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 悪夢というのに前置きは無い。

 “奴”と同じく突如姿を現し、俺を何度も苦しめる。



 風が頬を優しくかすめて消えた。

 木々が枝を鳴らす音が騒がしい。

 頭を回すと、枯葉を散らせながら、多くの木が両脇に延々と視界の外まで並んでいる。それに沿って、真っ直ぐな林道が何処までも続いていた。

 空は鉛のように重々しく濁っていた。天の全てを覆っている雲の間から、僅かに月が見え隠れしていた。

 地面に降り積もる枯葉が乾いた音を立てながら、風に吹かれて飛んでいった。

 ポツンと所在なげに佇む俺から、数メートル離れた処、正面に“彼女”は居た。

 上着のポケットから煙草とライターを取り出し、口に一本くわえた。火を点けて一息吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。

 煙草をくわえたままで“彼女”を見つめた。

 その時、強風が横から俺を殴りつけた。

 それを合図に、押し黙っていた“彼女”が口を開いた。

 今まで聞いた事がない厳しい口調だった。

「射月さん!」

 タバコの先から灰が落ちた。

 いきなりの厳しい展開に困惑する気持ちを表現できずに、俺は暴れ出しそうだった。

 実際、激しく地面を蹴っていた。

 “彼女”が勢い良く抱きついてきた。

 風がさっきより強くなったようだ。地面すれすれを枯葉が激しく舞っている。

 俺の腕の中で“彼女”は激しく震えていた。

 遥か頭上に浮かぶ雲が、凄まじい速さで流れていき、遠くで雷鳴が轟くのが聞こえた。

「何を言いたいの?」

「……まるで悪魔に魅入られるみたいに、強引に一方的に疎欄されて、精神が犯されてしまうんです。そして“奴”に魅入られた人は、自分の欲望を抑制出来ずに人を襲ったり、傷つけてしまうんです」

「悪魔? 悪魔ってなんだよ」

 空から走り降った閃光が、傍の大木に命中した。想像していたものより、それほど大きな音は聞こえなかった。

 今、目の前に庁んでいるのは、“彼女”の姿をしていたが“彼女”ではなかった。

 見た目ではない。直感が異形な存在と訴えていた。

 さらに“彼女”の瞳には、“翳り”が浮かんでいた。それは人のようであり、人の目では無かった。

「……お前は、誰だ?」

 理解できない存在。心底から恐怖する存在。常識外の存在。どれも日常には無い存在だった。

 太陽が昇り、地平線に沈んでいく。そして、また昇り、やがて世界を光の無い世界へと変貌させた。

 白と黒。

 二色だけが際立ち、コントラストが視界を幻惑する。

 めくるめく光の奔流は、自分の存在を危うくさせた。

 “奴”が邪悪で異形の笑みを浮かべた。

『あなたを愛しているわ』

 頭がクラクラとした。

『あなたは間違っているわ』

 右腕を突き出して、俺の相棒を“引き寄せ”たが、そこに信頼すべき銃は存在しなかった。

『私はいつも、あなたを助けたのよ』

 愕然としながらも俺は懸命に“奴”を睨みつけた。もう、そうするしか抗う術がなかった。

 追ってくる“奴”の左手で、何かが銀色の光を放った。それは伊東の、銀色に輝く銃だった。その銃口が向けられた。

 闇の中から死神が顔を出し、血を滴らせながら唇を曲げている。

『どうして私の言うことを聞いてくれなかったの? ね?』

 殺される。

 狩りをしている筈の俺が狩られている。

『あなたは間違ってるわ。私の話を聞いて』

 漆黒の粘液が俺を包み込んでいく。

 目の前に庁んでいる女が涙を流していた。とても哀しさに満ちた涙だ。

 吹きすさぶ風の音に紛れて、枝が擦れ合う音が聞こえる。

 激しい雷鳴で世界が壊れそうな位に振動して、空には無数のヒビが、辺り構わず走った。

 女は泣いていた。

 愛を訴えて泣いているように見えた。

 俺には、どうすることも出来なかつた。



 俺は右手を素早くシーツから出すと、電光石火の早業で正面を狙って、ベッドから上半身を起こした。

 目の前の壁に右手を向けたところで、俺の身体は硬直して止まった。汗でビッショリと全身が濡れていた。黙って真っ白い壁を睨みつけながら、荒い呼吸を繰り返した。

 差し出した右手に銃は無かった。

「う、ううん……」

 不意にすぐ隣りから女の声が聞こえた。

 寝返りをうったらしい由宇の、丸まった背中が見えた。

 何もない右手へ視線を移して、自己嫌悪のため息をついた。

 普段は、銃をベッドの下、バッグの中に入れていた。しかし昨夜は、今日が休みだったのと俺の様子を心配した彼女が泊まりに来たので、僕てて別の場所に隠したのを思い出した。

