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白は光。
黒は光が無いこと。
違いは光の有無。
しかし、光は影を生む。
本来なら会社からマンションまでは、車で四十分くらいだった。
だが、会社を出た俺は愛車が無いのに愕然とした。代わりに駐車禁止を表すチョークの跡が道路に残っていた。
スマホで警察のサイトにアクセスしてみると、確かに俺の車は持って行かれていた。三十分前だったようだ。後日、引き取りに来るようにと明記されていた。
「何だよ。くそっ」
こんな夜更けに、駐禁をしてるとは非常識だ。
毒づきつつも、俺は辺りを見回した。
深夜という時間帯のせいか、交通量は極端に少なかった。タクシーを拾おうとしたが、これもほとんど走っていなかった。それでも離れた通りまで歩いて、何とかタクシーに乗れたのは、会社を出てから三十分も経っていた時だった。
ようやく捕まえたタクシーの運転手は、眼鏡をかけた中年の男で、眠たそうに目をこすっていた。少し運転を心配したが、無事にマンションに帰り着いた。
結局マンションの前に着くまで、一時間を越えてしまった。
エレベーターから出ると、静まり返るマンションの通路に、ゴム底の湿った音が響いた。
静かに鍵を開けると、室内の空気がゆっくりと動いた。気を使いながらドアを閉め、俺は足音を消すようにリビングへ入った。
レースのカーテンを透過する夜の明かりが、ぼんやりと室内を浮き立たせていた。
バッグをソファに放り、俺は寝室のドアをゆっくりと開けた。
聞き慣れた空調が唸っていた。
彼女はベッドの中に居た。
明かりは点けなかった。
由宇を起こさないように、ベッドを軋ませず、彼女の傍らに座った。
「……由宇」
彼女の寝顔は静謐な気持ちを俺に抱かせた。
「由宇」
何度でも彼女の名前を呼びたかった。名前を呼ぶことで、彼女への想いを自ら確認したかった。
寝息を立てている彼女の髪に指を絡ませる。そこから指を滑らせて、柔らかな耳を触った。
すると由宇は、軽く身悶えた。
「可愛いね、由宇は」
そう呟いて俺は、その寝顔にキスした。
「ううん?」
悶えるような色気のある声を発して、彼女は目を覚ました。
「またぁ?」
「何、寝ぼけてるんだ。今、帰ったよ」
「ん? シズカちゃん?」
「ただいま」
俺に抱きつきながら、体を起こした彼女は、何も身に付けてなく、その魅力的な裸身を月光に晒した。
「何で、そんな格好で寝てるの、由宇。風邪ひくよ」
俺は、彼女が自分を驚かそうとしたと考え、小さく笑った。
優しく微笑む由宇の顔が近づいてきた。
「ね、シズカちやん」
「うん?」
彼女の瞳の中に、俺が写り込んでいた。
俺は唇を重ねようと、そっと顔を近づけた。由宇は拒否しようとはしなかった。
だが、ある言葉で俺の動きは制された。
「シズカちゃん、本当に人殺しになったじゃない、どうするの?」
全身が凍りついた。
呼吸をするのも忘れた。
「何を……」
聞き間違いだろう、と思った。
「由宇……何か、悪い夢でも、見たか?」
そう言った割には、俺の言葉は途切れ途切れになってしまった。
半身を起こした彼女は、露わな胸を隠すように毛布を持ち上げた。夜の色に染まった剥き出しの肩が、妖しさを醸し出していた。
「どうしたんだ、由宇?」
閉まっている窓の方、由宇から風が吹きつけた。
意志とは無関係に、自然に身体が動き、ベッドから素早く離れた。
吹きつける殺気の奔流を視線でかき分けると、その中心で邪気の元が微笑んでいた。今まで感じた事の無い、凄烈な妖気だった。
彼女は両手で髪をかき上げた。
