第九話
しん、と。
演習場に静寂が落ちた。
キラキラと光の破片が床に散っていく。砕けた防壁の残滓が空気に溶けていくのを、ノアはただ呆然と見つめていた。
ライオの眉間のすぐそばで静止したままの杭。その数ミリの余白が何を意味するか、ノアの頭は理解を拒んでいた。
——あれが、当たっていたら。
考えかけて、頭の中で強引にページをめくるように思考を打ち切る。
殺し合いではない。これは試合だ。セーフティがかかっている……はずだ。
ライオが動く。
杖を拾い上げる乾いた音が妙によく通った。
誰も何も言わない。観客席のざわめきさえ、その瞬間だけ止まった。
彼は一言も発しなかった。あれだけ口が動いていた人間とは思えないほど、完全な沈黙で。ただ背を向けて、演習場の出口へと歩き出す。
その背中を、ノアは目で追う。
怒っているのとも違う。悔しがっているのとも違う。
何かが、砕けた人間の背中だった。
エヴァンジェリンが少し慌てたように動き出して、ふと足を止めた。
彼女の視線がノアへと向く。短い、値踏みするような視線ではなく、どこか測りかねているような目だった。
一瞬だけ迷う素振りを見せてから、彼女は口を開いた。
「……強い人と、組んでいるんですね」
それだけだった。
謝罪でも、友好の手でもない。ただその一言を置いて、彼女はライオの背中を追うように小走りに去っていく。
ノアにはその言葉の意味が、咄嗟には解釈できなかった。羨ましいのか。それとも、ただの感想なのか。
どちらでもないような気がした。
「ノアー! 降りてきなよ」
下からカイルの声がした。
我に返って見下ろすと、演習場の中央で彼がこちらに向かって手を振っている。まるで何もなかったかのような顔で。
その顔を見た瞬間が、いままでで一番、ここが違う世界なのだと実感させられた。
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人が引けた後の演習場の出口は静かだった。
支社の職員たちはそれぞれの持ち場へ戻っていき、残ったのはノアとカイルだけ。ジークはまだ手続きで支社の奥に引っ張られているらしく、戻ってくる気配がない。
カイルは複合盾の各部を点検しながら、ぱちぱちとロックを確認していた。器用な手つきだった。さっきまでの戦闘の余熱など微塵も感じさせない、いつもの穏やかな所作。
ノアはその横顔をしばらく見ていた。
聞きたいことがあった。でも、何から聞けばいいのかわからなかった。
「……カイルさん」
「ん?」
「なんであんな風に呼ばれていたんですか」
声に出してから、しまったと思った。でも取り消す気にはなれなかった。
カイルは点検の手を止めずに、少し考えるような間を置いた。
「俺には術士の才能がないっていうのと、実家から逃げるみたいに出てきたからじゃないかな。そういう面はあるから否定もしてないし」
それだけだった。
彼の言葉には怒りも悲観もまったく含まれていなくて、淡々とした自己分析だけがあるように思えた。
ノアは返す言葉を探して、見つからなかった。
でも、それならば。
「……でも今日、怒ってましたよね」
カイルの手が、一瞬だけ止まった。
「ロビーで。ライオさんが僕のことを言った時」
ノアは続けた。声が少し小さくなるのがわかった。
「自分のことは何を言われても笑っていたのに。僕のことを言われた時だけ、違う顔になった」
カイルはしばらく黙っていた。複合盾のロックをひとつ、またひとつと確認する音だけが続く。
「……俺、わかりやすい?」
「はい」
「そっか」
彼は点検を終えた複合盾をゆっくりと下ろした。壁に背を預けて、少し天井を見上げる。
