第09話 静かな離反
茶会から、数週間が過ぎた。
学園の並木道に、初夏の風が通るようになっていた。
季節が、動いていた。
しかし——動いていたのは、季節だけではなかった。
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昼の食堂。
北部貴族の席は、以前より明らかに人数が減っていた。
茶会の頃には、北部貴族の子弟たちが学年を越えて十数名、自然と集まっていた席。
テーブルを囲んでも余るほどの人数で、上級生が下級生に声をかけ、派閥としての結束を確認する場でもあった。
それが今は——半分も残っていない。
残った数人も、控えめに会話を交わすばかりで、誰もクレアに直接話しかけない。
例外は、ナディア・グリューネンだけだった。
クレアは、いつも通り——堅く、近寄りがたい。
話しかけられれば短く応じるが、自分から発言はしない。
しかし、話しかけてくる相手は、もうほとんどいなかった。
主の半歩後ろに立つ侍女のメルは、今日もまた、控えめに目を伏せていた。
主の孤立を間近で見ている。
しかし、侍女の立場では、何もできない。
「……あれは、まずいな」
「まずいか?」
ニックが、隣のテーブルで小声で呟いた。
「『ホフマン嬢の一件』、まだ尾を引いてるんだ」
「ヘルガ嬢が退学したわけでもないのにか」
「退学しなくても、噂は十分だ。あれだけ正面から黙らされた令嬢を見たら、王都派の連中は口を開けないだろ。そして——」
ニックは、ちらりと北部貴族の席を見た。
「北部の連中も、巻き込まれたくないって顔だ」
ロイドは黙って頷いた。
観察対象の周りで、静かに、しかし確実に——何かが動いている。
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午後の実技が、終わった頃。
訓練場の片付けで遅れたロイドは、ニックと並んで中央棟の階段を上がっていた。
武官コースの他の生徒はとっくに教室か寮へ戻った後で、階段に人影はほとんどなかった。
ふと、視線の先の踊り場に、誰かから呼び止められているクレアの姿が見えた。
その相手は——金髪の青年。
クレアの婚約者。
レオン・フェルス・シュタイナー。
「……レオン様か」
ニックが小声で言った。
二人は、足を止めて柱の影に身を寄せた。
観察するには絶好の位置だった。
レオンの口調は、穏やかだった。
「クレア嬢、少しよろしいですか」
「……はい」
「最近、その……気になっていたことがありまして」
レオンの表情には、心配の色があった。
柔らかな声で、責めるでもなく、たしなめるでもなく。
「茶会の件、聞き及びました。あなたの仰ることは、確かに正論でした。家格の順序を踏まえれば、どこにも誤りはない」
「……」
「ですが、もう少し——優しい言い方を、相手を気遣った言い方を、心がけられてはいかがでしょうか。貴女の婚約者として、お願いします」
レオンの声は、最後まで穏やかだった。
クレアは、しばらく無言だった。
そして、短く頭を下げた。
「ご助言、感謝いたします」
「いえ、こちらこそ。差し出がましいことを」
レオンは、静かに会釈をして、その場を去った。
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「……」
「悪意は感じない、よな」
ニックが、確認するように呟いた。
「ああ。むしろ、婚約者としては当然の助言だ」
「な。レオン様、優しいよな。クレア嬢のこと、心配してくれてる」
ロイドは頷きながら——内心で、別のことを考えていた。
(婚約者として、当然の助言だ。だが——なぜ、人前ではなく、人気の少ないこの場所なのか)
考えても、答えは出ない。
観察記録に、項目を一つ追加するだけだった。
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その日の夕方。
ロイドはニックと並んで、中央棟の南側から並木道に出ようとしていた。
その時、また、レオンの姿が目に入った。
今度は——北部貴族の数人と、何かを話している。
穏やかに、心配そうに、北部貴族たちに何かを頼んでいる。
その声が風に乗って、ロイドの耳に届いた。
「『しばらく彼女を、そっとしておいてあげてくれ』か」
ロイドは、聞こえた言葉を口の中で繰り返した。
「クレア嬢のことだろうな」
ニックが小声で言った。
「だろうな」
「優しいよな、本当に」
ロイドは答えなかった。
北部貴族の数人が、レオンに頷いた。
恐縮した様子で、了解の意を示している。
(婚約者から『距離を置いてあげて』と言われれば、北部貴族は従うしかない。逆らえない。それは——分かる。当然の話だ)
だが——