どうしても信じ難い俺を、由宇は優しい口調で告げた。
「今まで“魔”だけを狩ってきたのに、ホントの人殺しになっちゃって。どうするの?」
「由宇……何を言ってるんだ?」
事態が把握出来ず、脳の活動が鈍っていた。
認めたくなかった。受け入れられなかった。
「あのね、シズカちゃん。話があるんだけど」
「……何だ?」
寝室に床の方から溜まっていく妖気に反して、いつもと変わらない由宇だった。その瞳には“翳り”も浮かんでいない。
しかし俺の攻撃衝動は、右手を震わせていた。
「簡単に言うとね。あなたの役目が終わったっていうこと」
彼女は佳那と同じ事を言った。
「役目? まさか君も、佳那と同じように、俺を利用したのか? それとも、お前も“魔”か?」
それは独り言に近かった。だが、彼女は答えた。
「佳那さんね。こちらのやっている事に一応有利だったから、彼の行動は見逃していたの。そうね。彼の言う事とはある意味近いかな。内容は全然違うけど」
頭の混乱はまだ続いていた。
「どうして佳那との事を知ってるんだ?」
「どうしてだと思います?」
と、俺の背後で若い男の声がした。全く気配に気付かなかった。
部屋の明かりが点された。
俺は素早く体を回した。
ドアのところには、素っ裸の逆井が卑屈に笑いながら、伊東と同じ銃を手にしていた。
「正確には、新しい狩人が見つかったから。彼がその狩人よ」
呼吸が荒くなった。
さっき彼女が言った『またぁ?』は、俺への言葉ではなかった。
逆井は自分が有利に立っているのが嬉しそうだった。佳那が言っていた通りのタイプだった。
「死んでないのが不思議ですか?」
右手が怒りで小刻みに震えた。
「もちろんゾンビじゃないですよ。その銃弾を塞げる防弾チョッキですよ。企業としたら、矛を作つたら、その盾も同時に作っておくものでしょ? でも、こんなにアザになっちゃいましたけど」
逆井は自分の腹の辺りを撫でた。
「でもね、射月さん。さっきここに、京さんが優しくキスをしてくれたから、もう痛くないんですよ。あ、でも、京さんが強い男が好きだからって言うから、ちょっと我慢してます」
甲高い癪に障る笑い声が、静寂を台無しにした。
「逆井が狩人?」
「うん」
俺の疑問に由宇はあっさりと肯定した。
「だって、逆井は“魔”じゃ」
今でも確かに、逆井の瞳には“翳り”が見えた。
しかし彼女は僅かに頬を緩ませた。
「シズカちゃんは、自分のコトが分かってないんだね」
「何を言ってる。俺が? 分かってるさ」
「ううん。分かってない」
「由宇。いい加減にしてくれよ」
「質問してもいい?」
俺には彼女の話を聞くしかなかった。
「何?」
「ねえ。この街のネットワーク技術が、他より進んでいるのはどうして?」
「……住人の安全と調和。たしか、それが新月市のコンセプトだった。それには、ネットワークの整備が不可欠だと。おかげで、この街は全国的にも注目を溶びた。最新の技術を投入する事は、企業の宣伝効果にもなる。都市開発の場が、事実上、各企業の競争の場になったからだろう」
「じゃ、そのネットワークっていうのは?」
俺は視線を逆井から外さないように気を付けたまま、彼女との会話を続行した。
三者三様の距離は、見事な間の緊張感で保たれていた。
「生活の向上を目的とした情報網。人と人の繋がりを生むコミュニケーション手段の一つにもなっている」
「じゃ、顔を合わせなくても取れる繋がりなんだ」
「いや、それじゃ、ただのメル友と変わらない」
「それじゃ、ネットワークの具体的な形は?」
「それは……今ではインターネットとか」
専門家ではない俺は、自分が馬鹿正直に答えているのをおかしいと思いつつも、持っている稚拙な情報で彼女に答え続けた。
