第37話 手のひらの上
新しい茶は、まだ、湯気を立てていた。
ロイドは、その新しい茶を、一口、含んだ。
温かい茶が、喉を、ゆっくりと、降りていった。
ロイドは、茶器を、卓に置いた。
そして、ヴィクトルの方を、見た。
「……で」
ロイドは、低く切り出した。
「結局、あんたは最初から、知ってたんですか?」
ヴィクトルは、笑みを深めた。
シスコンの軽さは、もう、なかった。
「順番に、話そうか」
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ヴィクトルは、自分の茶を、一口、含んだ。
「すでに気がついていると思うが——お前の冒険者仲間の、ダグ——」
ロイドの肩が、わずかに、強張った。
「あれも、今となっては俺の手駒だ」
ロイドは、しばし、黙った。
「……手駒?」
「ああ」
ヴィクトルは、卓の上で、軽く指を組んだ。
「確かに、お前の周辺調査のついででダグにたどり着いたわけだが、今となっては俺から直接依頼をかけている。お前と同じ、いわゆる手駒だな」
「そんな気はしていましたが……」
「そして、今回の件でもダグには別の依頼をしていた。結果、ダグは王都に滞在し、お前のサポートをすることができたというわけだ」
「……わかりました。しかし、あれも、とは……」
「シュタイナー伯爵家の、ハウスキーパー——」
ロイドの目が、わずかに、上がった。
「リタを、知ってるか?」
「……ええ」
「あれも、俺の手駒だ」
「ダグの幼馴染、という縁で、お前たちが、自然に接触できるよう——仕込んでおいた」
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ロイドは、何も言わなかった。
ただ、茶器を、もう一度、持ち上げ、一口、含んだ。
茶の温かさが、今度は、口の中に、長く、残った。
脳裏に、過ぎていく光景があった。
ダグと初めて会った、酒場の片隅。
リタと初めて言葉を交わした、シュタイナー邸の裏口。
「自力で辿り着いた」と、思っていた、いくつもの瞬間。
その全てが——目の前の男の、用意した、舞台だったのか。
「……俺、ずっと、あんたの手のひらの上だったってことですか」
ヴィクトルは、笑みを、わずかに、柔らかくした。
「すべてではない」
「確かに王都やレオンの周辺に網は張っておいた。だが、まさかレオンが冤罪を仕掛けてくるとまでは思っていなかった」
「それと……最後のお前の判断。お前は、俺の計算を、超えてきた」
「あの場で、男爵家の三男が、王太子と側近の前に進み出る——そこまでは、俺は、読めていなかった」
ヴィクトルは、軽く笑った。
「だから、陛下は動いた。俺の計算の、その先に、お前が立ったからだ」
ロイドは、何も、答えなかった。
怒りは、なかった。
ただ、軽い疲労と——奇妙な納得が、胸の奥に、ゆっくりと、降りていった。
最初から、こうなるように、組まれていた。
それでも、最後の一歩だけは、自分の足で踏み出した——その事実だけが、ロイドの中に、確かに、残った。
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「シュタイナー家への、リタの潜入は、いつからですか?」
ロイドが、低く、問うた。
「クレアと、レオンの婚約が、成立した直後だ」
「……それは、また、随分前から」
「先行投資、というやつだ」
ロイドは、低く、息を吐いた。
婚約の成立直後——つまり、まだ何も起きていなかった頃から、ヴィクトルは、最悪の事態を、想定していた。
妹を、シュタイナー家に嫁がせる以上、内側に目を置いておく——その判断を、何年も前に、下していた。
目の前の男が、どれだけ深く、長く、布石を打ってきたか——それが、ロイドの胸に、ずしりと、降りてきた。
「まあ、細かい話は、いい。お前が、知る必要のあるところまでだ」
ヴィクトルは、軽く、手を振った。
ロイドは、それ以上、訊かなかった。
訊いても、答えないことが、もう、わかっていた。
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「他の連中の動きは——」
ロイドの問いに、ヴィクトルが、答えた。
