第25話 小ブレンハルト辺境伯
ロイドの寮に、二通の書状が、使用人の手で届けられた。
届け人は、ブレンハルト辺境伯家のお仕着せを着た、そういえば見たことはある程度の若い男だった。
寮の管理人を介して、ロイド本人への手渡しが指示されていたらしい。
使用人は、封書をロイドに渡し、一礼して立ち去った。
淡々とした所作の中に、辺境伯家の使用人としての訓練が、滲んでいた。
一通目は、ハンスからの書状だった。
『ロイド・ハイデン殿。
ヴィクトル様が、王都にお着きになりました。
タウンハウスにて、明日、お時間をお取りになります。
ブレンハルト辺境伯家執事ハンス・ベルク』
もう一通は、取次状だった。
封蝋には、ブレンハルト辺境伯家の紋章が、刻まれていた。
この一枚の紙片が、上位貴族の回層への扉を開く。
観察者として学園に入った冒険者が、上位貴族の区画に踏み入る——その一歩が、すぐそこまで来ていた。
ロイドは、両方の封書を、丁寧に、内ポケットにしまった。
ヴィクトル様が、王都に来た。
小ブレンハルト辺境伯として、王都の盤面に、足を踏み入れた。
相手側の駒が動き始めた今、こちら側の駒も、動き出す。
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翌日。
ロイドは、学生服の上に、いつもより少しきちんとした上着を羽織って、寮を出た。
学園のある回層から、上位貴族のタウンハウスが並ぶ回層へと向かう道は、これまで一度も歩いたことのない経路だった。
通行人の身なりが、層を一つ越えるごとに、目に見えて変わっていく。
城門の警備が、ロイドの取次状を確認した。
「ロイド・ハイデン様、お待たせいたしました。確認が取れましたので、どうぞお通りください」
城門を抜けた先の空気は、これまでと違っていた。
貴族の回層の街並みは、ロイドが王都でこれまでに訪れた、どの区画とは、まるで違っていた。
石畳は磨かれ、街路樹は整えられ、貴族家の紋章が、各門の上に静かに掲げられていた。
慌ただしさのない、整えられた静謐。
貴族の家門が並ぶ区画特有の、独特の空気がそこにはあった。
ロイドの足取りは、変わらなかった。
冒険者として、観察者として、ここまで来た。
ここで気後れしても、何も変わらない。
ただ、自分のすべきことをする、それだけだ。
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タウンハウスの応接間に通された時、ロイドは、辺境伯家の王都での顔を、肌で感じた。
厚い絨毯。
重厚な調度。
壁には、北部の風景画が、静かに飾られていた。
空気の温度すら、外とは違っていた。
学園の質素な寮とも、王都の街並みとも、別の世界だった。
冒険者として生きてきたロイドにとっては、足を踏み入れる種類の場所ですらなかった。
ここが、ヴィクトル様の——王都での拠点。
学園外の裏の戦いが、ここから始まる。
ヴィクトルは、応接卓の向こうに、すでに座っていた。
学園で迎えた時の、身軽な出張用の装いではなく、辺境伯家の次期当主としての、整った姿。
その変化が、事態の重さを、無言で語っていた。
ハンスが、ロイドを部屋に通し、自身は卓の脇に控えた。
定期連絡の時とは、立ち位置が、少し違う。
執事として、面会の記録を取る立場に、自然に切り替わっていた。
ヴィクトル様の前に座るのは、学園で来訪された日以来の、二度目の機会だった。
あの時よりも、事態は、はるかに、深い場所まで来ている。
「待たせたな、ロイド」
ヴィクトルの口調は、いつもの、シスコン口調だった。
しかし——
その目の奥には、別の色が、確かに、宿っていた。
政治家としてのヴィクトル様の顔が、シスコンの仮面の下から、わずかに、覗いている。
学園での定期連絡や、ハンスを介した文書のやり取りでは、ここまで見えなかった面。
「ヴィクトル様、ご無沙汰しております」
ロイドは、頭を下げた。
そして、座って、すぐに、本題に入った。
「さて、時間を無駄にしたくない。早速、本題に入ろうか」
「はい。これまでの報告を、まとめて、お伝えします」
「聞こう」