「佳那さんが言ってたでしょ? 噂もネットワークの一つだって」
「それは……」
そして納得しかけた俺を、彼女は戒めた。
「ほら。駄目よ、信じたら。人の話や、テレビなんかで言われているのが、大多数の意見だなんて思っては駄目よ。援助交際をしている女子高生が最近増えていると報道されても、じゃあ全国にいる全ての女子高生が、って思うようなものだわ。不倫にはまる主婦が特集されても、世の中の主婦全てが不倫をしている訳じゃないわ」
話を聞きながらも、反対側にも気を配り続けた。逆井はなぜか身体を左右に揺らしていた。
「報道番組では、珍しくてニュースになる、もしかしたらの、これからを感じさせるから取り上げているのよ。そこを鵜呑みにして勘違いしたら、ただ情報に振り回されてしまうわ。ホントに必要な情報を見逃してしまって、やがて自分を見失ってしまうのよ」
彼女らしくない論理の応酬だった。教師が生徒へ話しているようにも聞こえる。
「あなたは情報ネットワークと言えば、物理的なインターネットを使ったネットワークを考えているみたいだけど、人々をつなぐのは、それだけじゃないのよ。もっと根源的なネットワークが、ヒトが人となった時から、私たちの中にあるんですよ」
突然、由宇は彼女らしからぬ言葉遣いをし始めた。その物言いは俺の記憶を揺さ振った。
「射月さん」
「……」
絶句以外のなにものでもない。
まさか。馬鹿な。あり得ない。
困惑が頭を駆け巡る。
「射月さん。人々の意識は、表面で個性を各個人を形成していますが、無意識下から生まれるものには、共通の認識や共有された思いが見受けられます」
その話し方を忘れた事はない。
「お、お前……」
「それが、各民族間に伝わる神話や、伝説の共通性だと言った心理学者も居ました」
“彼女”の顔を思い出そうとした。どんな輪郭で、どんな髪型をしていたか。しかし、どうしても思い出せない。
「人間の心の奥底にある根源的なつながり」
耳の中で彼女の声音が、耳鳴りを伴って反響した。
「人種、世代などの違いも関係無く、共通認識が作れる、心の深奥部分にあるネットワークです。伊東さんが魅入られた人を認識するのに“影” を見て、射月さんが瞳に“翳り”が浮かんでいるのを見る。まさに似通った認織を持っていましたよね? それも無意識下の共有が生み出す、一つの共通認識です」
「それがっ」
俺は逆井から視線を外して“奴”を睨みつけた。
そうして自分の困惑を吹き飛ばした。目の前の女が、無理矢理にでも“奴”だと、自らに認識させるために。
「それが、お前たちの存在と何の関係がある?」
「“魔”がいるなら、神も居る筈だとは考えませんでしたか? いわゆる神や悪魔と呼ばれる存在。実は二つともそれほど違いはないんです。共有された情報に含まれている、人々が共通に認識している概念に過ぎません」
「……だが“魔”に魅入られていると、君は言った……由宇」
“彼女”が由宇だったと言葉にして認めることは、想像以上に辛く、俺の記憶を破壊し始めた。
「“魔”というのは、たまたま“澱み”に引き寄せられたヒトの意識に付けられた識別の為の名称です」
「……由宇」
とても情けない声だと自分でも感じた。
「うん?」
無邪気に返事する彼女は、俺が良く知っている由宇だった。
「君は、いつから由宇で……あれは、いったい……“彼女”は……」
「分からない? あなたもみんなの共有部分にちゃんと加わっているのよ。ヒトである限り、例外は無いから。だから、あなたが寝ている時や意識が消耗している時に、あなたに夢を見させるのは、それほど難しいことではないの。夢は現実と表裏一体だから。ね、シズカちゃん」
