第26話 悪役の噂
二月の下旬。
学園の空気が、また、別の形に変わっていた。
聖女発表から、数週間。
最初の衝撃のざわめきは、やがて、別の方向、別の人物へと移っていた。
クレア・ブレンハルト辺境伯令嬢。
廊下で、食堂で、講義室で——
生徒たちの囁きが、ロイドの耳に、何度も届いた。
「あの方、聖女様のことを、よく思っていないらしいわよ」
「たとえ聖女であろうとも、子爵家の娘が、王太子殿下のお隣に立つことを、許容なさらないのよ」
「貴族の格を、とても重んじる方だから……」
最初の頃は、ただのそれだけだった。
それが、何日か経つうちに、別の熱を帯び始めていた。
「あの方、聖女様のこと、認めないどころか——排除しようとしているという噂もあるみたいですわ」
「まさか、聖女様に何かを?」
「まさか……とは思いますけど、ホフマン子爵令嬢のこともありますし、あの方なら、やりかねない、と」
ロイドは、講堂の柱の影で、その囁きを、静かに受け止めていた。
クレア・ブレンハルトは、何も変わっていない。
以前と同じ厳格さ、以前と同じ口下手、以前と同じ静謐。
そして、聖女、エミリアとの関わりも、何一つない。
それなのに、ただ、それを取り巻く空気だけが、徐々に、別の熱を帯びていく。
(——噂だけで、冤罪が、成立しかけている)
頭の中にあった、像が、音を立てて、また別の形に組み直されていく、そんな予感がした。
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その日の昼、食堂で、ニックが、ロイドの隣に座った。
「ロイド、聞いたか」
ニックの口調は、いつもよりも、低かった。
「噂のこと、か」
「もう命を狙っているっていう噂まで出てるぞ」
ロイドの動きが、止まった。
「……命を狙っている?」
「ああ。クレア嬢が、辺境伯家お抱えの暗殺者を、聖女様に差し向けようとしているって。誰が言い出したかは、分からない。だが、その噂が、もう、学園の外まで広がってる」
「辺境伯家は暗殺者なんて抱えていない。それに、クレア嬢は、何もしてない。何も言ってない。それは、お前も、俺も、知ってる」
「ああ。知ってる。だが、噂は、本人を見なくても、流れていく。むしろ、本人を知らない人間ほど、勝手なイメージで語る」
ニックの目には、苛立ちと、無力感が、混ざっていた。
「そう、だな。しかし、ここまで進むのか……」
ロイドは、低く、息を吐いた。
頭の中で、これまでの流れが、整理されていく。
物語のように——いや、誰かが意図的に組み立てた物語のように。
お茶会——起。
退学事件——承。
誹謗中傷、殺傷計画の噂——転。
そして——結へと繋がる……
(——時間がない)
ロイドの心の中で、その認識が、形を取った。
残り時間は少ない。
冒険者としての、観察者としての本能が、そう告げていた。
クレアを救うための時間は、確実に、削られていく。
---
その週末、ロイドは、ダグに連絡を取った。
王都の最外層、いつもの酒場で、ダグは、すでに待っていた。
「来たな」
ダグの口調は、いつもよりも、真剣だった。
「クレア嬢の、噂のこと、耳にしている?」
「ああ。どこから出てきたかはわからないが、街にまで広がってきている。クレア嬢の名前を、商人や職人まで知り始めてる」
「そこまで広がっているのか」
「噂って、そういうもんだ。一度、火がつくと、止まらない」
ロイドは、卓の上に、両手を組んだ。
「シュタイナー家の内側を、もっと、深く探る必要がある」
「シュタイナー家?」
「ああ。聖女が発表される前までの噂はレオンとその妹のソフィアがコントロールしていた、そう推測している。だから、今回の噂も二人が絡んでいる可能性が高い。が、今回は学園の中だけではなく、外にも広がっている。これは二人だけではなく、シュタイナー家も絡んでいると見るべきだろう」
「なるほどな。で、内側と」
「シュタイナー家の、書簡のやり取り、どんな客が訪問したか、訪問の頻度、家の人間の動き——」