 ベッドの傍らにある時計の表示は、午前三時二十分を示していた。

 つまらない夢を見たと思った。

「はあっ」

 もう一度大きく息を吐き出し、俺はベッドに倒れ込んだ。

 部屋の温度を保つクーラーの音に紛れて、微かな由宇の寝息が聞こえていた。

 月光が、薄い生地のカーテンを通して、寝室を情緒たっぷりな空間へと変えていた。

 その差し込んだ光に照らされ、由宇の裸身はさらに妖しさを増していた。晒された背中のラインは、見事な曲線を描きながら腰へ流れていた。

「……由宇」

 返事がある訳もない。

 彼女の背中に、そっと指を滑らせる。心地良い感触とフィットしてくる肌の魅力に、俺は何度も指を動かした。

「……うん」

 くすぐったかったらしく、由宇は俺の方へ体の向きを変えた。そんなに大きくはないが、形の良い乳房が目の前で小さく揺れた。

 俺はその膨らみの先を指で触った。

「ううん……もう」

 彼女が目を覚ました。

「あ、起きた? ごめん」

「だって、バタンバタンしてるんだもん」

「いや、別にバタバタなんてしてないよ」

 由宇は、まだ寝ぼけているようだ。

「もう、寝る」

「はいはい」

 そして由宇は、俺の両脇に自分の両腕を回して抱きついてきた。俺の胸に押し付けられる、彼女の胸の感触が心地良かった。

「抱いて」

「はいはい」

 せがまれるまま俺は、彼女を抱き締めた。

 すぐに由宇の寝息が聞こえてきた。

 彼女は、どんな夢を見ているのだろうか。

 願うなら、せめて俺のような哀しい夢は見て欲しくなかった。

 すると、由宇は穏やかに微笑した。

 それを見て、俺は安心できた。

 今度は良い夢が見れそうだ。



 日曜日の公園は、遊びまわる子供たちの声で溢れていた。

 俺はベンチに座って、時々高く噴き上がる噴水をボンヤリと眺めていた。

 この街の中には、こういった緑あふれる公園が、至るところに作られている。各企業が有するビルの屋上さえ、必ずといっていいほど、小さな植物園が作られていた。

 それも街作りのコンセプトに盛り込まれていた項目である。

 人しか住まない筈の街で自然を重要視するなど、最初に聞いた時、俺は会議中に苦笑してしまい社長に注意されてしまった。

 自然を傍に見ながら、自然を住み良いように変えたくせに、人間は人工的なものでも、どこかに自然を求めてしまう。

 芸術と大衆娯楽の融合を目指すのと一緒だ。

 そんな批判を持ちつつも、行く所が無いと、こうしてマンション近くの公園に足を運んでいた。

 公園内は想像していたより多くの人がくつろいでいた。

 ジョギングにいそしんでいる中年。おそらくは孫の相手をしている老人。仲睦まじく盛り上がっているカップル。ヒソヒソ話をしている主婦たち。

 様々な人々が、それぞれ色々な時を過ごしている。

 透けた蒼空も合わせて、あまりにもありふれた、日常過ぎる日常の光景だった。

 ニュースに見入りながら朝食を食べている俺に、急に由宇が公園にでも行こう、と誘ってきた。それで俺たちは、連れ立って昼から広い公園をぶらぶらと歩いた。

 注目していたニュースは、会社での秘書殺害に関してだった。

 事件は、犯人につながる証拠が見つからず、警察は手こずっていると報道されていた。銃による殺害なのだが、該当するモノが見つからず、その手口から、何らかの依頼を受けたプロの仕業なのではないかと推測されているとも、リポーターは伝えていた。そのため警察は、被害者の交友関係から、何かの事件に巻き込まれた方向で重点的に捜査を進めているらしい。

