17
「殺してって……なんで」
苦しそうに胸元の服を掴みながら息を吐くアルフレートを見つめる。きっとその目には驚愕と困惑の色が浮かんでいることだろう。
胸元を掴んでいたアルフレートの手が私の方へと伸びる。
「おれが、魔に堕ちる前に……」
伸びた手は私が掴む前にベッドへと落ちる。力なく落ちる手を私はただ見つめることしか出来なかった。
「なんで……」
誰もが魅入ってしまう漆黒の瞳は頑なに閉じられ、私を映すことはない。
知るのが怖い。そう思うのに、私は誘われるようにアルフレートの心臓に手を置こうとした。彼の鼓動を感じ取ろうとしたのだ。
「えっ?」
触れようと伸ばした手は胸に触れる前に掴まれる。
誰が掴んだのか、それはすぐ分かる。ここには私と彼以外いないのだから。
掴まれた手を引っ張られ、ベッドへと倒れ込む。その上に覆い被さるのは、さっきまでベッドに倒れ込んでいた人物。
肩まで伸びている漆黒の髪がぱさりと私の顔にかかる。そのぐらい近くに彼がいるんだ。
「ある、ふれーと?」
私の言葉に彼は口角を上げるだけの冷たい笑みを浮かべた。その笑みにゾクッと背筋が凍る。
思い出すのは目覚めた時に私の側にいた綺麗すぎる銀色の髪に濁りがない見事なまでの血のように紅い瞳を持つ男性だ。その男性の雰囲気に今のアルフレートはそっくりなのだ。
「アルフレート、か。それが俺の名前なのか」
そう言ったアルフレートの瞳は綺麗な漆黒なんかでない。黒の濁りがある紅い瞳だ。
「なに、言ってんの?」
自分でも声が震えているのが分かる。
私はもう分かっているんだ、彼はアルフレートであって今までのアルフレートではないことぐらい分かっているんだ。それでも心のどこかで「冗談だ」と子どもぽい笑みをこぼしてほしいと思っている。
「あぁ、そうか。お前は俺が大切だったんだな」
冷たい笑みが一瞬だけ切なそうに見えたことに心が痛みを覚えた。
そんな私のことなんかどうでもいいように彼は至近距離で私を見つめる。
「甘くて美味しそうな匂いがお前からする。この首筋に食らい付きたいほどに」
「……っ」
スッと指の腹で首筋を撫でる。そこは前にアルフレートに噛まれたところだ。
どくん、どくんと心臓が鼓動する音だけが頭の中に響く。あの時の熱を思い出して身体が熱い。
「首筋に噛み付いて、蜜のように甘いお前の血を残すことなく飲み干せば、どんなに気持ちがいいことだろうな」
クックと声を漏らして笑うのはアルフレートとは全く違う。彼はこんなことなんか言わない。
アルフレートはいつも悲しそうにしていたと同時に嬉しそうに笑みを浮かべていた。それなのに目の前にいる彼はただ背筋が凍るような冷たい笑みしか浮かべない。
顔も声も口調も、ただ瞳の色が変わっただけで全部一緒なのに違う。
「アルフレート……アルフレートッ」
私はこの時に初めて気が付いた。私はアルフレートの優しさに甘えていたのだと。
大神のころからずっと私に優しかったアルフレートのことを兄のように慕っていた。心のどこかでは気付いていたんだ、昔に私と彼は逢っていることを。
だけど、そのことをアルフレートは言わなかったから忘れていたんだ。いいや、思い出したくなかったんだ。
忘れることは同時に彼との約束を忘れてしまうということ。彼は約束を守ってくれていたのに、私は守れてなかった。
そして、私は裏切った。この世界で初めて会ったレオンのことが忘れきれなくて、私はアルフレートを傷付けた。
「なんで泣くんだ?」
「……私が馬鹿だったから」
この味方のいない世界で私に居場所をくれたレオンのことは忘れることは出来ないだろう。だけど、それ以上に私に命をくれたアルフレートのことで私は罪を背負うのだろう。
永遠に忘れられない罪を背負うのだろう。
「自分が馬鹿だと泣くのか、お前は変な奴だな」
顔を近付け、舌でぺろりと私の涙を拭うように舐める。これがくすぐったくて身を捩ると、アルフレートは更に涙を舐めまわす。
「お前の涙は甘い。俺の好みの味だ」
「ん……アルフレートは甘いのが好きだったの?」
「さぁ、俺自身のことは知らないが多分そうなんだろ。甘いお前を食べたいと思っているのだから」
