第10話 正しいだけの令嬢
「彼女は変わっていない。前から、ずっと、何一つ変わっていない。変わったのは——周りの方だ」
―― 正しいだけの令嬢
季節は、初夏から盛夏へ。
学園の並木道の若葉が、深い青葉に変わる頃合いになっていた。
午後の訓練場の石畳は、陽射しで熱を持ち、ベルガー教官の号令の合間に蝉の声が混じるようになっていた。
武官コース一年生の実技は、型から組み手へと進んでいた。
ロイドの汗の量も、それに合わせて増えていた。
冒険者として鍛えてきた身体には、それでも余裕があったが——隣で同じ訓練を受けるニックの息は、上がっていた。
そして、ロイドの観察記録もまた、その分、厚くなっていた。
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朝。
クレアは、これまでと変わらず、いつも通りに登校していた。
寮を出て、並木道を抜けて、北側の教室へ。
メルが半歩後ろに従い、二人の足音だけが、まだ人気のない廊下に響く。
教室に入ると、クレアは自分の席で姿勢を正し、教科書を広げる。
次の授業の予習を、誰よりも早く始める。
「お早うございます、クレア様」
ナディア・グリューネンが、後から教室に入ってくる。
「お早うございます、ナディア様」
短い挨拶。
それだけで、二人は隣の席で予習を始める。
穏やかで、淡々とした、毎朝の光景だった。
ロイドはその様子を遠くから観察しているだけだった。
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午前。
ベルガー教官が公務で不在の日、武官コースには課題が出されていた。
ロイドはニックと並んで、その課題を調べに図書館へ向かっていた。
武官コースの教室は中央棟二階の東側、図書館は一階の北側。
二階の廊下を進む途中、北側の教室の前を通った。
扉の隙間から、教室の中の光景が見えた。
休み時間。
ほとんどの生徒は、教室で談笑している。
しかし、クレアは——自分の席で、本を読んでいた。
メルが、その傍らに静かに立ち、主の様子を見守っている。
時折、メルが何かを小声で話しかけ、クレアが短く応じる。
二人だけの静かな空間が、教室の片隅にあった。
「あの娘、誰とも話さないんだな」
ニックが小声で囁いた。
「そういうわけでもない。メルとは話してる」
「侍女と、な」
ニックの声には、何とも言えない響きがあった。
ロイドはそれには答えず、ただ視線だけを観察対象に据えていた。
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昼。
食堂のクレアの席は、もう寂しいものになっていた。
ナディアが隣に座っている、それだけ。
北部貴族の他の子弟は、別のテーブルに散ってしまった。
しかし、クレアは騒がない。
不平も口にしない。
ただ、いつも通りの姿勢で、いつも通りの作法で、食事を取る。
そこへ、上級生の令嬢が、たまたま近くを通りかかった。
「ブレンハルト嬢、ご機嫌よう」
北部貴族の上級生だった。
以前は北部貴族の卓に当たり前のように加わっていた家門の娘。
今は——少し離れた距離で、声だけかけて去ろうとしている。
「ご機嫌よう」
クレアは、立ち上がってから、丁寧に頭を下げた。
「先日のお茶会では、よくしていただきました。改めて御礼申し上げます」
完璧な作法。
完璧な敬語。
完璧な——距離。
「い、いえ。こちらこそ」
令嬢は、戸惑った様子で短く返し、足早に去っていった。
クレアは、また静かに着席した。
何事もなかったかのように、食事の続きを始める。
ロイドは、隅のテーブルから、その様子を観察していた。
(丁寧だ)
心の中で、呟く。
(声をかけられれば、誠実に応じる。家格の順序を踏まえて、敬意を返す)
しかし——
(壁が、ある)
あの完璧な作法は、あまりにも完璧すぎて、相手が踏み込めない。
優しさのない、正しさだけの応対。
令嬢の戸惑いが、それを物語っていた。
「あれは、辛いな」
ニックが、隣で小声で言った。
「辛いか?」
「あの上級生、たぶん本当は声をかけ続けたかったんだ。でも、あの返しじゃ……次に何を言えばいいか分からん」
ロイドは黙って頷いた。
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夕方。
自室に戻ったロイドは、机に向かい、観察記録を取り出す。
