第15話 狙いを定める
秋が、本格的に深まっていた。
並木道はすっかり葉を落とし、寒風が校舎の角を抜けていく。
学園の朝は、息がうっすらと白くなるほどに澄んでいた。
しかし——
その澄んだ空気の中で、クレアを取り巻く空気だけは、別物だった。
北部貴族の卓は、相変わらず三人。
クレア、ナディア、ソフィア。
メルが、いつものように主の背後に控えている。
しかし——卓全体が、まるで一つの島のように、食堂の中で更に深く孤立していた。
周囲の生徒たちは、目を合わせない。
近寄らない。
以前は遠巻きに観察していた者たちも、もう、視線さえ向けない。
誰もが、見ない。
見ない方が、楽だからだ。
巻き込まれない方が、安全だからだ。
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その日の午後、ロイドはニックと並んで中央棟の二階廊下を歩いていた。
午後の授業の合間。
廊下の片隅で、見慣れない光景が、視界に入った。
メルが、一人で歩いていた。
主のクレアの後ろに付き添っているのではなく、メルが単独で歩いていた。
それは、書庫から書物を運んでいる、侍女の仕事の途中だった。
その先で——
侍女コースの学生が、メルとすれ違いざまに、目を逸らした。
露骨な視線回避。
すれ違った直後、彼女たちがささやき合うのが、見えた。
「あれが、あの令嬢の侍女よ」
「いつまで、お仕えしているのかしら」
「あの令嬢の侍女なんて最悪の仕え先なのに、よく辞めないわよね」
「あの侍女もあの令嬢と同じなのよ、きっと」
「主従揃って、お似合いと言えばお似合いかしら」
声は、メルに届く大きさだった。
そう、メルに届くように、わざと声を上げていた。
メルの肩が、わずかに、強張った。
しかし、足取りは変えない。
書物を抱えたまま、廊下の角を曲がり、消えていった。
ロイドの隣で、ニックが、低く呟いた。
「……あの侍女、まだ持ちこたえてるな」
「だな」
「主が悪役なら、付き人も悪役。そういう空気だ」
「メル嬢、いつまで保つかな」
「持ちこたえる気だろう」
「分かるのか」
「あの肩の強張り方だ。耐え方を知ってる」
ロイドは、低く答えた。
メルの肩の付け根は、わずかに固まっていた。
それは——折れる人間の固まり方ではない。
持ち堪える人間の、覚悟の硬さだった。
「お前——観察、深いな」
ニックが、横目でロイドを見た。
「冒険者の癖だ」
「冒険者の癖、で侍女の肩の固まり方まで分かるのか」
「動物の気配を読むのと、人間の気配を読むのは——遠いようで意外と近い」
「……そういうもんか」
「そういうもんだ」
ロイドの誤魔化しにも似た回答に、ニックは、それ以上は問わなかった。
ロイドは、再びメルの方を見た。
(——ここまで、来たか)
心の中で、低く呟いた。
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その夜。
ロイドは自室で、観察記録を開いていた。
二冊目の終盤。
手帳のページが、もう数ページしか残っていない。
ロイドは、過去の記録を、最初から辿り直した。
一冊目の最初——入学直後のクレア。
完璧な姿勢、丁寧な作法、北部貴族の中での自然な振る舞い。
朝の通学路ではメルと短く打ち合わせをし、昼食の卓では同派閥の上級生に礼を尽くす。
厳格だが、隙のない、北方辺境伯の長女としての品格。
一冊目の中盤——茶会以降のクレア。
ヘルガ・ホフマンに対する正当な反撃、変わらない作法。
ホフマン家の嘲笑に「家格の順序は陛下が定められた秩序」と返した、揺るぎない目。
反撃の鋭さに、周囲が初めて違和感を覚え始めた頃。
二冊目——孤立期のクレア。
完璧な姿勢、変わらない作法、目の奥の翳り。
北部貴族の卓が日に日に空いていく中で、それでも背筋を伸ばして食事を取り続けた姿。
誰一人として、彼女を励ます者はいなかった。
そして、現在——
完璧な姿勢、変わらない作法、翳りは、更に深い。
廊下で挑発を受けても「ご機嫌よう」とだけ返し、通り過ぎる。
