第13話 動き出せない朝
「表情は同じだ。背筋も伸びている。作法も完璧だ。でも、目だけが——奥に、翳りを宿していた」
―― 悪役令嬢の転落
季節は、初秋へと差し掛かっていた。
並木道の葉に、黄色や赤が混じり始めていた。
朝の空気には、涼やかな冷たさが乗り始めている。
学園そのものは、何一つ変わっていない。
時間割も、教官も、寮の鐘の音も、全部、いつも通りだった。
変わったのは——その中の、一点だけ。
クレア・ブレンハルトを取り巻く空気だけが、決定的に、別物になっていた。
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武官コースの教室。
ロイドは、机に着いたまま、視線を窓の外に向けていた。
訓練場の石畳が、目に映っている。
しかし、頭の中で追っているのは——別の景色だった。
「ロイド、教科書」
「ああ」
ニックの呼びかけで、ロイドは机に視線を戻した。
午前の授業の始まりを告げる鐘が鳴り、生徒たちが姿勢を正す。
ヴィーゼ教諭の事務的な声が響いた。
ニックが、小声で囁いた。
「お前、また考え事か」
「ああ、ちょっとな」
ニックは何か言いたげに口を開きかけ、止めた。
代わりに、肩をすくめてみせた。
その表情には、いつもの軽口とは違う、わずかに沈んだ色があった。
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昼休み。
食堂の北部貴族の卓を、ロイドは離れた席から眺めていた。
卓は、ほとんど空席だった。
入学直後の茶会の頃には、学年を越えて十数名が集まっていた席。
半分以下になった、と思ったのは、つい先月のことだ。
今は——三人。
クレア。
その隣にナディア・グリューネン。
そして卓の端に、ソフィア・シュタイナー。
クレアの背後にメルが控えている。
他に北部貴族の生徒は、誰もいない。
数人は別の派閥の隅に居場所を見つけたらしく、数人は食堂自体に姿を見せなくなっていた。
ナディアが、明るい声でクレアに何かを話しかけている。
クレアが静かに頷き、短く返答する。
ソフィアが、控えめな笑顔で会話に加わる。
ナディアもソフィアも、表面上は変わらず友好的だった。
しかし、その三人を遠巻きに見る他の生徒たちの目には、明確な距離があった。
近寄ろうとしない。
通りかかるときは、視線を逸らす。
女子学生の一団が、わざわざ卓の前を遠回りして避けていった。
(誰も、近づかない)
ロイドは、心の中で呟いた。
近寄れば、自分も「あちら側」だと見なされる。
そんな空気が、食堂全体に広がっていた。
メルが、わずかに俯き、唇を強く噛んだ。
侍女としてできることは、すべてやっている。
朝の身支度、教室への同行、食事の世話。
しかし——主の周りから人が消えていくのを、止める手立てがない。
ロイドの席から、メルの表情は痛いほどよく見えていた。
ふと、ロイドは食堂の別の卓に視線を移した。
王太子グループの一角に、レオン・フェルス・シュタイナーがいた。
いつも通り、側近として落ち着いた様子で座っている。
婚約者の卓へは、視線すら向けない。
(庇わないどころか——見ない、か)
ロイドは、低く息を吐いた。
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夕食を終えた後の、共有談話室。
ロイドとニックは、いつものお茶を前にしていた。
窓の外で、秋風が並木道を揺らしている。
ランプの光だけが、二人の卓を照らしていた。
そんな中、ニックが、視線を落とした。
「もう誰も、クレア嬢に近づこうとしないな」
「だな」
「皆、怖がってる」
ニックは、茶を一口含んでから、続けた。
「『あの令嬢が不快に思ったら、自分も何かをされてしまう』——そう思ってる、誰もが」
「……だろうな」
ニックの声には、嘘がなかった。
悪意でもない。
ただ、感じたままを話していた。
「……お前は、どうなんだ?」
ニックが、顔を上げてロイドを見た。
「クレア嬢、何か変わったか」
ロイドは、頭の中で記録を辿った。
数ヶ月前のクレアと、今日のクレア。
そして、答えた。
「変わってない」
「変わってない?」
「前から、何一つ、変わっていない」
そう、行動パターンも、応対も、姿勢も、ほとんど同じだった。
「ただ——」
「ただ?」
「目の奥の、光だけが、少し落ちた」
ロイドが、低い声で続けた。
「表情は同じだ。背筋も伸びている。作法も完璧だ。でも、目だけが——奥に、翳りを宿していた」
ニックは、しばらく無言でロイドの言葉を聞いていた。
やがて、深く息を吐いた。
「そりゃ、そうだろうな。普通の人間なら、もう、潰れてるよ……」
「クレア嬢は、普通じゃない、と?」
「いやいや違う!普通じゃない強さがある、って意味だ」
ニックは、首を振った。
「でも——それがいつまで保つかは、別の話だ」
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ニックと別れ自室に戻ったロイドは、観察記録の整理を始めた。
二冊目の手帳の、新しいページ。
ペンが、淡々と動く。
『観察期間: 五ヶ月半。
観察結果:
クレア・ブレンハルトの行動パターンに変化なし。
ただし目に消耗の兆候あり。
北部貴族派閥は事実上崩壊、残るはナディア・グリューネンのみ。
ソフィア・シュタイナーは継続して接近。
メル・ヴォルフは主の支えに尽力するも侍女の立場での限界。
レオン・フェルス・シュタイナーは婚約者の卓に視線すら向けない。
所見:
「悪役」のレッテルが学園全体に定着。
誰一人として、クレア・ブレンハルトに近づかない』
ペンが、止まった。
ロイドは、しばらく紙面を見つめた。
(——で、俺は、何をすべきだ?)