「ふむ……」
ダグは、しばらく、考えた。
帳面を開き、何かを、確認するように、頁を、めくった。
そして、低く、言った。
「実は——シュタイナー家に、知り合いがいる」
ロイドの目が、ダグを、見た。
「知り合い?」
「幼馴染のリタという娘だ。同じ村の出で、十三、四の頃に、村を出た。それから、数年、会っていなかった。だが、最近、連絡がきてな。シュタイナー家で働いている、と」
「リタ嬢は、シュタイナー家で、何を?」
「ハウスキーパーだ。シュタイナー伯爵家の本宅で、働いてる」
「ハウスキーパーなら、家の内側が、見える立場か」
「ああ。掃除、洗濯、食事の準備——使用人の中でも、家の中の動きを、最も近くで見られる位置だ。誰が訪ねてきたか、どの部屋でどんな話が交わされていたか——目と耳が、自然と届く」
ロイドの中で、糸が、また一本、繋がった。
(——シュタイナー家の内側に、目が、ある)
「依頼、できるか?」
「俺を介してなら、できる」
「なら、頼む。内部の動きを、外から見て分かる範囲で、知らせてくれればいい」
「了解だ。リタに、頼んでみる」
ダグは、帳面を閉じた。
「あと、ロイド——」
「なんだ?」
「気をつけろよ」
ダグの目には、いつもの軽さの奥に、別の色が、確かに、宿っていた。
「分かってる」
ロイドは、低く、答えた。
クレアを救うための調査が、ここから先、複数の人間の手を必要とする段階に入る。
学園の中での観察だけでは、もう、本丸には届かない。
シュタイナー家の内側に、目を持つ——それが、次の段階だった。
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一週間後、ダグから、次の手紙が、届いた。
いつものように、短い。
待ち合わせ場所と、次の休日の時刻。
その日の酒場で、ダグは、低く、口を開いた。
「リタからの、最初の報告だ」
「聞こう」
「シュタイナー家の本宅と、レオンの間で、書簡のやり取りが、頻繁にある。週に、二、三度——時には、毎日のように、使いが行き来している」
「内容は?」
「分からない。封蝋付きだし、リタの位置からじゃ、中身までは見えない。ただ——」
ダグは、頁を、押さえた。
「量が、異常だ。普通の貴族家の、当主と次期当主の連絡にしては、多すぎる。何か、進行中の案件がある——そう、見える」
ロイドは、頷いた。
レオンと実家の、密な書簡のやり取り。
それが何を意味するのか——まだ、見えない。
ただし、何か、大きなことが、進んでいる。
「書簡の中身が、わかれば……」
ロイドは、低く、呟いた。
それが鍵だ——その確信が、心の中で、形を取った。
「リタに、もう少し、深く頼めるか?」
「無理は、させない。だが、書簡の存在と、宛先、量——そのくらいなら、追えるはずだ」
「頼む」
ロイドは、頷いた。
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酒場を出たロイドは、王都の街並みを、ゆっくりと歩いた。
冬の終わりの風が、最外層の路地を、低く吹き抜けていった。
足元の石畳には、わずかに、春の気配が、混じり始めていた。
学園の外の噂はヴィクトル様が対処してくれるだろう。
だが、学園内の噂は、もう、止められない。
(——書簡の中身が、わかれば)
「面倒くさいな」
ロイドは、低く呟いた。
いつもの口癖。
しかし、今回は——
いくつもの手が、自分と並んで動いている実感を、含んでいた。
ヴィクトル様が、王都で動く。
ダグが、リタへの接触を担う。
リタが、シュタイナー家の内側を、見続ける。
自分は、学園内で、クレアを見続ける。
それぞれの場所で、それぞれの目が、同じ盤面を、追っている。
ロイドは、学園へと、足を向けた。
学園の中での観察を、続ける。
外側からの情報を、待つ。
それぞれの目で、それぞれの場所で——
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