第35話 兄が笑う
※ 視点: ヴィクトル・シルト・ブレンハルト
ヴィクトル・シルト・ブレンハルトは、王城の謁見室の扉の前に立っていた。
卒業記念パーティの翌日だった。
昨夜、学園の大広間で起きたこと——
王がクレアの罪状を事実無根と認定し、王太子の追認を後日の沙汰の対象としたこと——
その報を、ヴィクトルはタウンハウスでハンスから受け取っていた。
そして、今——ヴィクトルは王城に招かれていた。
謁見の申し入れはヴィクトル側から行った。
王はそれを承諾した。
扉の前で、ヴィクトルは軽く襟元を整えた。
タウンハウスでの装い——シスコンの軽さは、もう、なかった。
北方辺境伯の次期当主としての、整った姿だった。
王城の使者が、扉を開いた。
「ブレンハルト辺境伯ご令息、お入りください」
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謁見室は広く、しかし静かだった。
壇上には、王が座っていた。
王妃殿下を含め、他の貴族はすべて、この場から下げられていた。
残っているのは、王と、王のごく限られた側近、そして近衛のみ。
今日の謁見は形式的なものではない——個別の政治会談として、王が直接受ける場だった。
それは——ヴィクトルが申し入れた、ある報告のためだった。
ヴィクトルは壇上の前で頭を下げ、規定の作法に従って跪いた。
「面を上げよ」
王の、低い声。
断罪の場で聞いた、あの声と同じ。
しかし今日は——もう少し私的な響きが、混じっていた。
「ブレンハルト辺境伯次期当主、ヴィクトル・シルト・ブレンハルトでございます」
王は、低く頷いた。
「申せ」
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ヴィクトルは、息を低く整えた。
「まずは、クレアの件。陛下の御裁定に、心より感謝申し上げます」
王は、軽く頷いた。
「そして——本日お時間をいただきましたのは、別の件でございます」
「聞こう」
ヴィクトルは、視線を上げた。
「聖女計画——その全容を、お耳に入れたいと考えております」
王の表情は——変わらなかった。
「ほう」
その「ほう」は、驚きではなかった。
ヴィクトルは、その瞬間、わかった。
(——王は、すでに、知っている)
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ヴィクトルは、しかし報告を続けた。
「教会の関与。王太子殿下の関与。シュタイナー伯爵家の独自の動き——」
「私の調査では、三者はそれぞれ別の動機で動いておりました。教会は政治干渉力の回復。王太子殿下はご婚約者の変更。シュタイナー家はクレアとの婚約解消——」
「ナディア・グリューネン嬢の関与も確認しております。隣国出身の祖母を通じて、王妃殿下と同郷の縁を持つ家門。聖女計画に連なる王太子殿下の手駒として、活用されていたと推定しております」
「教会側の伝達役は、シュタイナー家執事ギルバート・キルヒ。王太子側の伝達役は、執事ヨハン・トロイ。それぞれ別の高位聖職者と、接触の痕跡を確認しております」
王は、しばらく黙って聞いていた。
報告が終わると、ゆっくりと口を開いた。
「うむ。把握しておる」
ヴィクトルの中で、確信が形を取った。
王家の影——王の情報機関。
聖女計画は、すでにその目に捉えられていた。
ヴィクトルの調査内容を、王はほぼ把握済みだったのだろう。
しかし、家門の独自調査として改めて報告する意味は、別にあった。
「ブレンハルト辺境伯家は、ここまで把握している」と、王家に示す意味——
その目的は、十分に達成された。
「ただし——」
王は続けた。
「公の場での冤罪追認は、別だ」
その声に、わずかな重みが加わった。
「聖女計画のみなら、余は容認することもできた。政治の現実として——隣国との関係も、教会との均衡もある」
ヴィクトルは頷いた。
「しかし公の場で、虚偽の冤罪を追認した——これは一線を越えた。記録に残る。王太子としての信頼を、根本から揺るがした」
「はい」
「だから余は、動かなければならなかった」
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王は、しばらくヴィクトルを見た。
そして、低く口を開いた。
「あの男爵家の三男——ロイド・ハイデン——がいなければ、余も動けなかった」
ヴィクトルの口元に、わずかな笑みが混じりかけた。
