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出社すると、さっそく由宇が佳那へ話しかけているのを見かけた。
誘われていたデートを断ったらしく、佳那が落ち込んで、部屋に入ろうとした俺の横を無言で通り過ぎた。
しかしそれから数時間後に、別の件で落ち込むことになったのは、今度は俺の方だった。午前から午後一時くらいまで続けられた会議は、俺にとって散々な結果に終わったのである。会議で披露した俺の意見は、重役の失笑を買っただけだった。
由宇に話すようには、うまくいかなかった。
結局、会議では佳那が出したアイディアが採用されることになった。それだけでなく佳那は、しっかり反対されるような箇所の修正案も用意していたのである。反対意見しか展開できない俺よりも、具体的な修正案を出した佳那の方が建設的だったことは、俺も納得せざるを得なかった。
多くの支持者を得られなかった俺は、どうやらエンターテインメントには向かないようだ。
会議室を出てから、佳那に声をかけた。一応笑顔をしてみせた。
由宇の言葉ではないが、やはりある程度の対抗心があったみたいだ。心中はそれほど穏やかではなかった。
「……そう言えば、アレは自殺だったらしいって」
佳那と二人で歩いていると、給湯室の前で気になる単語が飛び込んで来た。中で事件の噂話をしている連中が居るらしい。
落下した小林鏡子は自殺だったと、どうやら警察が発表したという事だった。ちらりと覗くと、同じ課内の男が、女子社員に物知り顔をして語っていた。
結果が出るには随分早い展開だが、自殺という方向で捜査しているという意味だろう。
明るい声に反して沈んだ目をしている佳那は、それからずっと沈黙していた。
今夜、小林の実家に向かう由宇のことが心配だったが、俺にも、どうしても外せない用事がある。昨夜の相手の動きを考えると、それほど予定を伸ばす訳にもいかなかった。
佳那の肩を軽く叩いて課のフロアに向かう前に、俺は“協力者”ヘメールを送った。
今夜を、実行日とした。
あいも変わらず、顔色一つ変えず、黙々とパソコンを操作している上司、伊東克久に会うという、とても重要な用事だ。
小林鏡子に関する事も、もしかしたらその時に判明するんじゃないかと、俺は考えていた。
午後の日差しが眩しく廊下に照り返っていたが、俺はそれさえも凌駕する闇を睨みつけた。
光はすぐに失われ、黒い時間帯が感覚以上の速さで訪れた。
スマホを切ると、俺はギアを一速に入れた。
由宇が気がかりで電話してみたが、昨夜とは違い今夜は何とか、しっかりしていた。
取り合えず安心した俺はアクセルを踏み込んだ。軽く後輪がホイールスピンすると、僅かにリアが左右に振れた。
“協力者”から送られてきたメールを頼りに、貸しコンテナの中にあった大き目のバッグを二つトランクに放り、俺は目的地へと車を疾走させた。由宇に電話したのは、その途中だった。
今夜の目的地は、すでに確認済みである。
すんなりと駒原町二ノ三にある“城川エンジニアリング″の看板が見える場所まで来てから、ビルの正面で車を強引にUターンさせた。甲高い音を夜闇に反響させても、幅広のタイヤのグリップは失われなかった。
脇道が視界に入り、そこへ構わず愛車の鼻先を突っ込んだ。
その脇道は、大きいものでも、業務用の小型トラックくらいしか通れないだろう道幅しかなかった。
時折あらわれるパイプなどの左右の起伏を、フェンダーぎりぎりでかわしながら、三百メートルくらい進み、さらに左折した。そのまま十数メートルほど進むと、倉庫やビルに囲まれた、少し開けた場所へ出た。
押し潰されそうな重圧感を受ける空間だった。
暗闇の中で目を凝らすと、雑草が生い茂った空き地がすぐ傍にあるのに気付いた。その空き地の中へ車を入れて無断駐車させた。
強く傾斜したフロントガラスから見上げると、月の光は雲に阻まれていた。
車内はまだエアコンがきいている為、外界の気温は感じないが、太陽光の温度を失った夜気が、皮膚を厳しく責めそうだった。
エンジンを切った俺は、助手席に放っていた上着を羽織ると、傍らの懐中電灯を手にして素早く降車した。
吐く息が白い粒子となって、冷気に溶け込んだ。
後部ハッチを開け、二つのバッグを自分の方へ引っ張り寄せた。手にした懐中電灯の明かりを向けて、バッグの中身を照らした。
その中身を見て俺は息を飲んだ。
一挺の大型銃と、その銃に似合った巨大な弾丸が詰まった弾倉マガジンがいくつか、そして特注品らしいホルスターが 入っていた。銃を手に取ってよく見ると、専門雑誌で見た事のあるモノだった。確か『デザートイーグル』とかいう名前だった。ただ雑誌で見たモノとは、明らかに市販品とはどこか違っていた。
全体がマットブラックで月の光も反射していなかった。左側の小さな刻印を読むと、『BLACK EAGLE-13mmMAGNUM』その下には驚く事に『SHIROKAWA HEAVY INDUSTRIES』とあった。俺は慌てて右側も見てみたら、そこには確かに『MADE IN JAPAN』と、ご丁寧に極々小さな日の丸まで刻んであった。
俺は知らなかったが、実は“デザートイーグル”より若干肉厚に仕上げてあった。
それは弾丸の威力がそれだけ強力なことを示している。“13mmマグナム弾”など俺は雑誌で見た事は無い。
つまり“奴”専用ということらしい。
“協力者”と出会う前の俺は、当たり前だが一般人であり、銃なんか手に入れられなかった。それまでの“奴”との戦いは、多くは刃物だった。大型ナイフなどの刃物系なら何とか手に入れられたからだが、戦いはまさに命のやり取りの繰り返しであり、何度も命の危険を感じた。
それが“協力者”と勝手に呼んでいる相手に、メールでそんな話をしたところ、ある日、街の外れにある貸しコンテナを指定された。向かってみると、そこには一つのバッグが置いてあった。開けてみると、中には銃が入っていたのである。後日、専門雑誌で確認したところ、アメリカでは比較的メジャーなオートマチック式の銃だと知った。ベレッタM9A1とかいうモノだった。
さすがに最初は、銃を使うことに葛藤と躊躇があったが、否応なく押し寄せる現実は、悩む余裕を俺にくれなかった。