“奴”は“彼女”であり、そして由宇となった。
「夢の中で私はずっと、もう止めてくれるように言い続けたのに、あなたは聞いてくれなかったでしょ?」
「……いまさら、止められる訳が無いだろう」
「でも、ヒトの歴史の中で、あなたみたいな人間もたまに居るのよ。やっぱり、あなたは“異端者”なのね」
“異端者”。
「……それが、俺が分かっていない、自分のコトか?」
どうやら悲しさは、涙を流す以外にも表現方法があるらしい。
「シズカちゃんは、魅入られた人を区別するのに“翳り”が浮かんだ、って言ってたでしょ? でも正確には翳りじゃなくて“濁り”と言った方が正しいわ。ヒトだけじゃなく全ての生物は欲深く、その欲で進化を遂げてきた。欲望は行動を起こす為の原動力ともいえるから否定は出来ない。でも何事も過ぎていいものは何もないでしょ? 共有された意識の奥底で溜まり続けた過ぎた欲望が闇と呼ばれる“澱み”となって、その人の瞳を濁らせたり、普段は隠された影を表面化させてしまうの」
彼女は今、気づいているだろうか。俺の中に、彼女がいうところの意識の深奥部分から、湧き上がるモノに。
「あなたは、その“澱み”にはまってしまったヒトを取り除く役目を担っていたの。バランスが取れているから、集団生活が送れるし、他人と協力できるわ。ただ、意識下の一箇所に“濁り”が潜み続け、それが集団の中から“異端者”を生み、集団を脅かす存在へと変貌させてしまう」
「だが君がいう“異端者”と呼ばれる人たちが、人々に貢献する湯合もあるじゃないか」
“異端者”と呼ばれた、それが俺なりの反論だった。
「そうね。だから私たちは、それぞれの役目を担っているのよ。存在を始めた瞬間に、存在する理由を得る」
視界が僅かに波打ってきた。表面化してくるモノを押さえきれなくなってきた。
「自分たちの中に生まれた闇を排除して、そんな……自分たちを保つために、自分たちとは相容れない人たちを排除するなんて。それじゃ、今でも戦争を起こしてる奴らと、どこも変わらない!」
「勘違いしないで。差別じゃないわ。機械は壊れると、壊れた箇所を交換するでしょ? 人の体だって、手術で病巣を切除したりするじゃない? 許容オーバーになった闇を排除して、何かおかしい?」
「俺には同じ事にしか見えない……大体、どうして、俺なんだ? 俺がしなくても」
声が震えていた。
「言ったでしょ? それぞれの役目を担ってもらうって。シズカちゃん、自分の顔を見た事ないんでしょ? 顔を洗う時に見てねって言ったじやない。駄目よ、鏡が嫌いだからって。ほら、これがあなたが選ばれた理由よ」
彼女はベッドから出ると、一気にカーテンを開いた。
外の世界の黒さで、ガラスは鏡のようになっていた。明るい室内が窓に写り込んでいる。
俺は窓ガラスに映る自分を見た。
脱力感でへたり込みそうになる体を、かろうじて支えた。
「……あ、ああ」
これが、彼女が言っていた、俺の知らない、自分だった訳だ。
「ね? “翳り”は、悪魔に魅入られたからじゃないの」
彼女の声が、どこか遠くで聞こえた。
自分を見ている俺の瞳には、憎むべき“翳り”が浮かんでいた。
「ようやく分かってくれたみたいね。良かった」
彼女の声音は明るかった。
「じゃ、これ以上、真理を求めることに意味はなくなったでしょ? 止めてくれる? そしたら、狩人は継続してもらってもいいから。それで、あなたの存在意義がまた確定されるわ」
驚愕。
悲哀。
なくした未来。
これが様々な情報に振り回された挙句の結果。
だが、絶望はしなかった。
「俺の存在は……」
「安心して。あなたの存在はこれで指向性を持っていけるわ」