しかし王の前で、それを表に出すことはしなかった。
「ロイドは、私が手配した冒険者でございます」
「委任状の家紋で、把握しておる」
「お役に立てたのであれば、私としても、家門としても誇りでございます」
王は、低く頷いた。
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王は、ヴィクトルをまっすぐに見た。
「ブレンハルト次期当主——お前の調査は、真に国のための報告となっている」
「恐れ入ります」
「お前の判断、見事だった。妹を守るためにあの冒険者を学園に置いた。家門の独自の動きで、教会・王太子の動きを追った。そして——王家への報告として整理した」
王の声に、認める色が混じった。
「ブレンハルト辺境伯家の政治的価値が、また一段、上がった」
「光栄でございます」
ヴィクトルは、深く頭を下げた。
その所作の奥に——わずかな満足が宿っていた。
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謁見が終わった。
ヴィクトルは、王城を退出した。
タウンハウスへと戻る馬車の中で——ヴィクトルは、初めて口元に明確な笑みを浮かべた。
シスコンの軽さではない。
政治家の、計算の笑み——でもなかった。
ただ、すべてが計算通りに運んだ、満足の笑みだった。
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長くシスコンを演じてきた。
学園に入学する妹をいつまでも気にかける過保護な兄——という表の顔。
その仮面の下で、ヴィクトルは別のことを考えていた。
王妃殿下から、北方辺境伯領の家門への親書。
その背後にある政治的な意図。
妹をただ守るだけでは足りない。
学園の中で何かが起きた時、それを見続ける目が、必要だった。
そこでロイドだった。
地方男爵家の三男。
冒険者として、観察と記録に長けた男。
学園に置けば、表向きは「妹の護衛」、実態は「学園内の盤面の観察者」となる。
ハンスを介してロイドの報告を受ける構造。
ダグに関しても間接的な支援を行っていた。
それぞれの目がそれぞれの場所で、同じ盤面を追う——その構造を、ヴィクトルは最初から組み立てていた。
学園内の表の戦い——ロイドが戦った。
学園外の裏の戦い——ヴィクトル自身が戦った。
両方が揃って、初めて結果が出た。
それでも、学園の空気の変化までは、ヴィクトルの手には届かなかった。
そこだけは、ロイドの目が拾った。
妹を守った。
王家に恩を売った。
ブレンハルト辺境伯家の政治的な位置を、また一段、上げた。
すべてが——計算通り、いや、計算以上だった。
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ロイドがここまでやるとは、ヴィクトル自身の予想を超えていた。
観察者として置いたはずの男が——調査者として動き始め、最後には盤面を動かす者にまで変化した。
卒業記念パーティの場で、男爵家の三男が王太子と側近の前に進み出るとは——ヴィクトルの計算のその先まで、ロイドは踏み込んだ。
ヴィクトルの笑みは、その「予想を超えた」事実への敬意も含んでいた。
冒険者として、観察者として、調査者として——そして最後に、盤面を動かす者として、ロイドは想定外の役割まで果たした。
兄として、政治家として、ヴィクトルには両方の側面がある。
兄としての側面では——妹を救ってくれたロイドへの感謝。
政治家としての側面では——家門の政治的価値を上げる材料を提供してくれたロイドへの評価。
その両方を抱えて、ヴィクトルは笑った。
あの男を見抜いたのは正しかった。
学園入学の前に、ロイドを観察に置く判断を下した、あの日——あの判断こそが、すべての始まりだった。
ロイドへの報酬は——後日、十分に用意しなければならない。
冒険者としての対価だけでなく、ブレンハルト辺境伯家としての謝意も、形にする必要がある。
「さて……沙汰が楽しみだ」
ヴィクトルは、低く呟いた。
馬車は、王都の街並みを抜けていった。
春が、もうすぐ本格的に始まる。
その春の中で、王太子への沙汰、レオンへの沙汰、その他関係者の処遇——すべてがこれから明らかになる。
ヴィクトルの笑みは、馬車の窓の外を見ながら、いつまでも、続いた。
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