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「あ……くそ」
身体のあちこちが軋んでいた。
悲鳴を上げる身体を無理矢理に引きずり、遅刻しながらも俺は、二日後に何とか出勤した。
真っ白の壁に掛かっている時計は午前十一時を回っていた。
前をきっちり閉めた上着の窮屈さを我慢しつつ、不自然になる動きを何とかごまかしながら、俺はカバンを自分の机へ置いて、新しい課長の元へ急いだ。
伊東が居たデスクには、その前にそこに座っていた中年の男が、不機嫌そうにふんぞり返っていた。臨時で舞い戻ってきた前課長は、提出した医者からの診断書を一瞥して、難しい顔で短く『わかった』とだけ言った。遅刻した理由も問われなかった。
どうやらこの会社では、俺の存在も本格的に危うくなってきた。
イスに座る寸前、何気なく周囲を見渡した。
休む前とは変わらない日常が俺の周りにはあった。小林の死と言う非日常は、すでに日常に埋もれていた。
課の中の全ての人間が、決められたように動いていた。
同じ姿勢。同じような動き。スーツを着た男に、制服姿の女たち。全ての人間がディスプレイに集中している。
視線を落とすと、自分のデスクの上にあるディスプレイも、機械らしい光を放っていた。
各個人のデスクにある端末は、二十四時間体制でネットワークにつながっているが、退社する時にはそれぞれが電源を落としていくことになっている。それは退社時間が社員によって違う為なのだが、翌朝になると自動的に電源が入るのである。
こうした全ての端末は、大元のメインシステムによって管理・運営されていて、個々の出勤状況から、その仕事振りまでチェックされていた。営業部に至っては、それぞれの端末につながる別の携帯用端末まで持たされているらしい。
俺は今更ながらに実感した。
つながった関係から逸脱した存在であり、異質な存在。
俺はもう、随分前からこの日常の外の人間だったのだ。
感じる日常の違和感は拭えなかった。
懸命に働く同僚たちを見ている内に、なぜか俺は気分が悪くなってしまった。息が詰まりそうな塊が喉を塞ぎ、その数秒後には、眼球の奥がズキズキと痛み出した。
我慢し切れず俺は、急いで外へ飛び出した。
そのまま階段の脇にある、自動販売機が並ぶ、休憩コーナーへ走り込み、そこに備え付けてあるベンチへ倒れるように座り込んだ。
「……くそぉ……何だ?」
こめかみを襲う激痛に堪え切れず、両手で頭を抱えた。
「射月さんっ」
聞いた事のある女の声だった。一瞬“彼女”の姿が頭をよぎった。
反応出来ないでいると、声の主が傍らに座り、俺の手に自分の手を添えてきた。
「大丈夫? ねえ?」
針で刺されるような頭痛に顔を歪めたまま、僅かに目蓋を開けると、その女は俺の顔を覗き込んでいた。
「シズカちゃん? 大丈夫? どうしたの?」
相手は心配顔の由宇だった。
「由宇……?」
「大丈夫、今は周りに誰もいないから」
そう言って俺の体を自分に引き寄せた。俺はされるがままに由宇へ、傷ついた身体を預けた。
彼女の首筋からとても優しい香りが匂っていた。それが乱れた心を徐々に落ち着かせていった。
「どうしたの? 大丈夫? ね?」
「……ああ」
バレバレの強がりだった。
彼女は俺の頭を抱き締めた。
由宇とは、あの夜以来だった。
伊東と撃ち合った夜は、自宅の電話とスマホに、由宇からの伝言が入っていた。大した内容ではなかったが、自分のことはあまり話さず、俺を心配したメッセージだった。ここ数日、休んでいる間も心配して連絡をくれたが、俺は見舞いをずっと断っていた。傷を見られると不審がられる。
「……由宇」
「うん? どうしたの?」
「いや」
何の飾り気も無い床、天井、壁。圧迫感しか感じさせない周囲の光景から目をそらし、俺は瞼を閉じて由宇に身を任せた。
