第30話 片隅からの一歩
「クレア・ブレンハルト辺境伯令嬢は——聖女エミリア・リンデン嬢に対して、殺傷を、企てている」
―― 殺傷計画の冤罪
「聖女に対する、このような所業は——看過、できない」
―― 王太子の追認
婚約破棄宣言が、広間に、静かに、響いた。
誰も、声を、上げなかった。
ざわめきすら、起こらなかった。
まるで、誰もが、この瞬間を、予期していたかのように——
貴族たちの目には、驚きの色は、なかった。
あるのは、噂が事実として確定された、という納得だけ。
その認識が、広間の隅々まで、静かに、行き渡った。
クレア嬢は、その場で、立ったままだった。
背筋は、まだ、伸びていた。
表情も、変わらなかった。
しかし、その隣で、メルの肩が、わずかに、震えていた。
壁沿いの位置から、寄り添ったまま——侍女の役目を、保ったまま——
しかし、心の動揺は、肩の線に、確かに、出ていた。
ロイドにだけは、その震えが、見えた。
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「だが、これだけでは、終わらない」
レオンが、続けた。
懐から、一枚の紙を、取り出した。
封蝋付きの、貴族家の正式な書状の形式だった。
「クレア・ブレンハルト辺境伯令嬢は——聖女エミリア・リンデン嬢に対して、殺傷を、企てている」
その瞬間、広間が、別の意味で、ざわめいた。
婚約破棄を超えた、別の次元の話。
犯罪。
貴族の娘が、聖女に対して、それを、企てた——もし、それが、事実であれば。
「証拠は、ここにある」
レオンは、その紙を、開いて、掲げた。
「クレア・ブレンハルト辺境伯令嬢のサインの入った——殺傷の、依頼書」
広間の視線が、すべて、その一枚の紙に、集まった。
ロイドの目にも、その紙の輪郭が、見えた。
ブレンハルト家の——レターベースだった。
深い藍色の地に、辺境伯家の家紋が、薄く、透かしで入っている。
そこに、捏造の依頼文が、書かれている。
レオンが、その文面を、読み上げ始めた。
「『リンデン子爵令嬢の身に——相応の、傷を、与えていただきたく』
『二度と、聖女として、表に立てぬ身に、なさってくださいませ』
『手間賃は、ブレンハルト家として、保証をいたします』」
貴族令嬢の格式に則った、優雅な敬体だった。
封蝋付きの正式書状。
そして、末尾には、確かに、クレア・ブレンハルトのサインが、入っている。
知らない者が見れば、疑う余地は、ない。
広間に、息を呑む音が、低く、走った。
もう、噂以上の——文書による、明確な、殺傷の依頼だった。
ロイドの中で、糸が、一本、はっきりと、繋がった。
書簡の写しと、失敗した下書きで、見えていた計画——それが、ここで、現実の形を、取った。
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「知りません」
クレア嬢の声が、低く、響いた。
「こんなもの——見たことも、ありません」
声は、震えていなかった。
しかし、短かった。
弁解の言葉が、続かなかった。
レオンは、その紙を、王太子に、差し出した。
「アルベルト殿下。ご検分を」
王太子が、その紙を、受け取った。
壇上の灯りが、紙の上に、落ちた。
しばらく、視線が、その文面を、追った。
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ロイドは、息を、静かに、吐いた。
すべての準備は、整っていた。
(——王太子は、追認する)
ロイドの中で、その確信が、形を取った。
ここまで、観察を続けてきた結論として。
王太子の性格、立場、計算——すべての要素が、追認を、指していた。
追認しないことのリスクの方が、王太子にとっては、大きい。
断罪を仕掛けたのは、レオン。
王太子は、進言していない——その建前は、保たれる。
追認は「聖女の名誉を守る」体裁で、表向きの、リスクは低い。
そして——冤罪の空気が、すでに、完成している。
追認しなければ、聖女を擁立した計画の方が、傷つく。
婚約発表を行った直後の、この場で——聖女を守る姿勢を、見せなければ、ならない。
すべての計算が、王太子を、追認へと、導く。
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王太子が、紙を卓に置いた。
そして、顔を上げ、告げた。
「聖女に対する、このような所業は——看過、できない」
王太子の声が、大理石の壁に、反響した。
追認だった。