「それでも……それでも俺の……俺の行為を、考えを理解してくれる人が、必ずいる」
「自分がやってきた行為が、アートだとでも思ってる? アートを気取っても、誰一人認めてくれなければ、その観念さえ理解されず、朽ち果てるだけよ」
真実への驚愕で下がりかけた重くなった右手を、懸命に持ち上げた。
「最初に言ったように止めてもいいよ。そしたら、あなたはもう戦いから解放されるんだから。役目は新しい後継者に引き継がれてね。ね、逆井くん」
逆井の視線は宙を泳いでいた。
「射月さん、聞いてくださいよ。今度からは京さんから直接、写真が貰えるんです。あ、そうだ。さっきの僕たちのことを撮ったビデオも、変換してどっかの掲示板に投稿しようかな」
「こんな頭のおかしい“奴”でいいのか?」
彼女は面白そうに俺たちのやり取りを眺めていた。
「あ、バカにしないでくださいよ」
“翳り”のある瞳で口元を歪める逆井が、手にした銃の引き金に指をかけた。
「銃を持ってないと、僕の勝ちですね」
「そうか?」
そう言って俺は、何も無かった右手にブラック・イーグルを“引き寄せ”た。突然出現した漆黒の大型銃を見て、逆井は笑うのを止めた。
「ず、ズルいじゃないですか! そんな事が出来るなんて!」
「狩人歴は俺の方が長いんだよ、新人の逆井くん」
そう言って俺は、親指で小さなレバー、安全装置を兼ねているセレクトレバーを上げた。
そして銃をしっかりと両手でホールドし、トリガーにかけた指を一杯に引いた。
逆井は最後に半笑いをしていた。
連続する轟音。
両手でも押さえきれないほどの凄絶な反動。
ほんの数秒で撃ち尽くされる大口径弾。
この銃が速射機能を備えていたのは、整備をする時に気付いた。
逆井は爆音をまともに食らって身体を踊らせた。凄惨なまでに彼の肩から上を、この世から完全に消滅させた。今度は、もし防弾チョッキを着ていたとしても、役に立たなかっただろう。反動を押さえ切れず、やがて周囲の家具なども破壊した。
残った逆井の体が倒れてから、俺は軽蔑の眼差しを、目立たない後輩へ注いだ。彼女が言う“澱み”そのものの人間のように思えた。
揺らめく熱気が銃身から立ち昇っているのが、蜃気楼のようにゆらゆらとする背景で見て取れた。
両手を下ろすと、俺はゆっくりと向き直った。
「私、テッポウは嫌いだって言ったでしょ、シズカちゃん」
彼女はベッドから降りた。
自分の瞳が充血してくるのがわかった。
「俺は……俺は、ただ」
一筋の涙が頬を伝った。
今頃、気付いた。
こんなになるまで、どうして気付かなかったのだろう。
溢れる想いが、俺の未来を決定付けてくれた。
「俺の由宇は?」
再び銃口を上げた。構える銃口が激しく震えていた。
「俺の由宇を返してくれ」
「私が由宇よ」
「頼む。俺の由宇を返してくれ……頼むから」
俺は想いを訴え続けた。
「由宇……由宇がいないと、俺は、これからどうやって生きていけばいい?」
トリガーにかかる指が痙攣していた。攻撃衝動と由宇への想いが葛藤して、俺のバランスを壊しかけている。
「……由宇」
“彼女”の名前を呼んだ。
「由宇」
彼女の名前を呼んだ。
俺の目からは止めど無く涙が流れ続けた。
「由宇を、俺に返してくれよ……頼む」
由宇は、その質問には答えなかった。ただ、いつものように優しく微笑んでいた。
「じゃないと、俺は……」
その続きは口に出せなかった。
「シズカちゃん。これからも、生きていくんでしょ? だったら」
裸身を晒した由宇は、月光に映えて、とても綺麗だった。
「明日も笑えるといい、ね」
「由宇っ!」
鳴咽まじりに、精一杯の想いを込めて名前を呼んだ。