「由宇は……いい匂いがするなぁ」
「バカ」
彼女の微笑が耳元をくすぐった。
もたれ掛かって由宇の体温を感じていると、やんわりと頭痛が消えていった。
「ホントに大丈夫、シズカちゃん?」
「その呼び方は止めろって……もう、大丈夫だよ。ありがとう」
「ホント?」
「うん」
「そう。良かった」
「ありがとう、由宇」
「ありがたいでしょ?」
「はい。とても、ありがたいです」
由宇のクスクスという笑い声が聞こえて、俺は目を開けた。
まだ彼女は心配そうに覗き込んでいた。
彼女の瞳が、すぐ目の前にあった。キラキラとした安らかな潤いを持っていた。
「……由宇」
名前を囁くと、由宇は静かに両目を閉じた。そっと唇を重ねた。
ほんの数秒。
それだけで唇を離した。
「由宇。どうだった?」
「え? キスのこと?」
「何言ってんだ、違うよ。小林さんの実家に行ったんだろ?」
「あ、ああ、うん。鏡子、一人娘だったから、お母さんもだけど、お父さんがとてもツラそうだった」
「……そうか」
父親との関係がうまくいっていない俺には、父親の悲哀など理解出来なかった。しかし母子家庭で育った由宇には、父親が悲しむ姿が堪らなかったのだろう。
「あ、そうだ」
急に何かを思い出したらしく、由宇は声のトーンを下げた。
合わせて俺は、ゆっくりと体を起こした。
「そう言えば、あのね。留守電には入れなかったんだけど」
由宇は意外だという顔をしていた。
「佳那さんが」
「佳那?」
「佳那さんが、私より先に来てたみたいなの。なんか鏡子と知り合いだったみたい」
伊東が死の間際に言ったのは、俺をからかった訳じゃなかったらしい。死んだのが小林だと知った時の、佳那の顔が青ざめた理由が、これで理解できた。
「あんな佳那さんを初めて見たからピックリした。鏡子の傍でずっと泣いてて、私が来た事にも気づかなかったみたい。でも、 なんか声をかけずらくて、お母さんにはもちろん事情を聞けないし」
「あいつは人との関係を大事にする奴だから、俺たちの知らないところで、小林さんと知り合いだったんだろ」
「うん。そうかも」
俺は適当にごまかした。佳那と小林が兄妹だったとしても、真の事実内容は、今の俺には想像の域を出ない。
由宇が、自動販売機の上にある時計を見て、スカートを直しながら立ち上がった。
「あ、ヤバい。そろそろ戻らないと。それじゃ、先に戻るね」
由宇は、俺に向かってニッコリと微笑んだ。俺は去り際の、その手を軽く握った。
「由宇……」
「うん? 何?」
俺と由宇の視線が絡み合った。
「ホントに、ありがとうな」
「うん。今夜、行くね」
「ああ」
笑みを崩さず領いた。
由宇が駆け戻って行った。
去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、深いため息をついた。
俺がかろうじて日常に居続ける事を、無条件に許してくれる、由宇という存在が、これほど自分の中で大きくなっているとは、今の今まで意識しなかった。
由宇の為にも、日常へ戻らなければならないらしい。
「よし。頑張るか」
呟きだったが、俺は少しだけ前向きになれた。
ようやく気分を変えてベンチから離れた俺を、ポケットの中から感じる振動音が、一瞬で日常を瓦解させた。
由宇の知らない俺へと変化していく。
取り出したスマホは、伊東から奪い取ったモノだ。何らかの連絡があるのを期待して、持ち歩いていたのである。それが功を奏したらしい。
メールが送られて来ていた。
『連絡を待っている』
メッセージはそれだけしかなかった。
十数秒だけ思案して、俺は相手へ返信することにした。
『会えるだろうか』と。
伊東に情報を渡していたという人間なら、必ず新しい情報を知っている筈だ。それに俺の“協力者”と同じ人物の可能性もある。
