第31話 秘伝のインク
「灯りに、角度を変えて、当てると——青い、深い、輝きが、浮かびます」
―― 秘伝のインク
「しかし、書かれた、内容そのものは——偽物、です」
―― 偽りの文書
ロイドは、足を、一歩、また、一歩、前に、出した。
パーティの片隅から、広間の中央へと——壁際の柱の影を離れた瞬間、ようやく、何人かが、視線を、向けた。
「誰だ、あの男は——」
「見覚えがないが——」
男爵家の、三男、一年生。
特に目立つこともない、普通の男子生徒。
ざわめきが、別の方向へと、流れ始めた。
婚約破棄と、殺傷の冤罪——その重い空気の中に、別の、異質な、流れが、混じり始めた。
誰もが、その男の足取りを、目で、追った。
迷いがない。
しかし、急いでも、いない。
ただ、確実に——一歩、一歩、中央へと、進んでいく。
「少し、よろしいですか」
ロイドの声が、低く、響いた。
大声でも、強い口調でも、ない。
しかし、その声が、確かに、広間の空気を、変えた。
貴族の中には、その声に、何かを、感じ取った者も、いた。
---
王太子の側近たち——オスカー・ケスラー、ルドルフ・エンゲル——が、視線を、ロイドへと、向けた。
「……何だ、貴様は」
オスカーの声が、低く、響いた。
貴族の格が、口調に、出ていた。
王太子とその側近の前で、許可もなく、口を開く——あり得ない、というのが、その目に、宿っていた。
「私は、ロイド・ハイデン。ハイデン男爵家の、三男です」
「男爵家の、三男、だと?」
オスカーの声が、わずかに、高くなった。
信じられない、という色が、混じった。
「はい」
「貴様、何の用だ。ここは、貴様の出る場では、ない」
「アルベルト殿下に、進言が、ございます」
ロイドの声は、震えていなかった。
冒険者として、森の獣と、対峙してきた経験が——人間相手でも、揺らがない、足元の確かさを、与えていた。
冷静に。
ただ、冷静に。
観察者の目を、自分の中で、保ち続けた。
---
王太子が、視線を、ロイドへと、向けた。
「申せ」
「その文書、拝見しても、よろしいでしょうか」
ロイドは、卓の上の、紙を、見た。
戻された、捏造の、依頼書。
レオンが、わずかに、身を、強張らせた。
「……何のために?」
レオンの声が、低く、響いた。
「確認したい、ことが、ございます」
レオンは、それ以上、答えなかった。
ロイドの視線は、レオンを、通り過ぎて、王太子へと、向かった。
「よかろう」
王太子の声が、響いた。
紙が、王太子の手から、ロイドに、手渡された。
ロイドは、その紙を、両手で、受け取った。
手に取った、その瞬間、紙の感触で、レターベース自体は、本物だと、わかった。
深い藍色の地、家紋の透かし、紙の重み——間違いない。
ブレンハルト辺境伯家の、正式な、レターベースだった。
壇上の灯りに、紙を、近づけた。
文面を、追った。
筆跡は——一見、よく、書けていた。
女性の手による、しなやかで、流麗な、貴族令嬢の筆致。
しかし、ロイドの目には、わずかな、固さが、見えた。
誰かが、模倣して、書いたものだ——その確信が、形を取った。
そして——インクを、見た。
時間にして、わずか、数秒。
ロイドの目には、すべてが、見えていた。
「アルベルト殿下」
ロイドは、紙を、持ったまま、顔を、上げた。
「この文書のインクは——ブレンハルト辺境伯家のものでは、ありません」
その瞬間——広間が、しん、と、静まった。
---
最初に、動いたのは、レオンの表情だった。
わずかに——本当に、わずかに——眉が、動いた。
しかし、それは、ロイドにだけ、見えた変化だった。
次に、動いたのは、クレア嬢だった。
その目が、初めて、ロイドへと、向けられた。
驚き、と、わずかな困惑が、混じっていた。
クレア嬢自身も——インクのことを、知らなかったらしい。
「ロイド・ハイデン、と、申したな」
王太子の声が、低く、響いた。
「はい」
「貴様、その断定の、根拠は」
「ブレンハルト辺境伯家には、サイン入りの正式な書簡に、家の秘伝の特殊インクを、使用する義務が、ございます」
「秘伝の——インク?」
「はい。製造方法は、家の秘伝として、外には、漏れません」
「ロイド・ハイデン、何故、お前が——その秘密を、知っているのだ」
王太子の声に、わずかな、警戒が、混じった。
「私は、ブレンハルト辺境伯家から、ある依頼を、受けて、動いております。その依頼の遂行上、必要な情報として——秘伝のインクの特徴を、教えて、いただきました」
ロイドは、紙を、もう一度、灯りに、近づけた。
「特殊インクは、独特の光沢を、持ちます。書かれて、時間が経っても、深い、藍黒の光を、保ち続けます」
灯りの角度を、わずかに、変えた。