 これで俺のところにくる可能性は低いと見てよかった。会社でも、事情聴取みたいなものを受けた社員もいたようだが、死んだ秘書と無関係の俺は無視された。

 由宇が噴き上がる噴水を見て喜んで、俺に微笑んでいた。

 今日は例年に比べて気温も高いそうで、昼間は薄い上着で良かつた。

 あまり身体に角担をかけないように、ダラリと座っていた。

 病院で参てもらっているが、まだ傷の方は時々痛んだ。別に動けない訳ではないが、好んでするほどに激しい動きはまだ無理だった。

 痛み止めと抗生物質を常用してるとはいえ、それでも基本的には普通の生活をする分には、何の支障もないところまで回復してはいた。

「ねえ、けっこう気持ちいいよ」

 ふんわりとしたワンピースの裾がまくれ上がると、由宇の適度な肉付きの魅力的な足が見え隠れした。

 昼の世界を照らす太陽以上に、彼女の笑顔は眩しかった。

 俺がベンチから立たないでいると、由宇が駆け寄って来た。

「ねえ、そうやってると、おじいちゃんみたいだよ、シズカちゃん」

「外でその呼び方は止めてくれ」

「いつまでも、そうやって座ってるなら、大声で言ってやる」

 俺は彼女の手を取って自分の方へ引き寄せた。

 彼女の肩までの髪がふわりと浮いた。

「もう。何?」

 引っ張った勢いで、ちょこんと俺の膝の上に座る格好になった。

「こんなところでするの? エッチ」

「バカ」

 彼女を俺の膝の上から降ろした。

「胸は大丈夫?」

 言いながら由宇は、俺の胸に指先で優しく触れた。

 彼女にも会社への理由と同じように、ちょっとした事故にあったとしか伝えていなかった。

 どうせ真実は理解できない。                         、

「ま、昨夜は誰かにずいぶん甘えられたから、また痛み出したけど」

 由宇と付き合いだして、すいぶん俺も人との会話がうまくなった。

 彼女が耳元に唇を寄せて、そっと囁いた。

「良く言うじゃない。私が寝ている間に、イヤらしい悪戯してたくせに、この男は」

「イヤらしいって……覚えてたの?」

「もちろん。ねえ、帰りに買い物していこう。今夜は何が食べたい?」

「え? うーん……豆腐の味噌汁」

「もう。じゃ、他には?」

 ゆっくりと買い物して、マンションに帰る頃には、夕暮れも近くになっていた。

「ただいまぁ」

 帰ると、まだ誰もいない部屋に俺より先に入り、由宇はそう声をかけた。

 手提げ袋から夕食の材料を出し、由宇がエプロン姿でキッチンへ向かった。

 俺は隣室でジーンズとシャツに着替えて、キッチンを覗いた。

―楽しいな。

―楽しいな。

―好きな人のために作るご飯は、美味しく出来るかな。

―彼が大好きな料理は何だろうな。

―でも、大好きなら何でも美味しく出来るんだよ。

―絶対、うまくいくから。

―楽しく作れば、美味しくなるよね。

 自分で作った、この歌が気に入ったらしく、また同じ歌を口ずさんでいた。聞いている俺が恥ずかしいのは、彼女には関係ないようだ。

「今夜はイカのお刺身買ってきたの。もうすぐだから待ってて」

 俺は点きっぱなしのテレビを見ようとリモコンを手にした。

「ねえ、今度の日曜日、休める?」

「うーん、何も無かったと思うよ。どうして?」

 すると由宇が、洗った手を拭きながら姿を見せた。

「あのね」

 なぜか言いずらそうにしていた。

「何? どうしたの?」

 俺はリモコンをテーブルに置いて、由宇へ真っ直ぐ向き直った。

「休めると思うよ。何?」

「あ、あのね。昨日、お母さんから電話があってね……今度の日曜日に、こつちに来るって言うんだけど」

「うん。それで?」

「もうっ……ほら、三人で食事でもって」

「ああ、そう」

「どう?」

 俺はテレビへ視線を戻した。背後ではまだ由宇の気配があった。

「うん、いいよ」

「ホント? いいの? ホントに?」

 俺は無言で頭だけを縦に動かした。

「ありがとう。じゃ、お母さんに電話しとくね」