自分に力をもたらしてくれる相手が誰で、何をしている人物なのかなど、どうでも良くなるほどの敵だったのだ。
“奴”との戦いに臨むには、まず勝つ手段が必要であり、加えて死ぬ訳にはいかない。
正体不明の“協力者”が、結果的に自分を落としえる存在だったとしても、その前に“奴”を倒すことができればいい。そんな単純な思考でなければ、生死をかけた戦いなど続けられない。
大口径の銃口から力の奔流を感じさせる大型銃は、以前の生産品よりも、明らかに有利だろうと俺に判断させた。
バッグから取り出した、オートマチックタイプの銃の握り(グリップ)内に、マガジンを叩き込んで、遊底スライドを引き、初弾を装填した。
見ているだけで力を感じさせてくれる、この銃だったら“奴”との戦いにおいて、有効な味方となってくれるだろう。そう考えている途中で俺は苦笑した。由宇の嫌がる顔が脳裏に浮かんだからだ。
銃をバッグに戻し、もう一つのバッグの中身も照らした。そこには予備のマガジンがいくつか入っていた。その中に一つだけ、他のよりも長目のマガジンがあった。別に確かめもせずバッグを閉じた。
銃を持って行かないのは、なるべく邪魔にならない為だ。いざとなれば、“引き寄せ”ればいい。
気温の低さに苛立ちながら作業を終えた俺は、後部ハッチの縁に手をかけて、あまり力を入れず下げた。乾いた音が夜気を振動させ、想像以上の音が閑散とした夜闇に響き渡った。
音は周りのビルに反響しながら、やがて遠ざかり消えていった。
慎重に音が消えるまで待ってから、念の為に周囲の気配を探ってみた。異常が無いのを確認して、冷たく湿った空気を掻き分け、ビルの裏口へと向かって走った。
覆い被さってくる不透明で巨大な暗さが、光を押しのけていた。
薄汚れた鉄製の扉の前で立ち止まってから、おもむろに建物を見上げた。
コンクリートの壁が冷たそうだった。そのまま視線を上げると、夜空が目に入った。
漆黒の世界に星の光は無かった。果ての無い底を持ち、視界の端まで広がる夜空。
世界が閣の中に埋もれている。暗闇が貪欲に世界の全てを飲み込もうとしている。それは際限の無い食欲である。
夜の街を包み込んでいる妖気が、目前のビルに凝縮されていた。
いつもそこに建っていた筈なのに、今この瞬間に、この場所に出現したかのような、周囲の環境とはそぐわない、異形の存在へ変貌していた。
ただ、確かな事もあった。
このビルの中で“奴”が俺を待っているという事実だ。
目の前のビルを、殺意を持って睨みつけた。
意を決して鉄製の扉のノブを稔った。鍵は掛かっていなかった。
これは事前に確認していた。警備員が交代するのに出入りしやすいように、交代時間の十分前後はこうして開け放してあるらしい。“協力者”からの情報である。
金属が擦れ合う音に気を使いながら、扉を慎重に開けた。
開く時とは反対に、金属製の扉はスムーズに閉まった。閉まりきる時の微かな金属音だけが、ビル内に小さく反響して、建物の奥まで駆け抜けた。
脳内で成長した警戒心がサイレンを鳴り響かせ始めた。この数年で身に付いた無意識の行為である。用心深く辺りの気配を探ったが、殺気は全く感じられなかった。
警戒を怠らず真っ直ぐ階段へ近づいた。
一度、先の見えない階上を見やってから、一段一段ゆっくりと確実に足を置いていった。猫科の肉食動物のようにしなやかな動作を心がけた。突発的な攻撃に反射的に対処出来るよう、なるべく両足には均等に体重をかけた。
開発室のフロアが七階に在ることは、社内ネットワークを介して、グループ内の関連企業データで容易に調べがついていた。“協力者”も、新月市に張り巡らせてあるネットワークに違法アクセスして、伊東に関する人事データを揃えてくれた。それを元に、この一週間の行動から、待ち伏せされていることも予想できたが、危険を承知で追い詰めているのだ。しかし、いつどこから襲ってくるかは見当がつかない。それを考えると慎重に進むしかなかった。
最初の踊り場を過ぎ、何事も無く二階の床を踏んだ。
すぐに奥へ伸びる廊下と、それに沿って並んでいる各部屋のドアへ意識を集中させた。
殺気どころか、生気さえ感じ取れない。
それが逆に不気味だった。
二階で立ち尽くしたまま、三階の方を見上げ、同時に耳を済ます。
静寂と言う音が、内耳の中でしじまを響かせていた。
前に進むしかない。
そう決意した途端、不意に脳の一部が引っ掻かれているような不快さを感じた。
沸き起こった浮遊感に耐えられず、思わず壁に左手をついたが、真っ直ぐ立てなかった。壁に身体を預けて、左手で頭を押さえた。
自分が立っているのか、座っているのかさえ分からないほどに、意識が混乱していた。
「……ぐ」
堪らず坤き声を発した。
やがて耐えきれず、とうとう口を半開きにしたまま、俺はその場にうずくまってしまった。
精神が砕けそうになって、意識が消失しそうだった。
だが消え失せていく意織の中に、妙に鮮明な部分があった。その部分を頼りにして、懸命に意識を集中させた。
「あ、ぐ……く、くそ」
集中する意識の中には、大事な記憶があり、その中で“彼女”が優しく微笑んでいた。
右手に、徐々に力が戻ってきた。
俺は壁に手をついて、何とか身体を起こし、半ば強引に、苦痛で閉じられた両目を一気に見開いた。
「がぁっ!」
自分を取り戻すために発した叫びが、不快な空気を一掃した。
同時に身体全体に力が戻ってくる。
何とか落ち着こうと、激しく繰り返す呼吸を整えようとした瞬間だった。
突然、真後ろに殺気が出現した。
「くそおっ!」
ほとんど無意識に三階へと通じる階段へ前のめりに倒れ込み、殺気を感じた方へ右手を突き出して身構えた。
平凡なる暗闇。
しばらく、そのままの体勢で様子を見た。
視線の先には何も存在しなかった。あれほど明確だった殺気が、一瞬で消えていた。
俺は忌々し気に右手を引っ込めた。
深呼吸を数回繰り返した。心臓はまだ激しく脈動していたが、精神状態は何とか正常に戻っていた。
まだ先は長いというのに、俺の手足はすっかり重々しかった。
“奴”に遊ばれたようだ。
汗ばんでべットリとした右手の平をズボンで拭った。
力を込めて両足に体重をかけてから、二階の奥を見やった。
数回深呼吸を繰り返して、息を整えてから俺は足を踏み出した。