チュッと涙を吸い取るように唇を寄せた。
私を見つめる黒く濁った紅の瞳が妖しく光を帯びる。漆黒の瞳の時と同じように彼の瞳には誰もを魅了する不思議な力が込められている。そう感じるのが私だけだとしても。
「なぁ、俺はお前が食べたいんだがいいか?」
自我を失って完全に魔に堕ちる、アルフレートは前にそう言った。それが今の彼の状態だとしても、おかしい。
魔に堕ちているなら、こんな問いかけの言葉は出てこない。私を慰めるように涙を舐めたりしない。
笑みは今だに冷たいのに、私は最初の頃より恐怖を感じなくなっていた。
「甘くて美味しそうなお前を泣かせて縋り付かせてしまえば、どんなに甘美な味わいを知ることが出来ることか」
首元に顔を埋め、指の腹で撫でていたところを舌で舐める。何度も舐め、肌の味を確かめているのか。
くすぐったさに耐えきれなくてアルフレートから逃げようとしたら、彼は逃げれないように手を絡め、足を絡める。
「逃げんなよなぁ、俺はお前を味わい尽くしたいんだ」
「あるふ、れーとっ……」
首筋に刺さる何か。どくんと心臓が跳ねたと同時に全身に熱を帯びた。
痛いのに熱くてどうにかなりそうだ。もっとその牙で私を貫いてほしい、そう思う私はどうなってしまったのか。
じゅるじゅると音を立てながら血を飲む彼は乱暴なのに優しく丁寧に私を扱っている。痛くて息が乱れる私の頭を伸ばした手で撫でたりしているんだ。
「もっと、お前を殺してしまうほど味わい尽くしたいのに俺は……」
小さく呟いた言葉は私の耳に届いた。
アルフレートは魔に堕ちたと思ったが、彼は完全に堕ちてはないのではないかと思ってしまった。よく私は魔に堕ちるという意味が分からないが、彼はまだ私を気にかけている。それだけで十分ではないのか。
『お前は俺の側にいてくれるか?』
あの時に頷けなかった言葉が頭の中を占める。今ならこの言葉に頷ける。
私にとってレオンは居場所をくれて守ってくれると言ってくれた人。だけど、アルフレートは傷付いても私をずっと守ってくれていた人だ。
「アルフレート、側にいるから」
首元から顔を上げたアルフレートが私を見つめる。その顔には冷たい笑みなんか貼り付いてなかった。ただ驚きに満ちた表情をしている。
「俺の側に、か?」
「そうだけど?」
なぜ、確認するように言うのか。私はアルフレートの側にいると言ったのに。
黒く濁った紅は私を映し出す。その瞳に宿る色は不安気でそれでいて酷く美しかった。
「俺の側に、俺ではなく俺の側にいてくれるのか?」
あぁ、そういうことになるのか。彼は彼であって彼ではない。それでも、私は彼の側にいると決めた。
それが決して進んではいけない茨の道だったとしても、私は進むという選択肢しか残されてなかった。
「お前は変な奴だな。俺の側にいるとお前はいつ死んでもおかしくないっていうのに、あえて俺の側を選ぶなんて」
クッと自虐的に笑みをこぼす。そっと私の頭を恐る恐る不器用に撫でた。
それが嬉しくて涙がこぼれると、彼は私の唇を塞ぐ。
「甘くて美味しい俺の可愛い人よ、俺はお前を殺してしまうかもしれない。それでも、お前は俺の側にいてくれるのか?」
唇を合わせた後にそんなことを言われたら頷くしかない。それが何だか癪に障り、キッとアルフレートを睨み付けた。
「私は貴方に殺されたりしない。だから、私は貴方の側にいるって決めたの」
「そうか、お前は死なないんだな」
「うん……」
私は死なない、いいや死にたくないんだ。だって貴方が言ったんだ、私に生きろと言ったんだ。
「俺は魔族だ。記憶も何もかも失くしたが、それだけは覚えている。そして、お前を殺したいほど食べ尽くしたいと思ってる」
ベッドの上で私に覆い被さっているアルフレートは囁く。甘く優しく、それでいて冷たく微笑んだ。
「それって、俺はお前を愛しているってことだろ?」
唇を合わせる行為は互いの甘さを味わう為だ。甘くて、それでいて残酷なほど優しい彼に身を委ねたいだけ。
どこかで狼の遠吠えが聞こえた。その声は悲しそうに泣いているようにも感じる。
それはまるで一人で生きてきたアルフレートみたいだと思った。