冤罪の、追認だった。
ロイドの中で、糸が、一本、確かに、繋がった。
王太子も——共犯に、回った。
自己弁護失敗の、直後の、追認。
空気で、通る。
計算の結果として、王太子が、選んだ、追認だった。
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「私は——」
クレア嬢が、もう一度、口を、開いた。
しかし、その先が、続かなかった。
弁解の言葉が、見つからなかった。
弁護の論理が、組み立てられなかった。
「知らない、と——申し上げたはず、です」
それが、精一杯だった。
周囲の空気が、また、形を取った。
——ああ、やはり。
——彼女、ならば。
——本当に、やったのだ。
声には、出ていなかった。
しかし、視線が、頷きが、わずかな身じろぎが——その共通認識を、物語っていた。
噂で作られた像が、ここで、完璧に、固定された。
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壇上の隅、聖女エミリア・リンデン嬢は、震えていた。
顔は、青ざめていた。
恐怖で、声が、出なかった。
自分が「殺傷の対象者」とされている——しかし、身に、覚えがない。
クレア嬢とは、接点がない。
そんな彼女が、自分を、狙ったとは——どうしても、思えない。
しかし、王太子が、追認した。
その追認に、エミリアは、何も、言えなかった。
ただ、震えるだけが、彼女に、許された反応だった。
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ロイドは、視線を、王の方へと、走らせた。
王の表情は——読めない。
静謐のまま。
しかし、その目の奥には——何かが、宿っているように、感じられた。
怒り、か。
あるいは——判断、か。
まだ、わからなかった。
ただ、その視線は、確かに、壇上の一連の流れを、見ていた。
すべての言葉、すべての所作、すべての沈黙を——王は、見届けていた。
それでも、王は、何も、言わなかった。
まだ、動かなかった。
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壁沿いに戻ったメルは、目を、伏せていた。
涙を、堪えていた。
主人が、何の弁護も、できないまま——「悪役」として、確定されようとしている。
侍女として、傍で、見ていることしか、できない——その無力感を、メルは、深く、味わっていた。
しかし、メルは、知っていた。
ロイドが、何かを、準備していることを。
涙は、まだ、堪えていなければ、ならない。
いざという時に、自分が、動くために。
クレア嬢は、まだ、立っていた。
背筋は、伸びたまま。
しかし、その表情の中に、初めて、わずかな——困惑が、混じった。
何が、起きているのか。
自分は、何を、しでかしたとされているのか。
弁解しようにも、論理が、追いつかない。
そもそも、自分は本当に、何も知らないから。
証拠とされた、その依頼書も、何もかも知らない。
北方辺境伯の長女として、こんな状況は、想定外だった。
ロイドの視線は、最後に、会場の中ほどに、いるはずの、ニックを、探した。
ニックも、こちらを、見ていた。
目の奥には、覚悟が、宿っていた。
頷きは、なかった。
しかし、それで、十分だった。
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ロイドは、壁際の柱の影で、ゆっくりと、視線を、上げた。
(——観察者は、もう、終わりだ)
息を、低く、整えた。
拳の中で、書簡の写しと、観察記録の束の、感触を、確かめた。
準備は、整っている。
ここに、すべての証拠が、ある。
メルも、ニックも、覚悟を、決めている。
一人で、立っているわけでは、ない。
それぞれの場所で、それぞれの目が、同じ盤面を、追っている。
あとは——
(——自分の手で、すべてを、叩きつけるだけだ)
「面倒くさい、な」
ロイドは、低く、呟いた。
いつもの口癖。
しかし、今回は——
覚悟の重みが、その言葉の奥に、確かに、込められていた。
ロイドは、足を、一歩、前に、出した。
壁際から、広間の中央に向かって——
一歩ずつ、確実に、進んだ。
その一歩に、誰も、まだ、気づいていなかった。
しかし、確実に、一人の男が、パーティの片隅から、中心へと、歩き出していた——
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