なるべく階段の真ん中を通るようにした。こうすると視界が広がり、行動出来る範囲を大きく取る事が出来るからだ。
より一層警戒心を怠らずに階上へ向かった。何事もなく踊り場を過ぎ三階へ辿り着く。
三階では何も異常は感じなかった。
音も無く、空気さえ動いていない。透き通った、奥まで見通せる闇が三階を支配していた。廊下の奥の方へも意識を集中させてみたが、やはり何も状況は変わらなかった。
どうやらこの階にも何も無いらしい。
次は四階だ。
“奴”との戦いは、つねに緊張を強いられ、ひたすら繰り返される精神的な苦痛と、物理的な戦い以上の葛藤。揺らぎ続ける、命まで奪わなければならないという、戦うことの意味。
それは、誰かを守るためや理想を追い求めるなどの、善良なる目的ではない。
愛した女を失った事への復管、もしくは抗い。
否定はしない。しかし、それとは違うモノも俺の中にはあった。
気配を感じる。
俺は階段にかけた足をピタリと止めた。
いる。確かに何かが、いた。
だが敵意は感じない。
どんな状況にも即座に対応できるように、慎重に階上を目指した。
四階に足を踏み入れた。
視界の中で、気配の主が徐々に露わになってきた。
人、のようだった。数メートル先でシルエットになっていた。
影は伊東ではなかった。まるで殺してくれと言わんばかりに、無造作に佇んでいる。
俺は逆に動けなかった。どうするか、判断がつかなかったのだ。
すると正体不明の影の方が緩やかに動いた。一緒に穏やかな風に似た空気が流れて来た。
窓から差し込む月光が、相手との間に白い長方形を描いていた。
緊張で心臓の鼓動が高まってきた。
近づく影の体の一部に光の筋が走る。相手が光の中に足を踏み入れる度に、その姿がはっきりしていく。
同時に俺の目が驚愕で見開かれた。
言葉が出ず、間抜けに唇を震わせる事しか出来なかった。
相手は記憶の中にある服を着ていた。
その見覚えのあるワンピースは、俺が“彼女”に買ってやったものだ。
体中から力が抜けていく。
顔を見なくても佇まいだけで、相手が誰か分かった。
“彼女”だった。
まだ表情は見えないが、微笑んでいるように感じられた。
だが、ここに居る筈が無い。俺の目の前に現れられる訳が無い。
胸元の辺りまでを光の中に投じたところで、不意に“彼女”はその歩みを止めた。まだ二メートルほど離れていた。
俺は幽霊など信じない。ましてや妖怪が化けるなど馬鹿々しい妄想だ。しかし、とても信じ難い存在だったが、こうして目の前にすると、その存在を認めざるを得なかった。
大体“奴”の存在と、その戦いの中で現実と化した現象が、俺に認めせざるを得なかった。
彼女の色っぽい唇が光に触れた。
何か声をかけたかったが、どうしても出来なかった。
そんな俺の気持ちを察したのか、何時の間にか目の前に立つている“彼女”は、そっと両手を添えて、そのまま自分の顔を俺の胸へと傾けてきた。
触れたことのある頬の一部が月光で白く光っていた。
「……会いたかった」
“彼女”の声音で意識が目眩を起こした。
幻惑される声は頭の芯を痺れさせ、全身から急速に残りの力を奪い取った。
長い間、待ち望んでいた情景が現実となって、俺の内にあった納得し切れなかった部分を、ざらついた砂で削り取っていく。やがて感情が理性を弾き飛ばす。
俺は両手を“彼女”の背中へ回し、愛おしく強く抱き締めた。
沈み込んでいた感覚が浮かび上がり、刀の鋭さを持っていた意織が丸みを帯びていく。
“彼女”の存在は幻想ではなかった。とても暖かかった。
強制的に押さえ込んでいた感覚が次々と湧き上がってくる。
“彼女”の温もり。呼吸するテンポ。心地良い匂い。
その全てが、今、俺の腕の中にあった。
名前を呼ぼうとしたが、止められない興奮によって消された。
頬に涙が伝うのを感じた。
“彼女”が同じように涙で頬を濡らした顔を上げても、吸い込まれるように光る瞳の中の俺の情けない顔が見えた。
微笑みかけられ、懸命に微笑み返そうとしたが、溢れる想いを押さえきれず、顔を“彼女”の肩に埋めてもたれ掛かった。
「……会い……たかった」
あまりにも強過ぎる想いのせいで、言葉にしようとしても出来ない、という足掻きからようやく解放された。
「……会いたかった……ずっと……会いたかった、よ」
ただ一つの想いだけをひたすら唱え続ける。
延々とコピーを繰り返すように、想いだけが増殖して、俺の脳内の情報を埋め尽くしていった。
頬を伝う涙が止まらない。
ふと、その頬にひんやりとした風を感じた。心地良い風だった。
しっかりと抱き合った俺たち二人を、快い空気が包んでいた。
風がそよぐたびに枝が鳴り、通り雨のような木々の音が周りを駆け巡った。
俺はこの音を、どこかで聞いたことがあった。
顔を上げて周りへ視線を走らせた。
息を呑むしかなかった。
なぜか俺たちは、緑が隆盛した森が左右に広がった、真っ直ぐに伸びる並木道の真ん中に居た。
信じられない光景を目にしながらも、俺はここがどこかを知っていた。これは記憶の中で一番鮮明な場所だ。
「ここは……」
俺は“彼女”から両手を放して、数歩だけ後ずさった。
「……ここは……俺が君を」
ここは、“彼女”と一緒に何度か旅行で訪れた事がある。この風景を、まるで絵画のようだと言って、とても気に入っていた。
だが今の俺にとっては、この風の音や木々の音も、毎晩のように見る悪夢そのものだった。
暖かさに満たされていた心が、隅の方から徐々に冷えていく。
視線を戻すと、俺が大好きだった、あの優しい微笑を形作る唇が、やけに目に付いた。
“彼女”の存在は、なぜか一つにならず、それぞれのパーツだけしか認識できず、朧気で時折歪む姿は、その顔さえ支離滅裂だった。にも関わらず“彼女”だとなぜか理解出来た。
俺はさらに数歩離れてから、右手を強く握り締め、相手の瞳を覗き込んだ。
温柔な笑みを向ける瞳に“翳り”は無かった。
瞳に浮かぶ“翳り”の有無。
“奴”を追い続けている内に、存在の有無を判別する手段として気付いた事だった。人を見る時にその瞳を見るとわかる、とは良く言うが、ある意味それは正しかった訳だ。
外見どころか、普段の言動もほとんど変わらない。いつもと変わらない、自分が良く知っている人。
それが“奴”が現れた瞬間に、全く別の人間へ変化するのである。