(『距離を置く』が常態化したら、それはもう『孤立』だ)
冒険者の頭が、計算を始めていた。
しかし、計算した結果は——「悪意の兆候はない」だった。
仲裁は、仲裁だ。
善意のはずだ。
だが、結果は——
ロイドは視線を外した。
まだ、結論を出す段階ではなかった。
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数日後、昼の食堂。
ロイドはニックと隅のテーブルで食事を取っていた。
ふと、視線が——クレアの席に向いた。
そして、目を細めた。
クレアの席に、見慣れない令嬢が座っていた。
明るい笑顔、礼儀正しい所作、控えめな声量。
ソフィア・シュタイナー。
「……ソフィア嬢か」
ニックが小声で囁いた。
「兄貴のお願いか?」
「だろうな」
ソフィアの口調は、優しかった。
「クレアお義姉様、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「……ソフィア様。どうぞ」
「兄から伺いました。最近、少しお疲れだと」
「……」
「私で良ければ、お話相手に」
クレアの表情は、いつも通り——堅かった。
しかし、その奥で、わずかに——わずかに、表情が動いた。
声をかけてくれる人がいる。
それは、孤立の中の小さな救いだった。
「……ありがとうございます、ソフィア様」
短く、しかし、確かな声で。
クレアが頭を下げた。
ナディアが、その様子を隣で見ていた。
その表情は、また、安堵にも、困惑にも、見えた。
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(クレアが、初めて——少しだけ、誰かに心を開いた)
婚約者の妹の優しい接近。
そして、控えめな声量。
観察対象の心の壁が、わずかに揺らいだ瞬間だった。
(しかし——なぜ、今なのか)
タイミングが、出来過ぎている。
北部貴族の離反が始まった、ちょうどそのタイミングで、婚約者の妹が、孤立する令嬢に手を差し伸べた。
偶然か、それとも——
考えても、まだ、答えは出ない。
観察記録に、項目を一つ追加するだけだった。
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その日の夕方。
ロイドはニックと並んで、並木道を歩いていた。
その時、また——目に入った。
それは並木道の少し先に隠れるようにあった。
二人の人影。
何かを話している。
一人は——アルベルト殿下。
もう一人は——子爵家の次女、エミリア・リンデン。
王太子の側近の姿はない。
二人だけで。
エミリアの頬が、わずかに赤い。
王太子の口元には、微笑みがあった。
ロイドは、思わず声を潜めた。
「……おい」
ニックが震える小声で囁いた。
「子爵家の次女と王太子だぞ。あの距離はおかしい」
「ああ」
「殿下の婚約者は、シャルロッテ嬢だろう。侯爵家の」
「……ああ」
「不釣り合いだぞ、いろんな意味で」
ロイドは黙って頷いた。
以前、中庭で見た——王太子の視線。
ほんの数秒、エミリアを追っていた、あの目の動き。
今は、もう——視線どころではなくなっていた。
(あれは……単なる「目で追う」ではない)
ロイドの内心の観察記録に、新しい項目が増えた。
『アルベルト殿下とエミリア・リンデン。距離感が「通常の貴族同士」ではない。
観察結果:
二人の間に、何らかの個人的関係がある可能性。
ただし、現時点では「親密に見える」止まり。背景は不明』
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部屋に戻ると、いままでに観察した光景が、頭の中で駆け巡っていった。
北部貴族の離反。
メルの目を伏せた表情。
レオンの「仲裁」。
ソフィアの「友好」。
王太子とエミリアの異様な距離。
どれも、それ単体では「自然」に見える。
若さ、心配、礼儀、善意、好意。
貴族学園の日常で、起こりうる範囲の出来事。
しかし——並べると、奇妙な絵になる。
観察対象の周りで、「クレアを孤立させる動き」と「王太子の私的事情」が、同時に進行している。
偶然か。
それとも——
「……面倒くさい世界だな」
ロイドは、小さく呟いた。
冒険者の勘が、また、反応していた。
森の中で、罠の気配を感じ取った時の、あの感覚……
2日目は4話連続掲載でしたが、これで本日の投稿は最後になります。
明日からは6月末まで毎日19時投稿の予定となっています。
今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、
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