きっかり五分後に伊東のスマホが再び震えた。
『わかった、会おう。次の指示に従ってくれ』
続いて大雑把な指示が書き込まれていた。
それを見て、俺は鼻で笑った。
行きつく先は、この会社の最上階だったのである。これだけでも、少しは前進できた。
“協力者”から渡された銃の出所が、関連企業だった。“奴”に魅入られていた伊東が、俺と同じく“魔”を追う者だった。そして恐らく同一人物であろう“協力者”。
これらだけで、容易に予測できる。
それは二人の“協力者”が、この会社の関係者である可能性だ。
この“K・D・W”は、この街のネットワークシステムの構築デザインと、グループ全体では都市開発に投入された開発費用は、他の企業に比べ群を抜いている。
“彼女”が言った“魔”よりも、失敗作などの単語が出た伊東の話しから推測される企業の何らかの研究などの方が、まだ現実味がある。それに、あの時現れた“彼女”は俺の弱さが生み出した白昼夢の登場人物に過ぎなかったかも知れない。
完全にすっきりした頭を軽く左右に振った。
真実を追究することは、自分の人生の意味を探るのに似ている。その真実が、善悪どちらであろうとも、哀楽どちらであろうとも、踏み出す足はもう止められない。
自分が勤めている会社内を、これほどの緊張を持って歩き回るとは、入社時には露とも思わなかった。
乾いた靴音が響き、数日前の夜を想起させた。変わらないことが日常ならば、こんな行動も俺にとっては日常なのだろうか。
人に会うことを警戒して階段を使ったが、そんな心配はいらなかった。誰一人として社員と出会わなかった。みんな自分のデスクに真面目に向かっているらしい。
脇の下が汗でジットリと湿っていた。緊張からでもあるが、傷の痛みのせいでもあった。
俺は急ぐことはしなかった。
用心のためというよりも、正直言うと、体がガタガタで、走るほどの元気が無かったのである。
向かう最上階には社長室と、それに連なる秘書室があるだけだ。
「……くそ」
伊東に蹴られた胸骨が不意に軋んだ。
出勤するのが遅れたのは、もちろん病院へ寄っていたからである。会社にはただ、事故により、としてしか伝えてない。
あの代行になつている男には、昔から何かと日の敵にされていて、正直ウザイ存在だったが、嫌われているおかげで、あれこれ聞かれなかったのは逆に良かった。
目的の階が見える踊り場で一度足を止めて、俺は少しだけ喘ぎ壁に手をつき身体を支えた。相手が誰かは分からないが、待っていると言った。急ぐ理由は無い。なるべくなら体力を温存しておきたい。
しかし空気に含まれる、縫わりつくような嫌悪感は、やはり“奴”にとても似ていた。
大きく息を吐き、何とか前に進もうと寄り掛かっていた体を起こすと、胸が締めつけられるように痛んだ。少しでも体を捻る度に、引き裂かれそうな痛みが走り抜ける。
俺の身体は、繰り返し休息を訴え続けていた。
だが“奴”が呼んでいる。
緩やかな、物凄く静かな冷気が、階段を流れ落ちてきていた。それには、確定的な殺気が混じっていた。
ふらつきながら両足に力を込めた。
社長室へは、秘書室を通らなければ、行けないようになっている。
鉛の詰められた足で階段を上がるだけで、身体は悲鳴を上げる。苦痛と緊張が波を打つように押し寄せてくる。
右手が小刻みに震えてしまう。
激しく喘ぎながら天井を仰ぎ、それから視線を左右に動かしてみた。目に入るもの全てに気が滅入った。
苦痛は時間が経てば経つほど、減るどころか増す一方だ。
“奴”の放つ妖気は、すでに俺を包み込んでいた。この充満した邪気の中では、“奴”の放つ殺気だけを読むのは困難だった。
このまま進まずに逃げ出してしまえば、この苦しみから解放されるだろうか。この二年間を全て捨てたら、由宇と結婚して、彼女を幸せにしてやれるだろうか。そんな未来が、俺にもあるのか。