ヴィクトルの目は、シスコン口調の奥で、確かに、研ぎ澄まされていた。
政治家としてのヴィクトル様の顔。
ロイドは、その目を、正面から受け止めた。
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ロイドは、順序立てて、伝えた。
ナディア・グリューネン嬢の祖母とマルグリット王妃の同郷の縁。
ノルドライヒ帝国を経由する、レオン・フェルス・シュタイナー、グリューネン家、王妃、王太子の繋がり。
シュタイナー伯爵家の執事ギルバート・キルヒと教会の繋がり。
王太子の教会通いと、王太子の執事ヨハン・トロイと教会の繋がり。
そして——エミリア・リンデン嬢の聖女認定。
最後に、ロイドは、ルーシーが入手した日記の写しを、卓の上に置いた。
「エミリア嬢自身は、聖女になることを、望んでいません。彼女自身が、王太子殿下たちの計画の被害者です」
ヴィクトルは、頁をめくり、静かに、読んだ。
読み終えるまでに、しばらく、時間がかかった。
そして、長く、息を吐いた。
「……ご苦労だった、ロイド」
その声は、シスコン口調の、奥の方から、出ていた。
「さて、今後の方針であるが、お前は引き続き妹の護衛を続けろ。それ以外に行っている活動も、続けてくれ」
「はい、わかりましたが、それだけでよいのですか?」
「それだけではない……私のほうでも、動く」
「具体的には?」
「お前は、知らなくていい」
「……承知しました」
「お前が知れば、お前はそれを念頭に動いてしまうだろう。それだと余計な目を向けられてしまうからな」
「お気遣い、痛み入ります」
ヴィクトルの言葉には、依頼主としての配慮が、含まれていた。
上位貴族の、政治の動きを知る必要は、自分にはない。
役割を分けることが、互いにとって安全だ——その判断を、ヴィクトル様は、すでにしていた。
ヴィクトルの口元が、わずかに、動いた。
いつものシスコン笑顔ではない、別の何か。
「ただ、一つだけ言える。聖女を巡る動きは、王太子と教会の合意で進められている。お前の調査で、その輪郭が見えた。これを王家に届けるのは——私の領分だ」
ヴィクトルの言葉は、短く、しかし重かった。
ロイドは、自分の調査が、ここから先、別の手で扱われることを理解した。
その先は、ヴィクトル様の手で、王家まで届けられる。
「ありがとうございます」
「気にするな。ただし、クレアを——頼む」
その「頼む」には、いつものシスコン口調にはない、本物の重みが、含まれていた。
「分かりました」
ヴィクトルは、わずかに、頷いた。
その目には、シスコン口調の奥の、政治家の顔が、確かに、残っていた。
ロイドは、頷いた。
学園内の戦いは、自分の領分だ。
学園外の戦いは——ヴィクトル様が、ここからは引き受ける。
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タウンハウスを出たロイドは、街並みを、ゆっくりと歩いた。
石畳の上を、冬の風が、低く吹き抜けていった。
懐の中には、報告を終えた後の、独特の手応えだけが残っていた。
冒険者として、最も大きな依頼を、依頼主に届けた直後の——あの感覚に、近い。
聖女を、教会と王太子が発表し、駒が一斉に動き出した。
しかし——ヴィクトル様が、王都に来た。
学園外の戦いに、本物の手駒が、今、加わった。
学園内のロイドと、学園外のヴィクトル様。
二つの戦いが、ようやく、合流する。
「面倒くさいな」
ロイドは、低く呟いた。
いつもの口癖。
しかし、今回は——
肩の上の重さが、わずかに、軽くなった気配を、含んでいた。
観察者から、調査者へ。
調査者から——ヴィクトル様と共に、盤面を動かす者へ。
そして、最後の一手まで——あきらめない者へ。
クレアの周りに広がっていた小さな違和感から始まった糸が、ここまで来た。
引き返す理由は、もう、どこにもない。
学園に戻る、次の観察の場へ。
学園内の戦いは、まだ、ここから。
春が、まだ遠い空の向こうにある。
しかし、その春に、すべての糸が集まる予感が、確かに、あった。
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