「ああ」

 由宇が嬉しそうにキッチンヘ駆け戻った。

 俺はテレビのチャンネルを変えた。

「ん?」

 そこへ番組にそぐわない音が聞こえてきた。

 由宇が刺身を盛り付けた皿を手にして、リビングの扉の傍にある台の上を見た。

 二つ並んでいるスマホの一つが、小さなモーター音を鳴らしていた。

「あっ! シズカちやんのスマホ!」

「あ?」

 リモコンをソファに放り、持って来た由宇からスマホを受け取った。

 メールだった。送信者を見ると“協力者”だった。

 俺は寝室のドアを開けた。

「誰? どうしたの?」

 俺はベッドの下から大き目の箱を取り出し、さらに奥に隠していたバッグを引っ張り出した。

 机の上で一度開けて中身を確認してから、しっかりと口を閉じた。上着を取って羽織ると、スマホをポケットに突っ込んだ。

 カを込めてバッグを持つと、俺はキッチンの方へ向かった。

 寝室を出る際にふと机を見ると、由宇のノートパソコンが見当たらなかった。

「由宇。悪いけど、今からちょっと出かけてくる」

「ええっ? どこ行くの?」

「ホント悪い。ちょっと人に会う用事が出来て」

 彼女は全身で不満さを表現していた。

「遅くなるの?」

「うん、そんなに遅くならないと思うけど……先に食べてていいよ」

「食べてるし、先に寝てるよ」

「ごめん」

 俺はバッグを置いて彼女に近寄った。

「由宇、ごめんな」

 スネている彼女を抱き締め、そっぽを向いている頬にキスをした。

「もう」

 文句を言いつつも、由宇は自分から、さらにキスを求めてきた。唇を離した俺は、由宇の頬を両手で包み、その瞳を覗き込んだ。

「ごめんな」

「どうして、そんなに謝るの?」

 もう一度彼女とキスをして、バッグを持つと部屋を出た。

 部屋を出る寸前、一度彼女へ振り返った。

「由宇、あの……ノートパソコンはどうした?」

「あ、壊れたみたいだから、修理に出してる」

「そう。じゃ、なるべく帰るようにする」

「え? ……うん」

 言葉の本当の意味を理解できず、由宇はきょとんとしていた。

 俺は、彼女の気持ちを裏切ってしまっている。

 俺は、彼女との生活を望みながら、彼女の希望を叶えられない事を言えないでいる。

 外に出ると、息が白く変わった。

「……由宇」

 彼女の名前が粒子となって見えた。

 今夜も月が出ている。



 妖月の光に包まれた世界が、すでに出現していた。

 建物の前の車道際に車を停めて降車した。

 二十四時間、眠ることの無い建物の中心を、エレベーターで上階へ向かった。

 持ってきたバッグを開け、ブラック・イーグルを取り出しマガジンを装填した。

 “協力者”から来たメールが、俺をここに呼んだのである。

 行き先は“K・D・W”内、企画デザイン事業部・アートエンタテインメント課だった。

 そこで“協力者”が待っている。初めて出会う事になつた訳だ。

 “協力者”が、本当は協力者ではない、と俺は確信していた。

 伊東は、間抜けにも“魔”に魅入られてしまっていた。

 そして聞かされた“協力者”の話。おそらく俺と伊東の“協力者”は同じ人物だろう。

 課のドアが見えた。

 夜中にも関わらず、ドアは開け放たれていた。普段は警備員がチェックしている筈だ。

 ドアから流れ出す妖気が床面を滞っていた。

 やはり疑いようもなく俺を誘っている。

 その誘いに乗って、俺は自らの手でドアを全開まで開けた。

 音も無くドアが開いても、視界を奪うほどの闇の濃度は、ほとんど変わらなかった。

 攻撃衝動だけを表面に浮き立たせ、邪気にあおられた頭の中を無へと変化させていく。

 人影の見えないフロアから、極々小さな何かの音が聞こえた。キーボードを叩いているのに似ている。

 ブラインドの隙間をかいくぐった月光に、夜空に一度反射して星光となつた街の光が混じっていた。

 見慣れている仕事場が、すっかり様変わりしていた。

 まるで現実の風の如く、妖気が吹きつけて来る。