その判別の難解さから、戦いにはつねに生死がつきまとう。躊躇は死を意味する。
見た目どころか言動さえ変わらないように演じて、不意に襲ってくるのだ。敵と認識した相手は殺さなければならない。
見た目が変わらない事は、襲われる側にとっては致命的だ。だから区別する方法、判断する方法が、どうしても必要だった。
“彼女”との思い出に浸っていた時に気付いた変化。それが瞳に現れる“翳り”なのである。
確かに言葉ほど確定したものではなく、あやふやな変化に過ぎず、判断する側にも不確定要素が多すぎる。確定された現象ではなく、個人的な主観に基づいた判断法に過ぎない。
だが俺にはそれだけで十分だった。現在までの戦いにおいて非常に重要な要素となり、今のところそれが唯一の方法なのである。
“奴”を追い詰める事だけを考えて、ひたすら追い続けてきた。
そして目の前には今、二年前に殺した筈の女が、想い出のあの場所で俺と向かい合っている。
「射月さん……」
余韻を残す呼び方。
“彼女”は俺のことを、名字で呼んでいた。名前で呼んでも構わないと言っても決して変えず、最後まで丁寧な物言いのままだった。
「あの日からずっと、一人で戦っていらしたんですね」
正面から吹きつけていた風が、軽く渦を巻いて方向を変えた。
「あの時“魔”に魅入られた私を、あなたが撃った日から、ずっと戦っていたんですね」
俺の指先が一瞬だけ震えた。
「……魔?」
動揺したのを悟られないよう、問い返して自分の心を偽った。
「何のこと? 魔って?」
“彼女”は顔を俯かせた。
「……誰でも認識している筈です」
「認識? 認識ってどういう意味? まさか神と悪魔のこと?」
俺はあからさまに顔をしかめた。
「バカバカしい、何を言ってるんだ? 確かに」
確かに、非常識な現象を現実化可能な存在は、それこそ神か悪魔だけだろう。
「だけど、いきなり私は悪魔です、では納得できる訳がないよ」
「信じられませんか? では、どうしてあの日、あなたは私を殺そうとしたんですか? 射月さんだって“魔”の存在を認めているから、この二年間“魔”に魅入られた人たちを殺してきたんじゃないんですか?」
冷静で飾り気のない直接的な“彼女”の物言いは、俺の心を握り潰そうとした。
自分のやってきた行為を殺人だと考えた事は無かった。そんな風に考えてしまっていたら、とっくに壊れていた筈だ。
「信じる信じないは別にしても、射月さんは存在を認識しているでしょう」
「じゃ、あえて聞きたい。君の言う“魔”とは何?」
「私にはわかりません」
俺はため息を漏らした。
「ただ“魔”は、人の心の中に無断で入り込んで来て、人としての道徳心を無くさせます。そして一度魅入られると、受け入れる器として完成してしまい、絶対に逃げられなくなるんです」
自分の知っている情報を俺に懸命に伝える“彼女”は、身体を小刻みに震わせていた。この“彼女”が“奴“の仕掛けじゃないと言い切れるだろうか。
思いきって俺は、一番の疑問を口にした。
「君は……どうして生きてるんだ?」
しかし“彼女”は、別にこれといった反応を見せなかった。
代わりに俺がさらに問いかけようとすると、すっと近寄ってきた。
“彼女”は理性を揺さぶる存在だった。だが俺の中の、さっきから意識に広がる冷たい部分は、より一層拡大していた。
俺は何もせず“彼女”を待っていた。
目前でも、“彼女”の全体像が認識しづらい。
そのままさらに顔を近づけて、俺たちは静かに唇を重ねた。十分な時が流れて、柔らかい感触が離れていくのに未練が残った。
不思議だった。
以前のように、全てを忘れるほどの感動は生まれなかった。願っていた二人の再会が、これほどのツラさを持っていたとは思わなかった。
「すまない」
自分でも何に対して謝っているのか分からない。
「射月さん」
優しい瞳のままの声音が耳に届く。その言葉は胸を狂おしく締めつけた。
「そんな顔をしないでください。私は、あなたの事を愛しています。あなたが死ぬのを見たくないんです。だから……お願いします」
揺れ動く俺の心に染み入ってくる、切実な訴えだった。もう涙は流れなかったが、心を苦しめる哀情は気を失うほどに激しかった。
気の利いた、かける台詞が見つからない。
俺は子供の頃から、いつもこうだった。
近所に住んでいた女の子が好きだった。でも、俺はその娘が苛められていても、どうしてやる事も出来なかった。同じように苛められるかもといった、自分を守ろうとした訳ではない。
ただ、言葉が出なかつた。
いつも、どうするべきか考えている間にタイミングを逸してしまう。社会に出て今の会社に就職しても、それは変わらなかった。
「……俺に……どうしろ、と?」
「生きて欲しいんです」
それは俺にとって、とても哀しいものだった。
「復讐は何も生みません」
「でも」
俺に反論は許されない。すっと動いて“彼女”は、もう一度唇に軽くキスをした。
それを合図にして俺は両目を閉じた。
風が止んでいた。
数十秒間、俺は自分の中から悲しみを追い出すことに専念した。激しく揺れる心から、弱い部分を排除する作業を急ピッチで進めた。
やがて、それは成功して俺は顔を上げた。
瞼を開けると、視界が現実を取り戻していた。
“城川エンジニアリング”本社ビルの四階、月の光さえ無い廊下には、俺一人だけが立ち尽くしていた。
左手で胸の辺りを触ってみた。
少し濡れて、微かに暖かかった。
この階に“奴”の気配は全く感じなかった。
大きく息を吐き出した。
右手を握って、力を込め直す。
俺は、さらなる上を目指して駆け上がった。
軽快に階段を一段一段消化しながら、心の中のどこかが、少し変わり始めているのを実感していた。
勢い良く踊り場を過ぎた時、ゴム底の靴がキュッと音を立てた。
五階に到達すると同時に、不意に、上階から物音が聞こえた。
すぐさま六階へ急いだ。
もう躊躇は無かった。ニ、三段ずつ飛ばしながら階段を上がる。その行動は、決して冷静な判断に基づいたものではなかったが、渦巻く衝動に任せることにした。
復讐。俺と“彼女”の運命を弄び、こんな目に合わせたことへの怒り。確かに感情的な理由もあった。だがそれよりも、もっと根本的な理由だ。
“奴”。いや“彼女”は“魔”と言っていた。人にとっては神と等しき力を持つ、巨大な存在。
