンの船体を縫うように超高速で飛び回っている。
向かいの席でカイルが飲み終えたカップを置き、伸びをしながら立ち上がった。
「あー……もう着くみたいだね」
その声に緊張はなかった。むしろ、少し気だるげな、慣れた者の反応だった。
「カイルさん、あれは」
「ゼリウスの入港チェック。ゼリウスに近づく陸上艦や飛空艇、その他の乗り物は全部アレで事前にデータ照合されるんだよね。ちょっと外で見てみる?」
二人して食器をカウンターに返して甲板に出ると、ゼリウスはもう目の前だった。巨大な煙突群と、鉄骨で組まれたクレーンの林立。工業都市の骨格が圧倒的な質量感を伴って迫ってきている。
そして手すり越しに見えた光の正体は、二リットルのペットボトルほどの大きさを持った無機質な筒状の機体が放っているものだった。それが十数機で統率された編隊を組み、セブンスヘブンの周囲に展開している。
「あれなに……?」
「自律子機っていうらしいよ。たった十数機でこの艦全体を丸ごとスキャンできるんだってさ」
カイルの説明は淡々としていた。
十数機の自律子機が艦の周囲に散ると、それぞれの機体から帯状の光が放たれた。機体群は互いに複雑な軌道を描きながら船体の周囲を超高速で飛び回り、光の網でなぞるように走査していく。船尾から船首へ、甲板から喫水線へ。まるで意思を持った分身のように。
たった十数機でのスキャン。しかし放たれる光の網はセブンスヘブンをくまなく覆い尽くし、その一本一本が構造物の内部まで透かし見ているようだった。
美しい、とノアは思った。
そしてそれと同じくらい、底知れない何かを感じる。これだけ緻密で複雑な制御を成立させるには、どれほどの大規模なチームが必要なのだろうか。
「……同じものがここ以外でも動いてるんですよね? 一体何人がかりで制御しているんですか?」
「一人だよ。アレをこんな規模で扱えるのはいまのところ、世界に一人しか居ない」
カイルがあっさりと答えた。その表情は苦笑に近かった。
ノアは言葉を失った。寸分違わぬ連携で超高速機動する十数機の複雑な制御と、艦一隻丸ごとの走査解析。それを——たった一人の人間が同時に処理しているというのか。
不意にきーん、と耳を叩くような高い音が艦内に響いた。
通信だ。甲板の上にいても聞こえるように、艦全体のスピーカーから流されている。
『——セブンスヘブン。入港許可を確認しました。乗員六十八名、うち正規乗組員および同乗者の登録内容と照合完了。ただし』
抑揚のない、静かな声だ。
『一名、第七広域警備保障の登録人員と一致しない乗員が検出されています。入港時に聴取を行いますので準備してください。——以上です』
ノアの足が、甲板の上で凍りついた。
一名。登録人員と一致しない乗員。
それが自分のことだと理解するのに、一秒もかからなかった。
この世界において、「ノア」という人間は来歴を持たない。あくまで自分が便宜上名乗っている偽名に過ぎない。
そして、この身体の本来の持ち主である「ルカ・ホークウィード」には、今もどこかで捜索依頼が出され続けている。もし正しく申請して身体のデータが照合されれば、たちまち追手に居場所を知られてしまうだろう。
頭ではわかっていた。ジークたちが自分を「記憶を失ったルカ」として匿ってくれていたから、これまで直視せずに済んでいた問題だ。
それが今、無機質な管制通信という形で、事務的に突きつけられた。
「悪いことにはならないから、大丈夫だよ」
怯える子供を諭すようなその声に、ノアは今自分がどんな顔をしているのかを自覚させられた。
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ゼリウスの港は、フリットとは何もかも違った。
フリットが渇いた砂漠の中の砦だったとすれば、ここは鉄と蒸気が呼吸する生き物だった。剥き出しの配管が血管のように港湾の壁面を這い回り、至るところで蒸気弁が音を立てている。ドックの天井は見上げてもなお暗く、陸上艦を何隻も呑み込む巨大な空洞が奥へ奥へと続いていた。空気が違う。鉄を削った粉と、焼けた油の匂い。肺の奥まで工場の息吹が染み込んでくるようだった。
接舷ブリッジを渡りながら、ノアは港を見渡した。
さきほどの自律子機たちはいつの間にかセブンスヘブンの周囲から消えていた。あれほどの存在感を放っていた機体群が、影も残さず。
港のターミナルには人の流れがあった。荷役の作業員、制服姿の職員、武装した衛士らしき者。
その雑踏の中に、ノアは見覚えのある顔を見つけた。
フリットから同じ艦に乗ってきたライオだ。赤髪のエヴァンジェリンが隣に控えている。
一足先に下船していた彼らは、港の広場でなぜか立ち止まっていた。
フリットで見せていた尊大な態度は影を潜め、その横顔はひどく強張っている。目が僅かに見開かれているのは——恐怖、だろうか?
エヴァンジェリンも同じ方向を見ていた。彼女の顔には、ライオとは少し違う色があった。畏怖に近い、それでいてどこか敬意を含んだ緊張。
「……ライオがビビって動けなくなるのもわかるよ」
カイルが小声で言った。その声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
ノアは彼らの視線を辿った。
港のゲートの手前。
そこだけ、人の流れが途絶えていた。
周囲の人間が、まるで見えない壁に阻まれたかのように自然と距離を取っている。誰もそこを通ろうとしない。目を向けることすら躊躇っているように見えた。
その空白の中心に、一人の少女が立っていた。
小柄だった。ノアよりもさらに小さい。
黒に近い深い色の外套を纏い、両手を前に組んで直立している。彫像のように微動だにしない立ち姿。
その表情は——なかった。整った輪郭、大きな瞳、形のいい唇。人形のように完成された造形があるのに、そこに何の感情も読み取れない。
しかしなによりもノアの目を惹いたのは側頭部から生えた大きな二本の角だった。
彼女の周囲に、さっき甲板で見た二機のドローンらしきものがゆっくりと漂っている。
つまり、きっと、この少女があの化け物じみた精密制御をやってのけた張本人だということなのだろう。
ジークがつかつかと前に出て、少女の方へと歩いていく。
「久しぶりだな、リシュカ」
少女の瞳が、初めて動いた。
無機質な光を宿したまま、ジークの顔を捉える。
「顔を合わせるのは四百五十三日ぶりです。メッセージは数日前に受け取りましたが、そちらも九十七日ぶりでした」
声は小さかった。
抑揚がなく、感情の色もなく、ただの事実を読み上げるような声。
「ジークさん、もしかしてあの人が……」
「ああ。俺の知り合い」
ジークが振り返らずに答えた。
「オルドリシュカ=イクス=マハロヴァ。G.U.I.L.D.が誇る最高の術士の一人だ」
少女——オルドリシュカの視線が、ジークの肩越しにノアを捉えた。
「乗員名簿の不一致について。説明を聞きに来ました」