 気配に意識を集中させると、それは奥からだった。“棚の奥”の方から気配はって来ていた。

 俺は靴音に気をつけながら、一気に奥まで走り、殺気を感じる方向へ、即座に視線と共に銃口を向けた。

 フロントサイトの先に人影があった。

「待ったか?」

 だが返事は予想に反していた。

「だ、誰だ!」

 神経質さを丸出しにした若い男の声だった。

 俺は銃口を下げず、鋭い視線であらためて相手を威嚇した。

「俺を呼んだろ?」

「け、警備員か?」

 話が噛み合わない。

 震えるその声の主の顔が、煌々としたディスプレイの光で、闇の中に浮かび上がった。

「逆井、か?」

「誰だよ! な、何なんだよ!」

 微光に照らされる逆井の顔は怯えまくっていた。

「俺は……射月だ」

 試しに名乗ってみたが、それでも逆井は頭を稔っていた。

 お互いが、相手の出方を探り合っている。

 だが、渡辺という秘書にも関係していたとすると、この若い男が“協力者”である可能性は、まだ捨て切れない。

「……あ、ああ、同じ課の方ですよね? あ、佳那さんが言っていた射月さん。、何をしてるんです

か、射月さん?」

「そっちこそ、今ごろ何をやってる?」

「あ、い、いや僕は……」

 わざとトボけているのか。そんな事をしても今更だろう。

 俺は逆井の態度に少し苛立った。

「お前だろ、情報を集めたりしていたのは! おかしなサイトの管理人だって? 佳那に聞いたぞ」

「佳那さんに? あ、いや、あれは」

 やたら、しどろもどろになって、さらに挙動不審さを増した。

「俺を呼んだのは、お前じゃないのか」

 俺はきつい口調で告げて近づいた。

 すると逆井は慌てて行く手を阻んだ。

「あ、いや、射月さん、ちょっと待ってくださいっ」

「こんな時間に、何をやってるんだ、お前は! どけ!」

 巧みに銃を隠しながら逆井を強引にどかした。

 俺は、逆井のデスクらしい、上にあるディスプレイを見やった。

「止めてください!」

 俺は我が目を疑った。

 ディスプレイ一杯に、由宇が全裸で卑猥なポーズをとっていたのである。

「いくら先輩でも、プライバシーの侵害ですよ!」

 さらに良く見ると、それはネットワークに接続されたノートパソコンであり、見間違う事も無い由宇のモノだった。

「お前っ」

 振り向きざまに逆井の胸倉を掴んだ。必要以上に力が入っていた。

「お前、これは由宇のモンだろ!」

「いや、あの、ぼ、僕の家のパソコンが最近、調子悪くなっちゃって、そ、それに、家からのネットワークじゃ制限が多くて」

 聞いてるうちに俺は、逆井から手を離した。

「そ、それで、会社のだったら、メインの性能は個人のパソコンの比じゃないし、きょ、京さんのパソコンは僕が修理を頼まれたんです。そ、そしたら」

 時々口篭もりながら、逆井は捲くし立てた。

 正直、由宇と逆井に繋がりがあったのは、まるで考えなかった。

「お前のやってるこそ、プライバシーの侵害じゃないか!」

「あ、あの」

 だんだん面倒臭くなってきた。最初に想定していた展開とはまるで違っている。

 俺は隠していた銃を取り出して、逆井の顔面へ突きつけた。

「な、なんで……モデルガン、ですよね?」

 そこまで言って、モデルガン特有の銃口を塞ぐパーツが無いのに、逆井は気づいたようだ。エアーガンとも、質感がまるで違う。良く見れば素人でも判別できるだろう。

「本物だ」

 念を押して銃口で顎を突ついた。

「呼んだのは、お前じゃないのか?」

 怒りで低くなった声音が、逆井の恐怖感をさらに増す。

「お、俺、京さんの事が好きで、だ、だから」

 強引にマウスを合わせてクリックすると、逆井のものらしい個人サイトが開き、次々に中へ侵入していくと、由宇の写真が 次々と表示された。そのどれもが卑猥なものだった。掲示板を見ると、さすがに住所などは書かれてなかったが、それでも由宇の会社での行動が、出入りしている者により、細かく書き込まれていた。