きちんと彼女に聞こえただろうか。俺はそれが心配だった。
ついにトリガーにかけた指が動いた。
部屋から出た時には、マガジン内の弾丸は空になっていた。
会社は無断欠勤した。もう行く気も無かった。
何気なく見上げると、昼間の空に、うっすらと月が見えた。
本当は、月はいつもこうして見える。ただ昼間は眩しいまでの光でかき消されて、見え難くなっているだけだ。
黒い影となっている巨大な雲の縁が白く光り、周囲に広がる、まばらな他の雲たちを裂くよぅに、何本もの筋となった太陽光が、天からの道の如く、蒼空を走っていた。
その光の原点には、眩い発光体があり、まるで姿を現した月が、自ら描いた陰のようだった。
そして俺は、自分の中の空白に痛嘆しながら、到達できなかった空を見上げた。
狩りは終わらない。
深奥で澱む、無意識下の底から盛り上がった衝動が、俺に狩りを続けさせる。
だが今は、僅かだが、何かが見えていた。
生き続ける事の意味。
“翳る”瞳に、俺は従って生きる。
ドアがノックされ始めたのに合わせて、沸かしているヤカンの口から、湯気が立ってきた。
キッチンで夕食を作っている俺の背後では、点けっぱなしのテレビが、二日前に起きた殺人事件を報道していた。
『……都市開発プロジェクトの一端を担っていた企業“北原デザインワークス”で起きました、二人もの社員が殺害された事件 は、その後の警察の発表によりますと、現在、同じ会社に勤めていた社員、三十一才の男を容疑者として、その行方を探して いる模様です。また同時期に行方不明になっている……』
「あれ? 味噌はどこにあるんだろ」
自分のマンションでないためか、勝手が全く分からなかった。前に聞いておくんだった、と後悔した。
ここは由宇が契約しているアパートだった。以前にも何度か来たことがあるが、キッチンには入ったことが無かった。
豆腐をパックから取り出して、包丁をあてた。初めてだったが、自分でも器用に豆腐を切れて、我ながら感心した。
その隣で、ダシをとった鍋が吹きこぼれようとして、俺は慌てて火を弱めた。
ずっとノックされ続けている音に、俺は軽く舌打ちした。
それは徐々に激しさを増し、やがて、数人の男の怒号が加わった。
俺は切った豆腐と刻んだ玉ねぎを鍋に入れた。
「ああ、味噌だ、味噌」
流し台の下の扉を開けた。
外の騒ぎはさらに増していた。『鍵、鍵』 という声が聞こえてきた。
「……楽しいな」
鍋を見ながら呟いた。
そして俺の呟きは、歌となった。
―楽しいな。
―楽しいな。
―好きな人の為に作る夕食は、美味しく出来るかな。
―ちょっと失敗しても、彼女なら許してくれるよね。
―でも彼女の為なら失敗なんかしないんだよ。
―絶対、うまくいくから。
―楽しく作れば、美味しくなるんだよ。
―彼女はたぶん喜んでくれるよね。
―楽しい、楽しいって、喜んでくれるはずさ。
―楽しいね。
―楽しいね。
―楽しいから、明日も笑おうね。
ドアの鍵が開く音が耳に入った。
「おい、気をつけろっ」
「銃を持ってるって情報が!」
男たちが、騒々しく入って来る。
「まだ途中だよ」
俺は背後のテーブルの上に置いていた、ブラック・イーグルを手にした。
どうやら“異端者”を、社会から排除しに来た連中のようだ。
俺は声の方へ冷たい視線を向けた。
一人の中年男が、リビングから不用意に顔を出した。
俺は構わずトリガーを引き絞った。
男の顔の横の壁が、派手に弾け飛ぶ。
それは由宇が気に入っていた壁紙だった。
銃の威力に慌てふためく警官たちを牽制しながら、料理を途中のまま、俺は隣室へと向かい二階の窓から飛び降りた。