しかし、どれも俺の妄想に過ぎない。自分の妄想に希望を見出そうとしたが、やはり妄想は妄想でしかない。頭の中にあるだけの光景だ。俺はそんな景色の中に住みたいと思わない。
それに、希望は行動の先に訪れるものだ。俺が中学生の頃、父親が、ふとそんな事を言った事があった。
あの頃の父親は、会社での自分の立場に悩んでいたようだ。もしかしたら父親は、自分に対して言ったのかも知れない。
だが俺は、父親の言葉の中で、それだけをずっと、なぜか覚えていた。
だから妄想しても虚しさが増すだけだと考えて、つねに行動する方を選び続けた。
それに明るい未来が妄想でなければ、今のこの状況も現実でない筈だ。今の俺が現実ならば、やはり希望は妄想である。
こんなに傷だらけになりながら、戦って戦って、そして敵を倒したら、今度は自分で自分を責めている。
戦いが終わる日という未来。
無性に自分の哀れさが表面化してきた。
精神状態が不安定になっているらしく、自分でもわかるほど浮き沈みが激しかった。
これからも生きている限り、俺は“奴”を倒し続けていかなければならない。
死ぬまで続く鬼ごっこだ。闇が訪れても延々と続けられる。
すでに当初の目的が見失われつつあることくらい、俺も認識していた。かといって伊東のように“奴”に魅入られた人を狩ることが、別に楽しいとは思っていないし感じてもいない。
“魔”を狩る。企業の謀略に立ち向かう。
そんなことは、俺よりも強い、他の誰かがやればいいのだ。
そうすれば“彼女”と決別できて、由宇と暮らせる。
俺は、このまま朽ちていく。
先が見えなくなった。
軽蔑していた妄想の迷路にはまり込んで、俺の意識は身動き出来なくなった。
誰かに助けを求めたかった。
誰か。
誰か、俺を。
「射月さん」
それは突然、訪れた。
「射月さん。もう止めてください」
欲していた、迷路の行き先を示してくれる者。
俺は即座に顔を上げた。
窓は秘書室の方にあり、逆光で顔を確認出来なかったが、その声はまさしく“彼女”だった。
「まさか……まさか、君が、あの男の協力者なのか?」
いぶかしみながらも俺は、見極めたい衝動に駆られ、一気に階段を駆け上がった。
しかし“彼女”は、踵を返し秘書室の中へと姿を消してしまった。
「待ってくれ」
俺は迷わず彼女の後を追った。
つねに四人が交代で勤務している秘書室だったが、今は出払っているらしく誰も居なかった。乱暴に踏み込んで、身に付いた習性で、辺りへ適当に視線を走らせた。
人影は無い。だが人の気配は感じた。
「……またか……またなのかっ!」
力任せに右手で、電源が入ったままのディスプレイを忌々しげに殴りつけた。鈍い音を立てながら床に落ちた。
この画面に向かって、皆が同じ格好で同じように動いている、さきほどの光景が脳裏に蘇り、俺は無性に腹立たしくなった。 さらに、一斉に部屋から居なくなった秘書たちの行動の異常さが重なり、俺の鬱憤は頂点に達していた。
「くそおっ!」
激しく怒鳴りながら、辺り構わず蹴って回った。
と、何かが動く音が聞こえてきた。
音の方に視線を向けると、社長室へ入るドアのノブが回っていた。
ドアが開く。
「なめんな!」
絶叫と共に俺は地下駐車場にある愛車のトランクのバッグから、ブラック・イーグルを“引き寄せ”た。そのまま、隙間の向こうに人影が見えた瞬間、相手を確認せずにトリガーを引き絞った。
発砲の反動による激痛で、胸が締めつけられ、一瞬呼吸が止まりそうになった。激しく咳き込みながらも、銃口は下ろさなかった。
こちらに出ようとしていた誰かが、大口径弾をまともに食らい、社長室の中へ吹き飛ばされていった。
俺は全力で走って、重厚な造りのドアを一気に開け放った。
「あ……」