「う、うちの会社の人間も、出入りしてるんです」

「それは見れば分かる」

「京さんって、けっこう人気があって、最初は自分の楽しみのつもりだったんですけど、色々、訊かれるうちに、なんか、自分の彼女みたいに思えてきて、それが嬉しくて」

 逆井は懸命に自分を弁護しているつもりか、自分勝手な論理を展開していた。

「でも京さんの個人情報は公表してませんよ。彼女のところに、イタズラ電話とか、かけられても困るし」

「すでに修正されてない写真を載せて、何を言ってる。この写真はどうした?」

 決して俺は、由宇が自ら公表したとは考えなかった。

「え? あ、あの、そのノートにパスワード付きのフォルダーの中にありました」

 俺はうんざりして逆井を睨みつけた。

「お前。上司に向かって、ネットワーク内の個人管理に対して文句を言ったのは、これが理由か。バレたら自分が困る」

「あ……はい」

 こめかみにズキリと激痛が走った。

 感じていた殺気の行方が分からなくなった。

「じゃあ、俺にメールは?」

「メール? 射月さんのアドレスなんか」

 逆井は“協力者”ではなかった。

「紛らわしい奴……もういい。帰れ」

「あ、あの、この事は」

「うるさい。自分で考えろ。そのノートは置いていけ」

 視界の隅で、離れていく逆井が何度も頭を下げていた。

「早く、行け」

 パソコンの電源を切ろうと、銃を持ち替えて、マウスを動かした。

 その瞬間だった。

「射月、撃て!」

 その叫び声と共に横合いから、凄まじい圧力を持った殺気の塊をぶつけられた。

 心臓が一瞬で凍りついた。

 俺らしくない油断だった。

 渦巻く妖気の中心で、逆井の口元が歪んでいた。

 ほとんど無意識に俺の右手が動く。ブラック・イーグルが、左手から右手へ一瞬で移動した。

 俺は瞬時に、逆井の瞳に“翳り”を確認した。

 逆井の右手がぐんと伸びてきた。運動不足のオタクとは思えない運動能力だ。

 俺はデスクへ倒れ込むようにして身体を傾けた。そのまま突き出された逆井の腕の勢いを利用して、掴むと力いっぱい引っ張った。

 逆井がつんのめって態勢を崩す。

 俺は憤然と身体を起こして“奴”を見た。

 “毅り”が浮かんだ瞳と、まともに視線が合ってしまい、憎むべき“魔”の瞳に、意識ごと吸い込まれそうになった。

 それはもっとも恐怖する事だった。

 “奴”に魅入られた者に、狩人である俺が魅入られる訳にはいかない。伊東と同じ失敗はしない。魅入られた者は、処分するしかないのだ。

 僅かに臆した俺に、容赦なく逆井の手が闇の中を走る。

 紙一重で避けた。いや、うまく避けたつもりが、左肩に衝撃を受け、直後に激痛が走った。

 上着とシャツが裂けて、真っ赤な染みが広がっていく。

 だが俺は機敏な動きで、振り向きざまにトリガーを引き絞った。

 適当に放った弾丸だったが、見事“奴”の左肩に命中した。そのまま俺は、続けざまに三発の弾丸を叩き込んだ。

 最初の着弾の反動で、逆井の身体は後ろに吹き飛び、それ以降は徐々に窓まで追いやられ、力無くブラインドにもたれかかった。

 ブラインドが激しい音を立てて、逆井と一緒に床に落ちた。

 そのまま逆井は動かなくなった。

 しかし、まだ終わっていない。

 俺はその動きを止めずに、出入り口の方に向けて銃口を走らせた。

 遮るものが無くなり射し込む、白月の光に照らされて佇んでいた。

「逆井じゃなかった……俺を、引っ掛けた訳か」

 銃口の先で笑っていた。

 俺を馬鹿にして笑っていた。

 舞い上がった塵が、白光の中で振り回され、視界を微妙に霞ませて遮っている。

「佳那ぁ、答えろ!」

 俺の怒りが、漂う塵を吹き飛ばした。

「俺を、騙していたのか」

 搾り出した言葉を、佳那はさらに嘲笑った。

「情報は先ず疑え、って習わなかったか?」

「習うかっ」

「それが今の日本の教育に欠けてるんだよな。情報の見方の勉強も大切だと思わないか?」