話の信憑性よりも、今までの自分自身の経験から、完全に否定することは出来なかった。
人間をいとも簡単に意のままに操り、まるで遊ぶかのように翻弄する。どんな存在であろうと、単純に腹立たしかった。
ムカつく。どうしても許せない。
人が行動を起こす時は、いつも単純だ。理由は単なる後付けに過ぎない。
今までとは違うスピードで、六階を目指す。靴音も構わずに響かせた。
そして、あっという間に六階を踏みしめた。
その瞬間、俺の背後に凄まじい殺気が出現した。
今度は確実にとらえた。
闇の内部から鋭い刃物が、背中に向けて飛び出して来るような恐柿感を伴っていた。
避ける事も受け流す事もままならない。言葉を発するより早く、反射的に振り向き、右手を殺気へ向ける。
しかし、すでに殺気は移動していた。
手を動かさずに周囲へ注意を払う。
人の気は感じなかった。
だが、どこか奇妙だ。
存在を匂わす気配が発せられている。
確かに何かがいる。とは言っても、生物の存在感とは異質な感じだった。
イライラしてきて、左手で頭の後ろをかきむしる。ムカツク。
次々に揺さ振られる俺の精神状態は、キレるギリギリのところで、かろうじて保たれていた。
呼吸を整えようと息を吸うと、今までとは牝べ物にならない圧迫感が押し寄せてきた。
この感覚には覚えがある。初めて知る感触じゃない。伊東を追跡していた時に夜の街に充満していたモノと同じだ。
口の中が乾くのを防ぐために、舌を使って唾液で濡らした。増殖していく緊張と恐怖で、皮膚にチリチリと痛みが走る。無意識のうちに、相手に聞こえないように、呼吸を静かにしていた。
足の筋肉が強張って、むやみに力が入っていた。
それでも、あくまで平静を保ちながら、対象を目指した。
俺の脳内では様々な憶測が駆け巡った。
この状況にも、いい加減慣れてきた。それは、もしかしたら異常な事かも知れない。
だが相手は、もとより非常識な存在である。
牙を持つ相手に対抗するには、こちらもそれなりに牙を磨く必要がある。勝つために自らが悪魔になったとしても、絶対に負ける訳にはいかない。
すると再び視界の先に人影が見えてきた。
影の奥は、先が見えない深遠の闇だった。足元には完全な闇が漂っていて、それが両足にまとわりついて、俺が進むのを拒んでいた。
影からは、またもや敵意を感じなかった。そのせいか俺は、勝手にまた“彼女”かもしれないと思ってしまった。
すると戦うつもりでいた意識の虚を、いきなり突かれた。
それまで微動だにしなかった闇の魂が、猛スピードで突進して来たのである。
「くそおっ!」
視界の中で大きくなる塊りと共に、凄まじい殺気と敵意の突風が吹きつけてきた。強烈な悪意で眩暈を起こしかけたが、俺の身体は何とか対応していた。
何も持っていない右手を自分の目線まで上げて腰を落とす。確実に人影のど真ん中に向けていた。
「くそっ」
だが影の速さは、俺の予想を遥かに越えていた。人間離れして、そのスピードは尋常ではなかった。
俺はブラック・イーグルを“引き寄せ”た。
闇と同化しそうなマット仕上げの大型銃が、構えた右手の中にピッタリと出現した。車で準備していた時よりも、さらに重さを感じた。
考える暇は無かった。俺は半分ヤケになって、左手を添えて、構わず引き金トリガーを引き絞った。
轟音が六階を揺さ振る。
両手で固足した大型銃の力を吸収できる太い銃身を通って、一発の大口径弾が、迫ってくる人影の腹部へ目掛けて、空気を切り裂きながら一直線に突き進んでいく。
両腕を通って肩へ抜けた発砲の衝撃は、俺の全身に強烈な痛みを走らせた。予想以上の反動でブラック・イーグルが、顔面へ向かって来るのをたじろぎながらも何とかかわした。
瞬時に銃の反動の驚きから意識を取り戻して、体勢を立て直した。
圧迫感のある殺気だけで、相手の正体などどうでもいい。確認する間に殺されてしまう。
倒せる確信を持って放った弾丸は、相手の体をのけ反らせた。
だが、相手は倒れなかつた。
俺が発砲する前に避けたのである。心底恐怖したが、事実は俺の見解とは違っていた。どうやら相手は、俺の行動を予測して即座に動いただけだったようだ。
動転してしまった俺の左肩に、止まらない影がタックルしてきた。
そして、そのままUFOのような突発的な動きを見せて、急に体の向きを変えたかと思うと、正体不明の相手は七階へ向かった。
さらに態勢を崩した俺は、それでも何とか倒れずに踏み止まった。それでも馬鹿力のせいで、近くの部屋の扉を支えにするように背中を当ててしまい、その衝撃でガラスにヒビが入った。
「……くそったれがっ!」
歯噛みして、再び全身に力を込めた。
駆け足で奴を追い、息が上がるより先に七階に到達した。
七階には吐き気を催すほどの“奴”の殺気が、鮮明過ぎるほど充満して広がっていた。
ここが“城川エンジニアリング”の開発部門が集中する階。この七階全てが開発室と呼ばれる部署で、室長室は右側に並んでいる部屋の一番奥にある。
闘争心剥き出しで、俺は辺りを睨みつけながら、体を少し屈めて廊下を突き進んだ。
充満する鬼気の中から、自分に向けられた殺気だけを読み取ろうと集中した。渦巻く妖気に息苦しくなりながら、微かな変化も見逃さないよう全神経をフル稼動させる。
一つ目の部屋の前を過ぎた。
すぐに前屈みの姿勢のまま、二つ目の部屋の前を横切る。
掌に緊張で汗が噴き出す。ラバー製のグリップが少し湿った。
暗闇に飲み込まれる錯覚に陥りそうになり、深呼吸をすると、細かい殺意の粒子が体に入り込んでくるようだった。
三つ目を通過した。
廊下の奥に意識が吸収されかかる。もちろん現実には身体的に何の問題も無かった。足は着実に室長室へ進んでいた。
四つ日の部屋の前を通る。
「はあ」
わざと声を出した。そうしなければ現実感が喪失しそうだった。
立て直そうと足を止めようとしたが、立ち止まれない。気持ちが少し先走っていた。
ちょうど五つ目の部屋の前にさしかかった。
その時、空気が激しく動いた。
「くそっ」
失われていた聴覚と視覚を強引に取り戻した瞬間、部屋の扉が、何の前触れも無しに一気に開いた。続けざまに黒い影が、開け放たれた部屋より飛び出して来た。
「ぐあっ!」
またもや激しく体当たりされ、無様な声を発しながら、俺は反対側の部屋まで吹き飛ばされた。
