その5
見てはいけないものを見てしまった――
ふぅっと視界に紗がかかり、そのまま意識を手放してしまいそうになったコリン・クローバイエであったが、ぐっと下半身に力を込めて立ち直った。
こんなことで気を失ってなどいられない。
そんなことは時間の無駄。無駄は損失。損失は敗北。
目まぐるしく思考が動き、まず何をするべきかと自分に問いかける。
――アレは間違いなく、偽砂金だ。
それは本能のようなものでそう訴えかけてくる。作った当人はあっけらかんとアレは肥料だと笑うが、作った人間がソレをソレと認識していなかったとしても――現状はソレを許しはしないだろう。
当人の意思に関係なく、アレを偽砂金として流通させた者がいる。そしてそれは現状大っぴらになってはいないとしても、じわじわと染み入るかのように問題になっていっているのだ。
そして、このままいけば待っているのは――破滅。
ここにいると自分までまきこまれてしまうおそれがある。
自分が。ヴィスヴァイヤの惣領の娘であるこの自分が。
喉の奥で詰まった何かをゆっくりと飲み込み、コリンは錬金術師を見返した。
麗しい顔に墨のようなかすれた汚れを残した凛々しい人を。
「ソレ、は。すでにどこかで流通を?」
ゆっくりと言葉をあやつりながら、とくとくと心臓が鼓動するのをかんじる。口から飛び出してくるのではないかという程脈打つそれをとどめるかのように、自然と胸元に手を当てていた。
「流通? まさか。
肥料といっても、実はまだまだ試作品。というかむしろ失敗作――溶けるのに時間ばかりかかって、野菜を作る以前の問題。でもきちんと機能すれば野菜の成長の促進に……」
自嘲するかのように肩をすくめるリファリアに、胸元の心臓は早鐘を打ち続ける。
唇から、どこか他人行儀に零れ落ちる音は尋問。
けれどそれを悟られないように慎重に言葉を選ぶのは、細い細い糸を渡る綱渡りのよう。
「失敗? 完成はあきらめたのですか?」
「あきらめた訳では無いのよ。ただ、コレについては実は依頼主がいてね。途中経過を報告したら、とりあえずいいって――試作品と一緒に連絡がとれなくなってしまって、まぁ、うん。そんな感じで今は保留中。
でも、時々思い出しては考えてはいるのよ?」
その考えは即刻停止した方がいい。
コリンは自らの表情筋がひくひくと痙攣するのを感じた。
いや、いや……もしかしたらいっそのこと完成させてしまうほうが別物になるのかもしれない。だがそれは今では無い。今はとりあえず、ソレを――ソレを……
「コリンさん? 顔色が悪いわよ。どうかした?」
「その依頼主は――どなたです?」
「隣国の農業関係者」
ぐるぐると色々な思考が頭の中で飛び火を起こす。
激しく明滅するのは、この件から即刻手をひくべきだという警告音。金の偽装と錬金術とはまったくの別物だ。錬金術の果てに金を精製したというのであれば称賛もしよう。だが、偽砂金を作ったなどとシャレにもならない。
それはどう考えても大罪で、軽く見積もって斬首――お家は断絶、一族郎党大失脚だ。
コリンの脳裏に面前のリファリアの弟であるアルファレス・セイフェリングの顔がちらついた。
アルファレスが断罪されると思えば――まぁ、色々と仕方ないような気がしないでもないが、この面前の女性が火刑やら斬首にあうやもと思えばぶるりと身が震える。それどころか、この事実を前に自分がしなければいけないことといえば――。
ヴィスヴァイヤがまったく関わり知らずだと示す為には、この事実を即刻陳情しなければ、知っていて隠匿するなどという事柄はただの愚策。まったくもって同罪。ヴィスヴァイヤさえ道連れだ。そんなことは絶対に許されない。
否――許さない。
思考がぐるぐると自らを締め上げて、コリンは一度は立ち直った気力を手放しそうになった。
がくんっと足の力が抜けて、リファリアが慌てて手を伸ばしてくる。
高い声を上げる女性の声に、コリンは今度こそ意識を手放してしまった。
密告――
はっきりと浮かんでしまった単語。
それはすなわち、この手で彼女等を地獄に落とすということ。
ああ、気を失っている暇など無いというのに。
***
「これは、なーんだ」
手のひらに乗る小ぶりの袋をつまみあげ、唇を引き結ぶようにして微笑を浮かべる男は普段の船乗りらしい生成りのシャツではなく、上質の絹地で作られたシャツを着崩したものだ。
首元にタイの一つもつけてはいないが、それで品位が崩れることもない。
それが本来の相手なのだろう。