反論しない選択は、もはや何の意味も持っていなかった。
「悪役」のレッテルは、すでに揺るぎなかった。
(——変わっていない)
ロイドは、確信を込めて呟いた。
クレアは、入学以来、何一つ変わっていない。
変わったのは、すべて、彼女を取り巻く側だった。
(変わっていない人間が、変わったように見える)
(それは、見ている側が、変えられたということだ)
(誰かが、印象を、空気を変えている)
ロイドは、ペンを止めた。
手帳のページを、ゆっくりと閉じる。
数ヶ月分の記録の重みが、手の中にあった。
(——誰かが、これを計画して行なっている)
その「誰か」を、突き止める。
そのために、今夜——調査の対象を、絞り込む。
---
ロイドは、新しいページを開いた。
森の獣の比喩を、思い出した。
獣は変わらない。
獣の足跡が変わったなら、変わったのは森の方だ。
森の方を見るのが、観察者の仕事だった。
これまでの観察で、森の中の異質な動きが、一つだけ、浮かび上がっていた。
ソフィアの接近と、その直後の悪評拡散。
パターンは、もはや偶然では説明がつかない。
ただし——ソフィア本人の工作行為そのものは、目撃していない。
近づく、話す、笑う、去る——
目撃された動きは、いずれも「友好的な義妹」として完璧に成立する。
しかし、その完璧さこそが、不自然だった。
善意の接触なら、たまには空回りもする。
たまには、噂を生まずに終わる接触もあるはずだ。
なのに、ソフィアの場合は、ほぼすべての接触の直後に、何かが悪化する。
偶然なら、起こらない確率の方が大きい。
計画なら、こうも完璧に再現できる。
(——狙うなら、ソフィアからだ)
ロイドは、心の中で、決断した。
数ヶ月の観察が、ようやく一つの方向に結ばれた瞬間だった。
退学事件の夜に「動こう」と決めた。
あれは、抽象的な決意だった。
翌週、動けない焦りに苛まれた。
その次の数日で、方向の輪郭を掴んだ。
そして、今——
具体的な、獲物が、定まった。
森の中で罠の仕掛け人を絞り込んだ瞬間と、同じ手応えだった。
ただし、今夜の獲物は——人間だ。
動物の罠とは違う、踏み込みの覚悟が要る。
家門の思惑、人の仮面、見えない悪意の網——
ロイドは、新しいページに書き込んだ。
『調査の決断:
調査対象: ソフィア・シュタイナー
調査範囲: 学園内(接触相手、行動パターン、接触時間と位置)
目標: 「友好的な義妹」の影の正体を、痕跡から追う』
ペンを置いた。
冒険者の目が、はっきりと変わった。
観察者の目から、獲物を追う目へ。
森の中で、踏み跡を探す瞬間の、あの集中。
---
ロイドは、椅子の背に体重を預けた。
天井のランプの揺らぎを、見上げる。
「面倒くさいな」
いつもの口癖。
しかし、続く言葉が、いつもと違った。
「でも——見て見ぬフリは、もっと面倒くさい」
声に出した瞬間、心の奥で、何かが、固まった。
動き出す覚悟が、具体的な行動の輪郭を持った。
あのシスコンからの依頼の枠を、自分の意思で踏み越える。
観察者の役割の外に、足を出す。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、見て見ぬフリができないというだけの理由で。
義理堅い、と父によく言われた。
巻き込まれると投げ出せない、と兄たちにもよく揶揄われた。
今夜の決断は、その性格の延長線上にあった。
冒険者として、目の前の罠を放置できないだけ。
ただ、それだけのことだった。
ロイドの目が、変わった。
退学事件の夜の、動けない焦りの目から。
数日前の、方向を掴んだ目から。
そして——獲物を追う眼差しへ。
森の中で、痕跡を追う冒険者の目だった。
窓の外で、晩秋の風が、ひときわ強く吹いた。
雪が、並木道に薄く積もり始めていた。
ロイドは、手帳を閉じた。
手の中に——明日からの、具体的な狩りの計画が、握られていた。
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