「教会、王太子、シュタイナー家——三者は、それぞれ、別の動機で動いていた」
「教会は、政治干渉力の回復。王太子は……まあ、お前も、察しがつくだろう」
「……エミリア嬢への、お気持ち、ですか」
「ああ」
ヴィクトルは、軽く頷いた。
「シュタイナー家は、婚約解消。それぞれの動機が、結果として、同じ方向に、重なった——そういう構図だ」
「しかし、なぜシュタイナー家は、婚約解消を狙ったのですか?」
「……シュタイナー家の家門内部の判断は、俺の手の届く範囲ではない」
「……」
「推測でしかないが——あの家は本質的に、隣国、ノルドライヒ帝国からの干渉を嫌う家ではある。ブレンハルトは王家忠誠の北方の盾だが、地理的には隣国に近い——北部の家門が隣国側に取り込まれることを警戒している、というのもあるかもしれん」
「だが、決定的な動機までは、わからん。複数の理由が、絡んでいるのだろう」
「三者は、互いに、組んでいたわけではない。だが、結果として、一人の令嬢を潰す方向に、揃って動いた——たまたま、ではないが、共謀でもない。そういう、厄介な構図だ」
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「あんたは」
ロイドが、吐き出すように、問うた。
「どこまで、把握しているんですか?」
ヴィクトルは、しばし、口を、閉じた。
そして、軽く、笑った。
「俺も、全てを知っているわけでは、ない。陛下のお言葉から、推測している部分も、ある」
「……」
「特に、王宮の動き——あの辺りは、俺の手の届かない領域だ」
ロイドは、しばし、ヴィクトルを、見た。
「……あんたでも、知らないことが、あるんですか」
「当然だ」
ヴィクトルは、軽く笑った。
「俺は、全能ではない」
その言葉に、ロイドも、何か救われるものを感じた。
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ヴィクトルは、茶を、もう一口、含んだ。
「結局、何が、起きていたかというと——」
ヴィクトルは、卓の上に、軽く指を置いた。
「誰もが、自分の論理で、動いていた」
「……」
「教会は、教会の都合で。王太子は、王太子の都合で。シュタイナー家は、シュタイナー家の都合で——それぞれが、自分にとっての正しさを、信じていた」
「……」
「だが——」
ヴィクトルの声が、わずかに、低くなった。
「犠牲になったのは、ただ正しいだけの、一人の令嬢だった、というわけだ」
ロイドは、何も、言わなかった。
茶器を、ゆっくりと、卓に戻した。
脳裏に、クレアの姿が、浮かんだ。
学園の片隅で、ただ正しいだけだった、令嬢の姿が——
あの場で、進み出た理由は、これだったのだろう、と、ロイドは、思った。
それぞれの論理のために、一人の令嬢が、潰されかけていた。
それを見過ごせなかった——それだけのことだった。
部屋の灯りが、二人の輪郭を、柔らかく、揺らしていた。
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ヴィクトルは、軽く、首を回した。
そして、窓の外に、視線を、向けた。
春の夜が、完全に、降りていた。
「——さて、そろそろかな」
「は?」
ロイドが、低く問うた。
ヴィクトルは、笑みを、深めた。
「お前と話している間に——クレアを、呼んでおいた」
ロイドの表情が、わずかに、固まった。
「……ちょっと待ってください。クレア嬢を、呼んだ?」
「ああ」
「いつから、決まっていたんですか、それは」
「お前を、呼び出した時には、もう、決まっていた」
ヴィクトルは、軽く、笑った。
ロイドは、低く、息を吐いた。
「……やっぱり、あんたは、面倒くさいですね」
「ははは。光栄だな」
ヴィクトルは、軽く笑った。
その笑いには、もう、シスコンの軽さも、政治家の鋭さも、ない、ただの満足の色が、混じっていた。
ロイドは、姿勢を、軽く、整えた。
卓の上の茶器を、少し、ずらした。
まもなく、北方辺境伯家の令嬢が、この部屋に、入ってくる——そう思うと、自然と、背筋が、伸びていた。
部屋の扉の方から——ノックの音が、響いた。
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