「訊いたことに答えろ。小学校で習ったろ」

 佳那は昔日の映画に出てくる外人のように両手を上げた。

「まあ、聞けよ。情報って言うのは、複数のモノを照合してから分析し、自分の情報とするもんだ」

「お前に言われなくても」

「でも、俺の情報を全て鵜呑みにしただろう?」

 反論できなかった。“奴”との戦いで学んだ筈が、つい日常を別世界と考えてしまった結果だ。そして気付かなかった自分の愚かさも後悔した。

「事に当たる時には慎重なくせに、意外と抜けてるんだな。今の世の中、十分に注意しないと、最悪と仮定したコトが、すぐに現実化してしまうじゃないか」

 佳那の言うコトはつくづく正当だった。対する俺は、芸の無い言い方しか出来なかった。

「……ふざけるな」

「分からないか? 協力してやっただろう? なら、俺の用事にも協力してくれたっていい筈だ」

「……伊東のことか?」

「察しがいいな。ムカツく奴だったんだよ。相談に乗るとか言って、人の良さそうな顔をして近づきやがって」

「伊東が言ってた。お前と彼女は兄妹だったと……だから誘導して、俺に殺させたのか……じゃ、伊東に協力してたというのも」

「聞いたのか。そうか……ああ。当たりだ」

「俺との話じゃ、お前だって」

「ああ、憎んでたよ。だから先ずは俺を信用させ、お前と戦わせた。俺はお前が勝つと思っていたぜ」

 薄ら笑いを浮かべる佳那の顔が、“魔”に見えた。

「ビジネスに情報収集は必要だ。情報を多く持つ方が勝つ」

「ビジネスだと。冷静ぶるのは止めろ、佳那っ。お前は俺に、自分の復讐をさせたかっただけじゃないか」

 途端に佳那の表情が変わった。

「鏡子は……俺が今まで付き合ってきたバカな女たちとは違って、良く出来た、とても良い妹だったんだ。正直で誠実さだけが取り柄だってヌかしたバカも居たが、あいつらよりも数倍良い人間だった」

 佳那は唇の端を強く噛んでいた。やがて、そこから血が滴った。

「それを……それを、あのスケベ親父が……体目当てだけで、近づきやがって……俺の居ない間に鏡子を呼び出した挙句に……鏡子は決して、俺には何も言わなかったさ」

「待てよ……お前たち、まさか、近親」

 そこで俺は口にするのを止めた。

 兄と妹は付き合っていたのだ。

 小林がどうしても自分の抱える悩みを話せない相手が、大事にしていた兄である佳那だった。

 佳那の性格を考えれば、実の妹をどれだけ大事にしていたかは、想像に難くない。

 しかし伊東の話では、小林は自分が自分でなくなる時がある、と言ったという。事実であれば、考えられるのは一つだ。

「でも佳那……もしかしたら、彼女は“奴”に」

「理由なんか、どうでもいいっ! あの男が、鏡子を追い詰めたことに変わりはない! 俺は、鏡子がなんであれ……生きてさえいれば良かったんだ」

 その気持ちは痛いほど理解できた。

「お前なら、俺の気持ちが分かるだろう? だから、伊東をお前に狩ってもらったんだ!」

 佳那の言葉は、俺の胸の深いところに突き刺さった。

 『人を狩る』

 今まで自分が使っていた言葉だ。

 あらためて他人の口から出ると、それは、とても不快に聞こえた。

 佳那は顔を伏せた。その肩が小刻みに農えているのが、闇の中でも見て取れた。

「……佳那」

 だが佳那は、自分の悲しみを十数秒で終わらせた。すぐに顔を上げ、軽く咳払いをした。

「俺のことは」

「社内でお前の存在は浮いていた。異端者そのものだ。それでカマをかけた。間違っていても、イタズラメールで済む内容だ。だが、お前は乗ってきて、狩りをやってみせた」

「そうか。お前は、この街のネットワーク開発に携わってたんだったな。あらゆる情報を手に入れるのも簡単だった訳だ」

「誉めてくれて、ありがとう。街の情報は“北原グループ”のスーパーコンピューターに集められる。俺の家にある端末は、別の街を介して、その情報を無条件で閲覧出来るように仕掛けをさせてもらった」