左肩を自らの血で真っ赤に染めた“彼女”が、そこに立っていた。
「あ……あの」
心底申し訳なく思い、不用意に、顔を伏せる“彼女”に近づいた。
「……す、すまない」
「大丈夫です。気にしないでください。射月さんの方こそ、傷は大丈夫ですか?」
自らの痛みに顔を伏せる“彼女”は、俺に気を使いながら泣いているように見えた。
「すまない。痛いんだな」
我ながら間抜けな台詞だと思った。
「違うんです。撃たれた痛みではなく、私たちが、そういう関係になってしまったのが悲しいんです」
数日前の夜と同じく、“彼女”の言葉は俺の心を遠慮なくえぐった。
涙を拭ってやろうとして左腕を動かしたら、胸に痛みが走り思わず顔を歪ませた。発砲したせいで、さらに傷を悪化させたようだ。
「苦しかったんですね……ごめんなさい。私のせいで、こんな事になってしまって」
「……いや、君のせいじゃないよ」
何の足しにもならない、ありふれた台詞だ。
すっと近づいてきた“彼女”の右手が、俺の傷んだ胸をさするように、そっと触れた。
「射月さん。愛しています」
その言葉もありふれていたが、俺の言葉とは比べようもないほどの深みを感じた。
「二人でどこかへ行きませんか? そこで二人で暮らしましょう。そうしたら毎日が楽しくなりますよ、きっと。ね、射月さん」
最高の申し出だつた。
二年前までは、それだけを望んで生きていた。
「……俺も、それを望んでいた。そんな、皆が望むような平凡だけど、幸せな日々を、君と送れるのを、ずっと望んでいたよ」
「射月さん、もうこんな事は止めてください。止めましょう。お願いします。ね?」
その物言いが僅かに気になって、俺は眉間に皺を寄せた。
「射月さん?」
俺の反応が“彼女”には心外だったようだ。
「……ごめん。でも、やっぱり俺は止められないよ」
「射月さん……」
「……」
“彼女”の名前を呼ぼうとした。
だが、知っている筈の“彼女”の名前は口から出ずに、代わりに出たのは目の前の女への疑問だった。
「……お前……誰、だ?」
それがスイッチとなった。
愛に満ちた空間に、瞬時に鬼気が充満した。
目の前の女の瞳に“翳り”が出現し、その右手が後ろに引かれた。
俺は激しく歯噛みした。
「くそっ!」
身を引くより、“奴”の右手が突き出される方が早かった。
激痛を無視して、俺は身体を思い切り稔った。
背後で、何かが一斉に折れる、鈍く嫌な音が聞こえた。
動きを止めない“奴”と身体が触れそうになる寸前、俺は横に飛び退いていた。
振り向いた俺の背中に冷たいものが走った。
背後の壁に容赦無く当たった女の右手の指は、無残にも何本か、あらぬ方向にへし折れていた。僅かに伏せた顔の口元は苦痛に歪んでいたが、身体の方は平然と立っていた。
黒色の銃は、俺の手の熱を吸収して熱くなっていた。しかし逆に心のほうは冷え切っていた。
この戦いに嫌悪感を感じつつ、冷たい心は何かを感じていた。そして冷えた部分は、意志とは裏腹に体を動かした。
女は指が折れたままの手を、再び俺の顔面に向けて、遠慮無く突き出して来た。対する俺は、人間業とは思えない迅速さで動き、続けざまに二発、大口径弾を放った。
“奴”は難なく、それをかわした。
俺は発砲しながら即座に右へ走った。俺がいなくなった空間で、“奴” の右手が風切り音を発して大きく空振りし、社長室の分厚いドアの表面を撒き散らした。
女の細くしなやかな手がズタズタになって、さらに細い骨を露出させ、真っ赤な血を滴らせていた。俺の胸を優しく撫でてくれた手の指は、見るも無残に変形し破壊されていた。
動揺を自ら封じるように、俺は両目を静かに細めた。
鋭利な殺気が、空気を巻き込んで動いた。“奴”が真っ直ぐに突っ込んでくる。
銃口を向けようとしたが、必要以上の力みで、指がトリガーに固着してしまった。
「あぐっ」