ペンを取り、新しい項目を書き加える。
『クレア・ブレンハルト。観察期間: 約三ヶ月。
行動パターン:
朝、誰よりも早く登校。予習を始める。
休み時間、教室で読書、もしくはメルとの会話。
昼、食堂で姿勢を崩さず食事。北部貴族の上級生にも丁寧に応じる。
誰かに嫌がらせをしている様子は——一度も観察されない。
第三者所見:
「怖い」「近寄りがたい」(一般学生の印象)。
観察結果:
彼女は変わっていない。前から、ずっと、何一つ変わっていない。
変わったのは——周りの方だ』
ペンを止めた。
書き終えた紙を、しばらく眺めた。
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冒険者として、森の中で獣の足跡を追っていた頃のことを思い出す。
獣は、変わらない。
獣の足跡は、毎日、同じ動線を描く。
毎朝、同じ水場で水を飲み、毎夕、同じ茂みに身を潜めて眠る。
観察者が森に通い続ければ、その動線は手に取るように分かってくる。
ある日、獣の動線が変わったとする。
しかし、獣自身は、変わっていない。
獣は、いつも通りに、安全な水場と、安全な茂みを求めるだけだ。
変わったのは——森の方だ。
水場が枯れた、木が倒れた、別の獣が縄張りに入った。
森の側に何かがあったから、獣の動線が変化する。
森の方を見るのが、観察者の仕事だった。
(クレアは、変わっていない)
(変わったのは、森の方だ)
ロイドは、ペンを置いて、椅子に深く腰掛けた。
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夕食を終えてしばらくしてから、ニックの部屋から、トントンと壁を叩く音が聞こえた。
隣室からの、いつもの合図。
この時間にお茶を飲むのが、二人の日課になっていた。
ロイドは立ち上がり、共有の談話室に向かった。
ニックは、すでに椅子に腰掛け、お茶を飲んでいた。
「お疲れ」
「ああ、お疲れ」
ロイドは向かいに座り、ニックの淹れた茶を一口含んだ。
しばらく、二人で黙って茶を飲んでいた。
窓の外で、蝉の声が遠く聞こえていた。
不意に、ロイドが口を開いた。
「なあ、ニック」
「ん?」
「あの辺境伯の令嬢、どう思う?」
ニックが、茶を飲む手を止めた。
しばらく、考えるように天井を見上げた。
「うーん」
「うーん?」
「ちょっと、怖いかな」
ロイドは、わずかに目を細めた。
「怖い?」
「そう。怖いっていうか、近寄りがたいっていうか。何を考えてるか分からないっていうか」
「何かをした、というわけじゃない、よな」
「いや、何かをしたわけじゃない。だから、なおさら、怖いんだ」
ニックは、少し言葉を選びながら続けた。
「俺はあの令嬢が誰かに何かしたところ、見たことない。聞いたこともない。でも、なんか……周りが避けてる雰囲気が、あるだろ。あれが、怖い」
「……周りが、避けてる」
「そうそう。避けてる」
ロイドは、しばらく黙っていた。
ニックは、嘘をついていない。
そして——悪意も、ない。
ただ、感じたまま、そのままを答えただけだった。
それが、最も厄介なところだった。
これが、一般学生の印象なのだ。
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(俺の目には——)
ロイドは、心の中で呟いた。
(俺の目には、ただ、正しいだけの令嬢に見える)
(でも、ニックの目には、怖い令嬢に見える)
(……同じ人間を、見ているはずなのに)
観察者の目と、一般学生の目。
二つの目が見ているものが、これほど違う。
冒険者の頭が、計算を始めた。
森が変わったから、獣の動線が変わって見える。
観察対象は変わっていないのに、観察される評価だけが変わる。
それは——
(誰かが、森を変えた)
まだ、誰が、とは言えない。
まだ、なぜ、とも言えない。
しかし、確信めいたものが、心の奥に芽生え始めていた。
「面倒くさいな」
声に出さずに、呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「いや。何でもない」
ニックが、首を傾げて茶を一口含んだ。
ロイドは、窓の外の青葉を見つめていた。
夏の夕方の風が、わずかに、葉を、揺らしていた。
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