「自分のことは、まあ、事実の部分もあるから良いんだよな。事実よりも、じゃあどうするか、ってほうが大事だし」
そこで一拍、置いた。
「でも、誰かを巻き込むのは違う」
それだけだった。
静かな声だった。怒りの熱も、気負いもない。特別なことを言っている自覚もなさそうな、ごく普通の口調で。
ノアはその言葉を頭の中で繰り返した。
自分が傷つけられたから怒ったのではない。自分を攻撃するための道具として、仲間が使われたから怒った。
ではそれは、自分のせいなのか。自分がいなければ、すくなくとも整備班の服を着てさえいなければ、カイルはあんな顔をしなくて済んだのか。
思考がそちらへ引っ張られていくのを感じた。
「ま、やりたいからやっただけだよ。イラっとしたのも事実だし!」
カイルがあっさりと言ってけらけらと笑う。
ノアが沈んでいく気配を察したのか、それとも単純にそれだけのことだったのか。どちらかはわからないけれど、彼の声には重さがなかった。
「難しく考えなくていいよ、そういうの」
彼はそう言ってノアの目を見て微笑んだ。
ノアは返す言葉を見つけられなかった。
でも今度は、黙ったままでいることが苦しくなかった。
——芯のあるひとだな。
自分のことを「能無し」と呼ばれ続けて、否定もせず引きずりもせず。それでも誰かが踏みにじられる瞬間には躊躇なく前に出て、終わったらもう笑っている。
その強さがどこから来るのか、ノアにはまだわからなかった。
でも、知りたいと思った。
この世界で、この人の隣で、何かができるようになりたいと思った。
その感覚がどれほどの意味を持つのか、まだわからない。ルカの体を借りて生きているという事実は変わらない。
それでも、今日のノアの胸の奥には、罪悪感とは少し違う何かが、静かに灯っていた。
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手続きを終えたジークが戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
支社のロビーは相変わらず人の出入りが多かったが、ジークが足を踏み入れた瞬間、その流れが僅かに変わった。
気のせいではないとノアは思う。人の動線が、自然にジークを避けるように、あるいは道を開けるように、わずかにずれる。視線が向いて、そして素早く逸れる。畏怖とも敬意ともつかない、あの独特の空気。
「待たせたな」
ジークはノアとカイルを認めると、面倒そうに首の骨を鳴らしながら歩み寄ってきた。そしてカイルの頭にごつんと拳を振り下ろした。
「あいたっ」
「合流早々に揉め事を起こすなバカタレ」
「揉め事じゃなくてただの模擬戦で——」
「私闘だろうが」
有無を言わせない一言だった。カイルの言い訳が綺麗に封じられる。
ジークはそのままカイルの頭をがしっと掴んで歩き出すと、受付付近に立っていた支社の責任者らしき中年の男性の前で足を止め、深々と頭を下げた。カイルの頭も一緒に下がる。
「ウチのバカが申し訳ない」
「い、いえ……」
責任者の男性は、明らかに戸惑っていた。
謝罪を受ける側になるとは思っていなかったのだろう。言葉を選びあぐねるように視線が泳ぎ、そのままジークの顔を見て、また逸れる。
ノアは少し離れたところからその光景を見ていた。
ジークが頭を下げると、場の空気が変わった。責任者の男性だけではない、周囲にいた職員たちまでが、どこかそわそわとした様子になる。
謝られている側が戸惑っている。
それは奇妙な光景だった。でも、ノアにはその奇妙さの意味がなんとなくわかる気がした。
——ジークさん、もしかして凄く偉い人なのかな……?