俺の両足が浮き上がる。
“奴”が無残な角度に曲がった指の右手で、強引に俺の首を締めつけてきた。
容赦ない力に首の骨が軋む。
意識が消えるのを必死で堪えながら銃口を上げようとしたが、意識が混濁して出来なかった。
口の端から涎が垂れてきた。右手に力が入らず、目も霞んできた。
“彼女”の名前を呼ぼうとして唇が震えた。
その瞬間、“奴”が笑ったような気がした。
首の骨が限界にきていた。
と不意に、首を締めていた力が弱まった。
ゆっくりと両足が床に戻ると、俺は貪るように息を吸い込んだ。
懸命に喘ぎながら、首から手を離さずにいる“奴”を睨みつけた。視線の先の瞳は涙を流し、首を摘んでいる右手が震えている。
「……射月、さん」
“彼女”の瞳は哀情に満ちていた。
「あ、ああ、ああっ」
だが苦鳴とは裏腹に、再び手に力が込められてきた。
“彼女”の言葉と行動が一致していなかった。俺の首を締めながら、俺の為に涙を流している。
「い、射月、さん……わたし」
殺されようとしていたが、俺は“彼女”の言葉、“彼女”の想いを、きちんと聞いてやりたいと思った。
「射月、さん……毎日が、笑えると……い、い、ね」
しかし、そこまでが“彼女”の戦いも限界だった。瞳に“翳り”が覆い被さった。
銃を握る右手が一気に上がり、俺の怒りが込められた銃弾が、激烈な咆哮と共に吐き出された。
衝撃が“奴”の顔をかすめた。赤い血煙が上がり、左耳が消失していた。
意識全体が一つの目的に向かって集約して、それ以外の想い、考えを全て排除した。
ほとんど狙いもつけずに、俺は発砲し続けた。
偶然に“奴”の右肘を撃ち抜き、ようやく首が解放された。
すぐさま俺は、両足に力を込めて踏ん張った。
上半身が揺れないように激痛に堪えながら、まだ向かって来ようとする“奴”へ、銃口を向けてしっかりと固定した。
撃鉄は起きている。後はトリガーを引くだけだ。
“彼女”は、もうどこにも居なかった。
『俺は、そちらには行けない』
それは想いだけでとどめた。
トリガーにかけた指が動く。
悲痛な心の叫びは銃の叫びとなって、凄絶な力を込められた大口径弾が一直線に、閃光を引いて澱んだ空気を引き裂いた。
頭部を失った“奴”の残骸が、反動で仰向けに倒れて跳ねた。
銃身が放熱し切れず、高熱を帯びていた。
俺の全ての動きは、ロボットのように淡々として何の感情も存在しなかった。
“彼女”だった死体にさえ、俺は何の興味も持たず、靴音を消したまま社長室を後にした。
その日の午後には、再び警察が大勢会社に現れた。
「うちの会社、大丈夫か?」
喫煙室の中で佳那は、愛社精神も無いくせに心配していた。
俺はタバコを吸わないのだが、たまに佳那が話をする為に、ここへ無理矢理連れてくるのだ。
換気扇の性能以上に煙が充満した中では、吸わなくても大した違いは無いのだが、佳那以外の者には進められても断っていた。しかし来月からは、この喫煙コーナーも無くなるらしい。
「別に潰れはしないと思うけど」
「そうか? 今度は確実に殺人だろ」
俺の前で佳那は、小林のことは知らないという態度を通していた。相変わらず今日も朝から、同じ課の女子社員に声をかけていた。
「伊東課長も急な出向じゃなくて、行方不明だって噂だし、そしたら今度は、社内で殺人事件だぜ。それも秘書なんて」
テレビやネット内では簡単な概要しか明かされてなく、警察の捜査上の問題とか言っていた。
それよりも俺を不安にしているのが、今まで一度足りとも表沙汰にならなかったにも関わらず、今回初めて事件として表面化した事だった。
事件となれば、警察や世間の目を気にしながら戦い続けなければならず、こうして日常生活を営みながらは絶対に無理である。
これが意味するのは、敵が存在を秘匿する必要がなくなった。もしくは、伊東が言っていた、失敗作の俺に対する警告だろうか。