突然憲兵に追いかけ回され、銃剣を突き付けられてあっさりと両手をあげて投降するに至った小太りのボートル・フェミングは口の端が自然と痙攣するのを感じた。
「これは私がおまえさんに預けたものだと思ったが、それがどうしてもう一度私の手に戻ったのだろうか?」
「そ、いつは……」
「ん?」
笑みがますます深まる。
小首をかしげて問いかける様は実にやさし気だが、ボートルの体はぶるりと震えた。
「偽砂金が港で出たと聞きつけてね、大慌てで捜査してみたらコレだ。私はね、見本として君にコレを預けたのだよ。これと似たものが出回ったら連絡をくれるようにとね。だというのに、キミ自身がこれを出回らせてくれるとは、いったいどういうことだろうね?」
「違うんでさぁっ。これはちょっとした手違いでっ」
「手違いで――そう、手違いで。
残念だよ。ボートル。キミを嫌いではなかったけれど、これは結構重罪だと思わないか?」
ふぅっと大仰に吐息をついて、さも残念だというように悲し気に首をゆるりと振った人物は、その次に囁いた。
「ところで、君は焼き豚と膾切りと、どちらがお好みかな?」
「っっっ」
「キミとは長い付き合いだから、キミの好みくらいはきいてあげようと思うんだ。なんといっても私は結構やさしい男だからね」
「やめてくださいよっ」
ボートルは悲鳴のような声をあげ、涙目で首を振った。
「そいつはあっしがやったんじゃありやせんっ。あの女がっ、うちの手伝いをしていた女が勝手に持ち出しやがったんでさぁっ。それを売り払いやがって! あっしは関係がねぇんですっ」
「おやおや。盗まれたと?」
「そうですっ。あっしにはあずかりしらねぇことで」
「でも、彼女はキミから貰ったと言っていたよ。そう、キミは無礼にも貴族の未亡人に対してコレをくれてやると言ったとか」
ふむっという言葉と共に言われ、ボートルの血はこれ以上下がらないのではないかという程にざっと下がったのを感じた。
「そ、れ、はっ」
「なんだ。本当に言ったみたいだな。ボートル、キミ探偵というわりに誘導に弱いな。つまり、キミときたら――私が預けたコレをご婦人に差し上げてしまった訳だ」
「ニセモノだと言ったんだっ。
ニセモノだと言えばもっていくわけねぇと思ったのに。あのバカ女ときたらっ」
「あまり無礼なことを言うものではない。アレでも一応貴族の令夫人――だった訳だから。まぁ、ちょっとばかり苦言を呈して帰したけどね。ニセモノと知っていて売るなんて、本来ならば極刑ものだ。詐欺だしね」
――それでも苦言程度で帰してやったのは、彼女がセイフェリングの娘だからだ。
貴族としての爵位がものを言ったのでは無い。
公爵であろうと侯爵であろうと、場合によっては生涯謹慎――それ以上に大きな罰を与えられることだろう。だが、そうならないように取り計らったのは、相手がアルファレス・セイフェリングの姉であったからだ。
「こういうコトはフェアでなければね――そう、思わないかい?」
ぼそりと落とした言葉に、ボートルは青白い顔を向けてくる。
それをにっこりとした微笑で無視し、つまみ上げた袋を無造作にポケットの中に放り込んだ。
「さて、ボートル。
仕事の話をするかい? それとも――もっと違う話がしたいかい?」
口元だけで笑う相手に、ボートルはすがるように「仕事の話をっ」と切り返した。どんな無理難題が突き付けられようと、仕事以外の話は耳にしたくなど無かった。
***
実質。コリン・クローバイエが気を失っていたのはほんの数分のことであった。
ぐらりと体から力を抜いて倒れそうになったコリンを、錬金術師はとっさに手を伸ばして支えることに成功した。驚いて自らの弟子を呼んだが、弟子よりも弟が一早くやってきたことはさもありなん。なんといっても、彼女の弟子であるフレリック・サフィアは誰よりも鈍くさい。悲鳴をあげて救いを求めたところで、たいていの場合は役になどたたないのだから。
つまるところ、コリンをリファリアから受け取り隣室に運んだのはアルファレスであった。いつだって飄々としているアルファレスにしては珍しく、真剣な様子でコリンを抱き上げ、力強く「医師をっ」と鋭く命じた。
その姿は実に素晴らしく絵になったものだが、そのアルファレスの言葉がコリンを正気づかせたのか、コリンはアルファレスの腕の中で目を開いた。
「ああ……」
コリンは瞼を震わせ、自分を抱き上げるアルファレスを見つめて切なそうにつぶやいた。
「貧乏神」
――彼女にはいったい何が見えているのか。
疫病神でも可。