「灯りに、角度を変えて、当てると——青い、深い、輝きが、浮かびます。これは、北方辺境伯領の、限られた鉱石から、抽出される、顔料の特性です」
そして、その紙を、王太子の前に、戻した。
「この文書のインクは——通常の、市販されている、黒インクです。光沢が、違います。色も、灯りに、角度を変えて、当てても——青い輝きは、現れません」
その時、レオンが、口を、開いた。
「……出鱈目だ」
声に、低く、抑えた怒りが、混じっていた。
「貴様の言うインクの特徴とやら——その証拠は、どこにある。男爵家の三男の、口先一つで——本物の書簡を、偽物扱いするのか」
ロイドは、レオンを、まっすぐに、見た。
「ご懸念の通り、私の言葉だけでは、根拠が、不十分です」
そして、懐から、別の袋を、取り出した。
家門の印が押された、委任状。
ヴィクトル様から、ハンス経由で、託されたものだった。
「これは、ブレンハルト辺境伯家から、お預かりした、委任状です。当然、ブレンハルト辺境伯家の正式な書簡として、秘伝の特殊インクで、書かれております」
ロイドは、委任状を、王太子に、差し出した。
「アルベルト殿下。こちらと、依頼書のインクを、見比べていただけますか」
---
王太子が、委任状を、受け取った。
封蝋の家紋を、確かめた。
間違いなく、北方辺境伯家の、正式な印だった。
そして、開いた。
委任状の文面が、灯りの下に、広げられた。
その瞬間——
委任状のインクが、深い、藍黒の光を、湛えていた。
わずかに角度を変えると——青い、深い、輝きが、浮かんだ。
王太子は、依頼書を、その隣に、並べた。
灯りの下で、二枚の紙を、並べて、見比べた。
依頼書のインク——光沢の、深さが、違う。
角度を変えても——青い輝きは、現れない。
王太子の眉が、わずかに、寄せられた。
顔から、わずかに、血の気が、引いた。
しばらく、声が、出なかった。
視線が、二枚の紙の上を、行き来した。
もう一度、灯りの角度を、変えて、見比べた。
しかし、その確認は——もはや、確かめるための、ものでは、なかった。
ただ、自分の中で、整理する、時間を、稼ぐための、ものだった。
「……確かに、違うな」
ようやく、声が、出た。
その声には、先程の追認とは、別の、硬さが、混じっていた。
「この依頼書のインクは、ブレンハルト辺境伯家のものとは——明らかに、異なる」
声に、わずかな、苦さが、滲んだ。
広間に、ざわめきが、走った。
「つまり——」
ロイドは、王太子を、まっすぐに、見た。
「この文書は、ブレンハルト辺境伯家の、正式な書簡として、書かれたものでは、ありません。レターベースは、本物のように見えます。しかし、書かれた、内容そのものは——偽物、です」
その言葉が、広間に、響いた。
偽物。
たった、二文字。
しかし、その二文字が、噂で凝り固められた像を——わずかに、揺らがせた。
最初の、ひびが、入った。
レオンの目が、ロイドに、向けられた。
今度は、明確に。
眉根が、低く、寄せられた。
冷たい、視線だった。
ロイドは、その視線を、まっすぐに、受け止めた。
(——お前の盤面に、初めて、楔を、打ち込んだ)
ロイドの中で、低く、形を取った認識だった。
---
クレア嬢が、口を、開いた。
「私は——インクの、件は、知りませんでした」
その声には、初めて、戸惑いが、混じっていた。
「家の秘伝として、当主と、当主の補佐役のみに、受け継がれる、伝統です」
ロイドは、低く、答えた。
「クレア嬢は、まだ、その伝統を、受け継ぐ段階では、ない、ということでしょう」
クレア嬢は、わずかに、頷いた。
その表情に、初めて——感謝に、近い、何かが、混じった。
---
場の空気が、変わった。
婚約破棄も、殺傷の冤罪も——その全てが、一枚の捏造文書の上に、組み立てられていた。
その文書が、偽物だと示されれば——全てが、揺らぐ。
貴族たちの目が、互いを、見合った。
ざわめきが、また、別の質を、帯び始めた。
最初の「やはり」から——「もしかして」へ。
固められた像が、わずかに、解けていく。
しかし、まだ、それだけでは、足りない。
インクが、偽物だと示しただけでは——レターベース自体は、本物だ。
誰かが、ブレンハルト家のレターベースを、不正に入手したこと。
そして、それを、偽の文書として、組み立てたこと。
その全体像を、示す、必要がある。
(——まだ、足りない)
残るカードは、まだ、ある。
観察記録の、束。
書簡の、写し。
そして——証人たちの、覚悟。
ロイドは、息を、低く、整えた。
次の一手の、準備に、入った。
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