衝撃で向かい側のドアのガラスが割れ、その破片が頭に降り注いできた。
呼吸器官が一時的にマヒした。形容し難い様々な苦痛が、どっと頭に流れ込んで来た。意識が遠のいていく。
「く……」
失せかける意識に反発して体に力を込めると、さらなる激痛でもがいた。それでも懸命に耐えながら、それを何度か繰り返した。体に動けと強制する為だ。そのうち閉じられた目をこじ開けようとした結果、うっすらと視界が広がってきた。
力を込めて目蓋を開けた。
俺は両手を支えにして、何とか上半身を起こした。乱れる呼吸を整えようと努力しながら、正面をきっと見据えた。
「い、づき、くん? 君は射月くんか?」
この状況にそぐわない、穏やかな感じで名前を呼ばれた。
黒い影が仁王立ちして、百七十センチの俺よりも大きく見えた。
暗闇が濃く、身体の一部と顔だけが、かろうじて見えていた。瞳の“翳り”までは確認できなかった。
「……射月くん、か?」
再び問う、毎日のように顔を会わせていた伊東克久の、こんな表情は初めて見た。伊東は、俺を見て驚いていた。
「課長……」
警戒しつつ、ゆっくりと立ち上がった。こうして相対しても、俺より十センチほど低い背丈が、横幅があるせいか、数値以上に大きく見えた。
すると伊東は俺の手にある銃を見て、さらに声を上げた。
「どうしたんだ、ソレは?」
当然と言える反応だ。日本で堂々と銃を振り回すなどあり得ない。だが事情を説明する気は無かった。
「どうして」
そう尋ねる伊東を俺は無視した。
「死ぬ前に答えて貰いたい事がある」
普段とは違う俺の口調に、伊東は戸惑っているようだ。だが油断は出来ない。さっきのタックルの威力は嫌というほど認識している。
「お前、いや、お前たち“魔”とは何だ? 何が目的で、こんなことをするんだ?」
会社での様子を知っている者が見れば、今の俺は信じられないほど野獣のように思うに違いない。
「射月くん」
「動くな!」
即座に銃口を対象の顔へポイントする。
「待てっ。待ちなさい、射月くん!」
伊東が慌てて、左手を前にかざして必死で左右に振った。
「動くなと言ってる!」
「待て! 私も君と同じハンターだ!」
トリガーにかけた指がピタリと停止した。何を言っているのか、咄嗟には理解出来なかった。
「これを見ろ。いいか、撃つなよ。ゆっくり右手を見せる」
銃口を向けたままの俺の目の前で、伊東は上着の懐に入れた右手に何かを持って出した。
今度は俺が眉をひそめた。
伊東の手には、同じモノではないが銀色の大型の銃が握られていた。
「……どういう事」
すぐには言葉を紡ぎ出せなかった。
「私を追っていたのが君だったとはな」
「何のことを言ってる!」
さらに態度を荒げると、伊東は手で制するような動きを見せた。
「待て。会社でもあまり話したことがないから、私だって予測出来なかったよ」
「あんた。一体、何者なんだ?」
「君は何者だと思って、こんなところまで来たんだね?」
僅かに間をあけてから慎重に答えた。
「それはさっき、俺へ訴えた事から考えて、あんたも分かっていることだと思うが」
伊東は少しだけ口元を歪めた。
「君はアメリカにある、うちの関連企業を知っているか?」
伊東が何を言わんとしているのかが、僅かに見えた。
「まさか……コレは」
自分の手へ視線を落とす俺へ、伊東は手にした巨大な銃を掲げた。
「そこで試験的に作られた、市場には出回っていないモノだよ。もちろん私や君のようなハンターが使うように開発された」
“協力者”を通して手に入れた、銃の出所を聞いて、俺は次の動きが取れなかった。
「射月くん。射月くんが私と同じように“奴等”を狩っていると知って、正直とても驚いたよ」
伊東と話しながら、俺は別のことを考えていた。
どうも、この展開が腑に落ちなかった。もし、伊東の話が正しいと仮定したら、俺に協力してくれる者は何者なのか。今までは務めて気にしないようにしていたが、どうやらそうもいかなくなった。
「君はどうやら何か考え違いをしているようだ。我々は、同じ穴のムジナなんだ」
今時、そんな例えをしても、分かる若者がどれだけいるだろう。
「分かってもらう為に少し話そう。私が“奴等”を追うきっかけになったのは、三年前、妻を殺した日からだ」
聞いてもいないのに、伊東は自分の身の上を話し始めた。俺に仲間意識を持たせるつもりか。
「今でもあの事件が、なぜか表沙汰になっていないのが不恩義だが。君はそんな事がなかったかね?」
この事については、俺も疑問に感じていた事だ。俺が起こした筈の事件も、どれ一つとして報道されたのを見たことがない。
「その理由は、それが出来る存在が我々のバックにいるからだ。ま、とにかく、それから私は“奴等”を追っているんだ」
どこかで聞いたような話だ。俺の経緯に似ている。内心、この男の話を信用し切れなかった。
「ところで君は、“奴等”が何なのか知っているかね?」
そう問われても、俺には答えられなかった。自分だって悪魔のような存在だと説明されたばかりで、まだ納得できていない。
「そうか。やはり君も知らなかったか」
伊東は落胆を表現して、これ見よがしに視線を落とした。
「正体不明の獲物を追うのは辛いもんだな。私も最初はそうだった」
「伊東さんは、俺が追っているのを知ってたんですよね。ここで何をしているんですか?」
質問には答えず、逆に尋ねてみた。あまりにも伊東の態度が大人しいもので、俺の口調も段々と優しくなってきた。
伊東は怪訝な顔をしたが、急に軽い調子で答えた。
「今更隠しはしないが、本当に相手が君だとは知らなかったんだ」
相手の態度で徐々に軟化してきた。俺は何とか、伊東の一挙手一投足に注意し続けた。
「私には色々と協力してくれる者がいてね。その彼がメールで、私が何者かに追われている事を.教えてくれたんだよ。ついでに、ココに“奴等”と関係するような人物の痕跡を見つけたとかで、それを調べてみてくれと言われてね」
「協力してくれる、人ですか?」
「ああ。ま、ここは私が元々勤務していたところなんだが、私の後に着任した男が、グループにとって損失を及ぼすような怪しい動きをしていたから、社内ネットを調べたところだったんだが、結局、それらしい証拠は何も見つからなかった」
何かがおかしい。明かされていく内容が、自分の首を締めるような感覚を伴っている。