カイルが以前、「隊長は有名人」と言っていた。「顔が広い」と。
その言葉の本当の重さを、ノアはいま初めて肌で感じていた。
「行くぞ」
ジークがカイルの頭から手を離す。彼はぐしゃぐしゃになった髪を直しながら、それでも「すみませんでした」とちゃんと頭を下げていた。
三人でロビーを歩き出す。ジークの後ろに続きながら、ノアはちらと周囲の視線を確認した。
やはり、道が開く。
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外気は、重機の排煙と鉄の匂いがした。
巨大なターミナルビルを抜けると、可動式ブリッジの向こうにセブンスヘブンの船体が見える。鈍く光る金属の外装に、ところどころ修理の跡がある。ガンツの仕事だ。
三人で橋を渡りながら、ノアはふと思った。
この艦に乗り込んだのは、ほんの少し前のことのはずなのに、もうずいぶん遠い昔のような気がする。砂漠の中で目を覚まして、何もわからないまま引きずられるように流れてきた日々。
でも今、この重たい鉄の橋の感触を踏みながら、ノアの足には少しだけ迷いが少ない気がした。
「目的地——工業都市ゼリウスに着いたら、知り合いに艦を見てもらう手筈がついた」
ジークが前を向いたまま、ぽつりと言った。
煙草を取り出しながら、どこか独り言のような口調で。
「腕は確かだ。……エーテル感応波形の追跡についても、あいつなら何かわかるかもしれん」
エーテル感応波形。その言葉がノアの胸に引っかかった。
あの目のない男が自分を追ってきた方法。術を使うたびに、自分の居場所が漏れてしまうかもしれないという恐怖。まだ解決していない、宙ぶらりんのままの問題。
「……その人は、どんな方なんですか」
おずおずと聞くと、ジークは煙草に火をつけながら鼻を鳴らした。
「信頼できる奴だ。立場も人格もな。ただ、まぁ」
一拍、間があった。紫煙が風に流れる。
「少し変わってる」
それだけ言って、彼はそれ以上何も続けなかった。
カイルは小さく息をついた。そのため息に、何か言いたいことが詰まっているような気がしたが、彼も口を開かなかった。
ノアは前を向いた。
セブンスヘブンの船体が近づいてくる。見慣れた傷だらけの外装。排気口から細く立ち上る熱気。甲板の縁に見える、ガンツの小さな影。
ゼリウス、という街の名前が、頭の中で静かに響いていた。
まだ見ぬ場所。ジークの「知り合い」がいる場所。そして自分を追ってくる何かの、答えに近づく場所かもしれない。
怖い、とノアは思った。
でも同時に、それとは別の何かが胸の奥で動いていた。
——この先に行きたい、という気持ちが、確かにある。
ルカの体を借りて、ルカの才能を使いながら。それでも、この足でこの先へ進みたいと思っている。
その感覚がどれほどの意味を持つのか、まだわからない。
でもノアは今、それを罪悪感だけで塗り潰すことを、しなかった。
接舷ブリッジの終わりで、ガンツが待っていた。
腰に手を当てて、不機嫌そうな顔で三人を見下ろしている。
「遅い。何してたんだ」
「色々あって」とカイルが答えた。
「ガキの喧嘩は"色々"じゃねぇ」
ガンツはくるりと背を向けて、甲板の奥へと歩き出す。
その小さな背中が、なぜかひどく頼もしかった。
セブンスヘブンが、ゆっくりと動き始めた。
フリットの鉄壁が遠ざかっていく。都市の輪郭が、排煙の向こうにぼんやりと霞んでいく。
ノアは甲板の手すりに寄りかかって、それを見送った。
風が髪を揺らす。エンジンの低い振動が足の裏から伝わってくる。
——整理しよう。
自分が今どこにいて、これから何が起きるのか。
頭の中で、静かに並べ直していく。
ひとつ。自分を追っている何かがいる。
ヴィジルと名乗った、目のない男。彼は"ルカ"のことを「検体101番」と呼んだ。その意味は、まだわからない。ただ、術を使うたびに居場所が漏れてしまう可能性がある——ジークとガンツはそう言っていた。
ふたつ。工業都市ゼリウスに向かっている。
その目的はふたつ。ひとつは、ジークが言っていた「知り合い」に艦を調べてもらうこと。エーテル感応波形の追跡——自分の術の痕跡を追う方法について、その人物なら何か知っているかもしれない。「少し変わってる」とジークは言った。カイルがあのとき見せた、ノアには読み取れなかった顔の意味も、まだわからない。
もうひとつは、"昇級試験"とやらだ。
これが艦がゼリウスを目指しているもともとの目的らしい。みんな当たり前のように扱っていて詳細がよくわからない。これは少し聞いてみたほうが良いことかもしれない。
ノアは手すりを握り直した。
わからないことだらけだ。
——でも、やらなきゃいけないことが、ある。
ノアは前を向いて地平線の先のまだ見えない何かをじっと見つめた。