 佳那は逆井とは違って、自分の才能で有頂天になるタイプではない。軽いという一般的なイメージなど、真実を見ていない。

「もう一つ言えば、銃もだろ?」

「アメリカに居た時に、認可が下りずに処分されそうになってたモノさ。出来は良かった。処分するには勿体無いからな」

 驚くことの連続だった。

 さすがエンターテインメントに長けた男だ。

「だから、言ったじゃないか。人間関係には気を配れって」

 そう告げた佳那は手を後ろに回して、伊東のモノと同じ銃を取り出した。すんなりと、その銃口は俺へ向けられた。

「お前は俺の役に立ったよ、射月。出来の良い殺人者だと思うよ。だが、役目は終わったんだ。俺の復讐の手助けには感謝するよ」

「伊東は、このグループの失敗作だとか、実験めいた話をしていた」

「知らないな。俺はあの男に合わせていただけだ」

「でも、お前だって“奴”の存在を」

「言ったろ? 俺は鏡子のためだけだったんだよ。“奴”だとか、そんなことなんか、どうでもいい。“魔”に魅入られようが、幸せさえあれば、それでいいんだ。何が“魔”だ。バカバカしい」

 “協力者”は俺に合わせていただけで、何も信用していなかった訳だ。

「やめろよ、佳那。俺はお前のことを友達と」

「悪いな、ここで終わりだ。悪魔は夜が開ける前に闇に消えてくれ」

 俺の言葉を遮った、佳那の言葉で、俺たちの友人関係は終了した。

「お前は、ただの人殺しなんだよ、射月」

「佳那」

「射月。お前はここで連続殺人事件の犯人として死ぬんだ。ネット内の情報操作は、やっておくから心配するな。まあ、ホントにお前が犯人なんだけどな」

「佳那っ」

 怒りに任せた俺は、銃口を向けられているのも棉わず突進した。

「このバカっ」

 二年間もの間、俺は戦ってきた。

 自らを“魔”と名乗る娘と、死を賭けた日々を過ごしてきたのだ。

 修羅場をかいくぐって来たのは、こいつではなく俺の方だ。戦い慣れていない素人に遅れを取る筈が無い。

 佳那は対処し切れず、慌てふためいて間抜けに突っ立っていた。

 俺は数メートルの距離を一気に縮めて、手にしていた銃を横に弾き飛ばした。佳那はあっさりと銃を手放した。

「自分の武器はしっかり持っていろ! “魔”を狩ってきたのは、俺なんだぞっ!」

 銃で佳那の顔面を殴りつけ、即座に左手で首もとを掴んだ。そのまま力任せに、窓まで押しやった。

 ブラインドが落ちていた窓ガラスにぶつけて、佳那の後頭部は鈍い音を発した。

 佳那は俺の迫力に圧倒されていた。何か音おうと口が動きかけたが、その口へ巨大な銃口を突き付けた。

「いづ、きっ、や、やめろ、射月っ! こんな非常識なことを」

「佳那。俺のことを調べたお前なら知ってる筈だ!」

 佳那はこの時、まだ自分の死を考えていなかったろう。

「な、何を」

「非常識は、さんざんやってきた」

「いづ」

 佳那の顔面に向けられた銃口から、非常識な業火が吹き出し、同時に眩い閃光が俺の視界を奪い取った。

 視力が戻った時、佳那の顎から上は四散して、背後の窓も粉砕されていた。

 佳那に言おうとした事は嘘ではなかった。彼は社内では数少ない、俺の大事な友人だった。

 銃口から漂う紫煙が、冷気と共に夜間に溶け込んだ。

「どうして……バカ野郎……」

 佳那だったモノを、狂おしく見下ろした。

 人は死んだ瞬間に別のモノに変わってしまう。生前と見た目は変わらないのに、違うモノになるのを遺体は否応無く感じさせる。

 俺が経験してきたどれとも違う、虚しい死との直面だった。

 割れた窓から、風が夜気を伴ってなだれ込んできて、室温が急速に下がっていく。

 俺は冷気を肌で感じながら、見える筈のない自分のマンションの方を、割れた窓越しに見詰めた。

 無性に帰りたかった。

 部屋では由宇が待ってくれている。

 やけに彼女に会いたかった。

 帰ったら由宇に、今までの俺の日常をきちんと話してみよう。彼女にこれ以上隠し続けるのは、正直ツラかった。

 分かってくれるだろうか。

 未来を信じる。

 明日を夢見る。

 由宇なら、俺のこの二年間の苦しみ、背負ってきた悲しみ、そして彼女自身への気持ちを理解してくれるに違いない。

 駄目でも、俺は聞いてもらいたかった。

 会いたい、という気持ちだけで歩み続けた。もう、凄惨な揚所には振り返りたくなかった。

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