「君は一人で戦っているのかね?」
「伊東さんは、その人物とどこで会われたんですか?」
「ああ。一人で戦い続けるのに疲れた頃だから、一年前くらいだったかな。だが、直接会った事は無いんだよ」
嫌な胸騒ぎがする。
喉が締めつけられるように感じて、俺は左手で自分の喉を撫でた。
「ある日、電話で連絡があって、指定された場所に行ったら、この銃とメールアドレスが書かれた紙切れを見つけた」
俺は喉の奥で唸った。真実の映像が二重にずれて、歪み始めた。
「そうだ。君にも紹介しよう。仲間は助け合った方がいいだろ」
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「何だね」
伊東は右手の銃を弄ぶようにプラブラとさせた。
「うちの課にいた、小林鏡子を知っていたと思いますが、間違ってますか?」
「いや、間違っていないな」
伊東はすんなりと認めた。
「彼女は悩んでいたよ。私は、その悩み相談を受けていたんだ。何でも、自分が自分じゃなくなる時があって、それまで付き合っていた恋人を傷つけてしまうんじゃないかと心配していた。君ならこの意味が分かるだろう?」
「じゃ、小林は“奴”に?」
「彼女はあの通り社内でもおとなしかったし、どちらかというと友人も多くなかったようだ。イメージの固定した他の者より、私のような新参者の方が話し易かったんじゃないか。時々、会って話をするようになったよ」
「では、小林は普通に自殺だったんですか」
普通に、という言い方は変だったが、俺が経験している事に比べたら、まだ日常的だろう。
「いや、それは違うだろう。たぶんあれは私たち以外のハンターがやったと私は思っている」
「他に?」
「私の前では“奴等”が持っている“影”は感じなかったが、失敗作だったんだろうな」
伊東が言っている“影”とは、俺が言うところの瞳の“翳り”の事らしい。人によって感じ方が微妙に違うのかも知れない。だが、悪魔のイメージがそれほどの違いを生まないように、闇の存在というところは共通の認識のようだ。
これだけ話を聞いても、違和感は拭えなかつた。やはり、おかしい。伊東の話には、どこか肝心の部分が、意図的に隠されているように思えた。
小林の話をとっても、ただ相談を受けていた。それなら小林の伊東に対する、あの怨念のこもった視線の説明にはならない。
相手に気づかれないように、俺は密かに銃を力強く握り直した。
「さっき、グループの損失と言いましたが」
「ああ。もちろん、我々が働いているこの会社全体を指す意味だ」
「小林が失敗作というのは?」
「それは後日でいいだろう。まだここで調べものの続きがあるから」
その続きを、軽やかな電子音が遮った。
「あ、すまん」
伊東は慌てて上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、身体の向きを向こうへ変えた。
液晶画面を注視しているようだが、伊東の顔が見えなかった。
すると、みるみる男の雰囲気が変わっていくのを、全身の感覚器官が感じ取った。
スマホの画面、おそらくメールだろう、を見ていた伊東が、突然今までとは違う低い声を発した。
「……射月くん」
建物中に満ちる声音は、闇を引き摺っていた。
「なるほど。君が敵だったとはね……それは、考えなかったよ」
語尾を伸ばし気味で振り返った伊東の瞳には、はっきりとした“翳り”が浮かんでいた。
俺と目が合うと、“奴”は嬉しそうに口元を変形させた。
「ハンターが取り込まれるとは、間抜けだな、射月くん」
伊東が瞬時に距離を縮めて来た。
俺の指先が反射的に動く。だが、発砲したのは伊東の方が早かった。
巨大な破裂音と同時に、顔の横を弾丸が横切り、空気の塊で側頭部を殴られた。一瞬の判断が間違ったことに気づいた時には、伊東の目前で身体を沈み込ませた。
平衡感覚を一時的に失って対応できない俺の足が、いとも簡単に掴まれ、すぐさま持ち上げられると、後ろに放り投げられた。
自分が、こんなにも軽かったのかと誤解するほどに宙を舞った。激しい肉の普を発して、向かいの壁へ豪快に叩きつけられた。
呻き声も上げられず廊下に落ち、うつ伏せで激しく咳き込んだ。
それでも必死に起き上がろうとして、何とか体を横に向けた途端、近づいて来る伊東の姿が目に入った。
強烈な衝撃が、正常な意識を吹き飛ばそうとする。
立ち上がろうと努力したところへ、蹴りがいきなり入った。胸骨が不快な音を立てて、激痛が脳を突き刺した。何かが喉を上がってきて咳き込むと、口から少量の血が飛び出した。耳の奥には、鉛が詰め込まれるような感覚が襲い、現状認識力を急速に低下させた。
本能が死を直感した。
それでも俺の意思の外にある無意識は、反撃しようともがいた。
しかし俺の右手からは、銃が消失してしまっていた。壁にぶつかった拍子に、どこかへ飛ばされてしまったらしい。
苦鳴を発しながら視線を動かした。どこかに転がっている、闇に紛れる銃を探し回った。
そこへ容赦無く二撃目の蹴りが入った。
生への絶望感が、心の片隅に小さく生まれようとしていた。
そして三発目の蹴りが入る前に、ありったけの力で、左側へ身体を転がし間一髪でかわした。
対象を失くした伊東が蹴り損なって仰向けに倒れた。
このチャンスを、俺は見逃さなかった。
苦悶しながら、死に物狂いで動き回り、懸命に銃を探し求めた。
立ち上がった男の足が一歩一歩、動くのが視界に入ってきた。“奴”はもう態勢を立て直していた。やはり、すでに人では無い。
激痛が走る胸を左手で押さえて、視覚をフル稼動させた。
「射月くん、私が助けてあげようか?」
からかうように伊東が告げた。
中年太りの伊東は、見た目に反した運動能力を発揮している。明らかに俺はミスった。
「射月くん」
伊東は楽しそうだった。
「君は、狩るのが楽しいと思ったことはないかね? ま、私も最初は妻の復讐だったんだよ。それは嘘じゃない。だがね、何人もの人間を殺していくうちに、だんだんと楽しくなってきてしまった」
床を這いつくばって銃を探す俺の姿は、とてもみっともなかったろう。その様子を見下ろしてか、背後から伊東の笑い声が聞こえた。
「生きるのは大変そうだね」
馬鹿にされても、俺は床を這いずり続けた。