「俺が聞いた話じゃさぁ」
「噂話?」
「バカ、噂話も大事なネットワークだろ? 古来から続く大変有効な情報網だぞ。どこに重要な情報が隠れてるか分からないだろ?」
「そうかい?」
分かりづらい論理展開に苦笑する俺に、佳那は真剣な顔で訴えた。
「今までだって意外な話は、俺が持つ噂ネットワークから得たんだ」
「噂ネットワークって……意外な話ばかりだろ?」
「だから、その中に重要なモノがあるんじゃないか」
仕事もせずに自分がウロチョロしているのを、もっともらしく正当化しているようにしか聞こえない。
「思いも寄らない情報だって手に入るぜ」
そう言って佳那は、含みのある笑みを浮かべた。
「何だよ、それ。で、話は何?」
「あ、そうだよ。お前がつまんない事言うから。殺された秘書ってのが、あの、社内でも美人で評判だった渡辺沙耶ちゃんらしいんだ」
初めて死者の名前を聞いた俺は、思わず佳那の上着を掴んだ。
「お、何だ? お前も知ってたのか? お前もやっぱり女に興味があったんだな」
「わたなべさや?」
「ああ、そうだよ。何、力入ってんだ、お前」
俺の知らない名前だった。
「そういや、社内ネットワークにチラリと出た情報があってな。それがちょっとした騒ぎになったらしいぜ」
「騒ぎ?」
「ああ。三十分位で削除された上に、書き込んだ奴がすぐに特定されて、そいつはお偉方に呼び出されたっていう、な」
「どんな?」
ネットワークと聞いて、さらに俺は詰め寄った。
「それがさ、上司との話中に急にそいつは、すぐに個人を特定できるのは個人を監視してるんじゃないかって、上司に食って掛かって、余計に心象を悪くしたらしくてな。速攻で自宅謹慎をくらったらしいぜ。バカな奴だよ。子供の頃も良く居たよな、あんな奴。最終的には弱いくせに、何かと食ってかかる奴」
佳那はあからさまに、そいつを馬鹿にしていたが、俺の知りたいのは、そういう事ではなかった。
「違う」
「何が?」
「漏れ出た情報って、何だ?」
「ああ、そっちか? 死んだ秘書はグループの被害者だっていうもんだよ。“北原グループ”っていう意味だけどな」
俺は佳那から手を離した。佳那はブツブツ言いながら、皺くちゃになった上着を正した。
“北原グループ”は“K・D・W”や“城川重工”などを傘下にもつ、新月市でも力を持つ企業体だ。
「ああ、そうだ。その食って掛かった奴ってのが、あの逆井なんだよ」
自分の考えに没頭しようとした俺は、何気に佳那の顔を見返した。
「逆井?」
「全く、お前はホントに。前にも言ったろ? 同じ課の」
「それは聞いた。知ってるよ。そう言えば、最近見ないな」
「だから、自宅謹慎させられてたって」
「ああ……そうか」
「あ、ほら」
急に佳那が喫煙室の外を指差した。
ちょうどノートパソコンを脇に抱えた、逆井が前を通っていた。どこかで見た事があるノートパソコンだった。ケースの角に傷が付いていた。
顔色が悪そうな上に猫背で、やたら生気が感じられなかった。
「あいつ、今日来てたんだなぁ」
しみじみとそう言った佳那が覚えてないとは、よっぽど存在感が無いらしい。
「なんでノートなんか持ち歩いてるんだろう」
「何でも家のパソコンの調子が悪いらしくて、最近は誰かから借りてるって」
「お前」
俺は佳那へ、心底感心してみせた。
「ホントに、そんな情報、どこから仕入れるの?」
「だからネットワーク。情報はネットの中だけにある訳じゃない」
「そうだな」
俺は適当に返事した。
「あいつ、お前とおんなじ暗い奴でさ」
「余計なお世話」
「でも、お前と違うのは、さっきも言ったけど、何かっていうと、自分の主張をするようなタイプなんだよ」
「自分の基準が、社会の基準と勘違いしてるタイプ」
「お前、けっこう厳しいよな」