心の中で、呟いた。
退学事件の夜、決めた。
観察者から、冒険者へ。
自分の意志で、踏み込むと決めた。
しかし——
(決めただけだ)
ロイドは、自嘲気味に小さく息を吐いた。
動こうと決めた。
だが、何をすればよいかが、わからない。
手帳には事実が積み重なっていく。
それだけだ。
観察を続けても、状況は何も変わらない。
むしろ悪化の速度は増している。
ロイドは、椅子の背に体重を預けた。
天井のランプの揺らぎを、ぼんやりと見上げる。
(森で、罠を見つけたとき)
冒険者の頭が、過去の記憶を呼び出した。
森の中で罠の気配を感じたとき、まずやることは決まっている。
罠の、輪郭を、掴む。
どこに、何のために、誰が仕掛けたのか。
全体像が見えなければ、迂回も解除もできない。
闇雲に動けば、自分が引っかかる。
今の自分は——
罠の気配は、感じている。
誰かが、クレアを「悪役」に仕立てている。
その確信は、もう揺るがない。
しかし、罠の輪郭が、見えない。
誰が、どこから、何のために。
すべてが、霧の向こうだった。
(観察者の目では、足りないのか)
ロイドは、低く呟いた。
観察者の目は、事実を積み重ねる目だ。
冒険者の目は、痕跡から獲物を追う目だ。
目を変えたつもりだった。
しかし——
目を変えても、見えるものが同じなら、それは目の問題ではない。
観察の対象が、まだ、足りていないのだ。
クレアの周辺だけを見ていても、罠の仕掛け人は見つからない。
森全体を、見渡す必要がある。
誰かが「森を変えた」と気づいた瞬間、本能はそう告げていたはずだった。
しかし、いざ動こうとした自分は、まだ「森の中」だけを見ていた。
---
ロイドは、ペンを取り直した。
手帳に、追記する。
『追記:
観察対象を、クレア・ブレンハルトのみから、その「周辺」へ広げる必要あり。
誰が、何の理由で、彼女を「悪役」に仕立てているのか。
罠の輪郭を、掴む』
ペンを置いた。
「……動けない、というのとは、違うな」
ロイドは、独り言を呟いた。
「森がどこまでなのかが、まだ、分からない、ただそれだけだ」
心の中で、自分に言い聞かせた。
冒険者なら、痕跡を追う。
追える痕跡を、見つけ出せばいい。
しかし、それが——どこから始まるかが、わからない。
ナディアの、明るすぎる笑顔か。
ソフィアの、控えめな接近か。
レオンの、視線すら向けない距離感か。
あるいは、誰も気づかない、別のどこかか。
「……面倒くさい」
ロイドは、低く呟いた。
いつもの口癖。
しかし、今回は、軽い愚痴ではなかった。
決意の重みを、抱えた呟きでもなかった。
ただ——焦りだった。
動こうと決めたのに、動き出せない自分への、苛立ち。
窓の外で、秋の風が、ひときわ強く並木道を揺らした。
葉を落とした枝が、寒空に細い影を刻んでいる。
ロイドは、手帳を閉じた。
しかし、思いは——閉じなかった。
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