「私をバカにしている奴を殺す理由が出来た時は、内心、飛び上がりそうに喜んだもんだよ。全く、関連企業といえども、実質降格されたも同然のことをされたんだ。そんな私に優しくしてくれるどころか、それを理由に私をあっさり見限った。あの女の姿に“影”を見た時は嬉しかったよ。喜んで殺してやった。手足を撃ち抜いて、腹を開いた時の、あの女の顔」
伊東は完全に愉悦に入っていた。
「だから、自分の新しい役目を得た時は、心底嬉しかった」
本来の目的を見失い、殺人者となった中年男の告白を強引に聞かされながら、半分締めかけていた、その時だった。
その大型銃は、三メートルほど先で俺を待っていた。精神を集中しようとしたが、呼吸困難で思うように出来なかった。
場所さえ分かれば“引き寄せ”られるのだが、そこへ貫通するかと思われる程の威力を持った蹴りが叩き込まれた。
「死に直面した人間は、不様でバカ丸出しだな」
俺の体は空中へ一メートルも舞い上がり、加えて落下した勢いで床からも衝撃を受けた。たまらず胃の内容物をぶちまけた。
「ええ? 失敗作となったモノは、ただの廃棄物だよ、射月くん」
失敗作? 伊東の言っている意味が理解できず、ただもがいていた。
そんな俺を、無感情な“翳り”のある瞳で“奴”は見下ろしていた。
醜く歪んだ口元とは違い、とても冷たい眼差しだった。
死がすぐ傍で俺を待っている。
この二年間で、一度も味わった事のない感情が生まれた。
絶望が生み出す恐怖。
それは“奴”への畏れだった。
恐怖にかられた俺は、半身を起こした姿勢で左側へ逃げた。
「あ、ああ……」
広がる恐怖が、みっともない声を吐き出させる。
戦う気が、どこかへ失せていた。
ただ怖かった。このままでは殺される。
何よりも、それが恐怖だった。
逃げたい衝動に駆られた。いや、俺は実際逃げていた。床を這いずり、ただ生きたいという衝動だけで不様に逃亡した。
追って来る伊東は、その様子を見て楽しんでいた。無邪気に笑い転げていた。
怒りが湧き上がる余裕さえ、俺には無かった。素早く動こうとすればするほど逆に動けなくなる。
逃げようと焦ると、余計に体に余計な角担がかかり、状況が生み出すジレンマで恐怖感が増していく。
それでも俺は逃げ続けるという、無駄とも思える努力を続けた。
そうしている内に俺は、伊東を回り込むように移動していた。
指先が硬いモノに当たり、小さな痛みを感じた。行き詰まりの壁と思い、果てしない絶望感で、そちらへ咄嗟に視線を移した。
あまりの歓喜で、呼吸をするのを忘れるという感覚を、俺は初めて経験した。
窓から差し込む月光を吸い込む俺の闘争心が、静かに、ひっそりと動かずに佇んでいた。
「鏡子も失敗作の癖に俺の言う通りにしていれば、性欲にまみれた快楽だけの生活を送れたろうに。ツマラない女だったよ。その上、誰か分からない奴の子供まで孕むとは」
哀れに思う気持ちは、全く無いらしい。
話を聞いていた俺の中からも、感情が消失していた。
銃を見た瞬間に、あれだけ感じていた恐怖が、不思議な事にすっかり取り払われていた。
同時に周囲の情報が一挙に飛び込んでくる。
“奴”が構える銃口が、俺を真っ直ぐに見ていた。
銃に意識を集中して右手に“引き寄せ”た。俺はまだ馬鹿笑いを続けている伊東へ、狙いもつけずに銃口を向けた。
「そうだ、君は知っているかね? その馬鹿な女は、あの調子の良さしか取り柄の無い佳那の腹違いの妹だったのを。全く、傑作だ」
自分の悪趣味さをカミングアウトしまくった中年の男は、俺の銃口に気付き、陰気な笑顔を固まらせた。
今度は、全く躊躇せずにトリガーを引き絞った。
大口径弾の轟音がビル中に響き渡り、伊東の胸の一部に、瞬時に穴が穿たれた。
しかし伊東は倒れずに、自分の口から滴る血を舌で砥め取った。
それでも俺の攻撃衝動は止まらなかった。
両手で握るブラック・イーグルから、銃自身の力が流れ込んで来るようだった。
取り戻した自信がそうさせたのか、混濁した音識のせいか、自然と口元が笑いの形に変じていた。
俺は興奮したように、二発目のトリガーを引き続けた。
巨大な閃光と爆音が目前で破裂し、反動で顔面に向かって来る銃をかわす。
照星フロントサイトと照門リアサイトを通して、伊東の顔が見えた。二発目は銃を握っていた伊東の右手を粉々に吹き飛ばしていた。
だが、それでも伊東は平然としていた。
“奴”に“魅入られた”者は、まるでゾンビのようになるのだ。
今まで処分してきた連中もナイフで刺した位では死ななかった。
それは銃でも同じだった。
倒すには、ゾンビと同じように体と頭部を離すしか、他に手立ては無かった。
俺は三発目の狙いを定めた。
と不意に、男の瞳から“翳り”が消えた。
自分に向けられた銃口を見て、伊東克久の顔が恐怖に変化した。
遮ろうとするつもりか、伊東は顔の前に右手を上げた。だが手首から先は吹き飛ばされて、すでに存在しなかった。
阿鼻叫喚の表情で、“魅入られた”者は口を大きく開けた。言葉は発せられる暇は無かった。
「たしかに不様ですね、課長」
俺の声はすぐに闇に溶け込んだ。
三発目は確かに頭部を粉砕した。伊東だった“奴”の身体は、どっと崩れ落ちた。
激しく繰り返す呼吸。全身に吹き出した汗。
痛みを伴った脱力感で、何の感想も無かった。伊東の死体を見下ろして、俺の心は寒々としていた。
「はぁ」
声を出しながら大きく息を吐いた。
この脱力感は、焦燥感なのかも知れない。
俺がただの人殺しではないという確信。
“奴”の存在を認知できない人の目には、俺はただの人殺しに過ぎない。
倒れそうになるのを堪えて、傷ついた体を支えながら、伊東の死体へ近づいた。伊東の傍らにしゃがみ込むと、上着のポケットを探った。変貌する寸前に見ていたスマホ以外には、これといったモノは見つからなかった。
俺は、そのスマホを手に取り、ブラック・イーグルを“消し去”った。
疑念が湧いても、その疑念を打ち消すものを、何も持っていない。
待ち受けている未来は、不安と焦心。
それは先の見えない、永遠に続く生き地獄といえた。
“彼女”は“魔”だと言った。しかし伊東は、企業がらみの仕事のような事だと言った。
俺が追い続けている対象とは、何者なんだ。
それは、真実を知っている者に聞くしかない。