俺は苦笑して、背もたれに身体を預けた。
「実は去年、新卒で入社した奴で、入社したての頃は、俺が教育係を担当したんだよ」
「そう言えば、アメリカから帰ってきてすぐは、ネットワーク構築チームに居たね」
「ああ。帰国した途端、新人の教育をさせられて、イジメかと思つたぜ。仲間外れにされたんじゃないかってな」
「イジメって」
イジメられないタイプに限って、こんな言い方をする。
「逆井ってさあ、あの頃から、何か気持ちの悪い奴だったよ」
「俺と似てるって言わなかった? 俺、気持ち悪い? イジメか?」
「ごめんごめん」
佳那は俺の肩を叩きながら陽気に笑った。表情で迷惑という意思を訴えてみたが伝わらなかった。
この自分とは違うタイプの友人を、俺は意外と気に入っていた。
裏表なく付き合ってくれているところもだが、さっき本人が自慢していた噂話ネットワークも確かに使えるのである。佳那もある意味では“協力者”と言えた。
「たしかデスクは、棚の奥だった」
俺のデスクは、比較的出入り口の傍にあるのだが、奥の方は書類棚が邪魔で普段は見え難くなっていた。ソコは課長の席からも影になっていて、影のように棚の奥に居るから、彼らの事を一まとめにして“棚の奥”と呼んでいた。
「そういや、あいつ。由宇ちゃんのことが好きみたいだぜ」 .
「ふうん」 .
その話は軽く受け流した。もしかしたら佳那は俺たちの関係を、本当は知っているんじゃないだろうか。
「他にも、さっき話した殺された秘書? の、沙耶ちゃんも好きらしくて、秘書室に通ってたらしい」
「俺じゃなくて、佳那と似てるよ。気が多いところなんか」
「バカ言え、俺はモテてるんだ。あいつとは違う」
「でも俺とは似てるんだろ」
「まあ、いいから聞けって。一年前の話なんだけど、一緒に外回りしてる時に、けっこう話すことがあったんだよ。何でも学生時代からネットにはまり込んでたらしくて、うちにもそれが理由で採用された、みたいなこと自分で言ってた。そしてさ、しつこい位に自分が作ったサイトに来てくれって言われたんだよ」
「出来の良さを自慢したかったんじゃないの?」
「あんまりしつこいんで、一度覗いてみたんだけど、意味わっかんないトコでさ」
どうしてこんなに、その逆井という奴の話で盛り上がっているのか、正直俺には佳那の真意が読めなかった。
「うちの会社の人間らしい奴も出入りしてたみたいだけど、なんか、人でない存在が人を操ってるとか、何とか書いてあって。遊んでるのかと思ったら。それがマジなんだよ」
話を聞き続けていて良かった。
「ま、アニメか、超常現象? を信じてる連中の集まりみたいだった。お前とか好きなんじゃない?」
「いつの話?」
俺は興奮して、もう一度、強く佳那の上着を掴んだ。その手を彼は面倒臭そうに振り解いた。
「だからぁ、俺が担当してた時だから一年前の話だよ。何だよ、皺になるだろ、お前」
「逆井……」
「ああ。お前、そのサイトに行ったコトあるんじゃないのか?」
「ないよ。そんなのには」
すると佳那は、急にこちらへ向き直った。
「お前ってさあ、何に興味があんの? そういやお前とそんな話したこと無いけど。仕事に真面目って訳でも無さそうだし」
俺はイスから立ち上がって、喫煙室のドアに手をかけた。
「たしかにお前は軽そうなのに、けっこう仕事は真面目にやってるよな。今度のプロジェクトもお前のアイディアが通ったし」
「スネんなよ。普段の行いがいいんだよ。お前も、もう少し人間関係に気を使え。あんまり一人で行動してると、仲間外れにされるぜ」
「俺、もう戻るよ」
佳那を残して、先に喫煙室を出た。
入れ替わりに同じ課の女子社員が二人入って行った。ドアを閉める寸前、佳那の軽い声が聞こえてきた。
情報量が増えてきた。
あながち佳那の言う噂ネットワークも否定できない。




