7話 ママも赤ちゃんだったの?
〈ママも赤ちゃんだったの?〉
防災用のトイレを使って用を足した。
便座が無事なら使えるようで助かった。
ただでさえいつもと違う感覚で落ち着かないのに、便座まで無くて組み立てたダンボールの上で…というのはまぁキツい。
今日になってから、今までまた会えると思っていなかった感情が次々と現れては、ハイタッチをして消えていく。
正直言ってすごい疲れる。
あたしにはまだ縁緑さんの書いた授業計画表を見返す時間も待っている。必要なことだけれども、心をこれ以上乱すのは何か良くないことに思う。
いくらでも喜び、思い出に浸り続けるのは、いくらでも嫌な気分や悲しいことに見舞われるくらいにガツンと精神にボディブローを喰らわせるような。
用はプラスな感情とマイナスな感情はセットにならなければ。
プラスの感情だけで良いと簡単に思ってしまうことは危険だ。
感情のプラスとマイナスの話にちょいと付け加えようか。
喜びと悲しみ、達成感と悔しさ、成長の実感と未熟さに打ちひしがれる…などなど、感情なのだから正反対なものはないのだが、それでもほとんど逆の意味を持っていると考えていい例がある。
あたしが思うに、プラス感情でもマイナス感情でも、どちらかが巡ってきたら、ほとんど対極の位置にあるもので中和するのが理想だ。
あたしの場合には………難しくて分析できそうにもないが、まぁプラスの感情を抱いているので、難しくて表現しようのないマイナス感情が駆け巡ればバランスが取れるだろう。
トイレから出て、ベランダの端っこを生ゴミ置き場に決めた。
そして部屋の中に戻る。
グリちゃんは、あたしがベランダにゴミを捨てた後に部屋に戻る時間だけでルービックキューブを全面揃えることが出来たようだ。
満足したようで、バスケットボールを人差し指の上で回すのと同じようにルービックキューブの頂点を左ての人差し指の上に置いて右手で勢いをつけてクルクルと回した。
3歳になったばかりのグリちゃんが、あたしの部屋のどこで見つけてきたかも分からないルービックキューブを、あたしが2人の服を畳む時間で全面揃えた時には、
「まずは1面をどうにか揃えていくんじゃないの?それって……いいの?」
と焦りで訳の分からないことを訊いてしまった。
6面全部揃えるのが最終目標の遊びなのだから間違っているわけもなく、グリちゃんは正しく遊んだまでだ。
まぁとにかくパズルや、カードゲームなどは、見知った瞬間から攻略方法が分かってしまうらしい。
だから、トランプならトランプタワーを作ったり、ルービックキューブなら、一年前から今さっきまで、手や指の使い方を鍛えてみたり(グリちゃんに訊いてみたらフィンガートリックというらしい)とパズルゲームをなるべく頭を使わずに、体の使い方を中心にして遊んでいるらしい。
ふと、グリちゃんは今まで、自分の意思でものごとに取り組んだときに失敗したことがないのかもしれない…と漠然とした考えが浮かんだ。
その考えは頭から離れなくなった。
何かやろうとして、不注意だったり、頭の中がこんがらがっちやったり、難しくて手に負えなかったり。
そうして悲惨な結果になって、泣きついて、やってもらって、再挑戦して、出来るようになって。
小さい頃なら普通だし、ありふれたことだ。
が、これほど大切なプロセスも他には無いと思う。
グリちゃんは体験も体感もせずに今日に至ってしまった?
これは……ヤバァァァァアイ!!
あたしが、日々の忙しさにかまけて、グリちゃんがなんの粗相もせず、ミスもせずにそのまま過ごしてきたことに気が付けなかった。
心の底では、グリちゃんの特別さにあぐらをかいて、便利さに酔いしれて、のほほんといい気分で最低限の手間の家事をしてたんだ。
あたしは大馬鹿なんじゃないか?
どうしよう?
グリちゃんに失敗して欲しい。とにかく失敗して欲しい。
でも、同じくらい親心として、できれば傷つかずにのびのびとしてて欲しいとも思えてしまう。
あぁ。
これかぁ。あたしのマイナスの感情。
今ここで、こんなふうにバランスを取ってきたのか!
どう対処しようか。
そもそも、グリちゃんが失敗をより実感するためには、まぁ間違いなく、頭のみを使った時に起こるミスだ。
言い間違いとか、勘違いとか、自分の言ってることの矛盾とかそんなところだろうか?
「ママ。どしたのー?」
「ん。あ〜。うーんとね。グリちゃんさ、さっきママにさ、“昨日まで知りたいことは全部分かってきた。”って言ってたわよね。」
「えーと。パパのことだけ分からないんだっけ?」
「まだワからないことあるよ!」
「ママのタオしカタ。」
「マ…ママはやっつけなくていいわよ。」
てか…え!グリちゃんは自分が本気で知りたいことからなるべく質問してくる。
じゃあ…次はあたしの倒し方質問してくる?
なんて答えるの?買収とかって言っておけばいいの?
マズイな…集中しないと。
だって、あたしのことを倒すのって、グリちゃんなら出来るでしょ!
ううん。一回忘れて。
グリちゃんがあたしの倒し方が分からなかったって…あたしの倒し方を知ろうとしたってこと?
ナンデ?え!?なんで?
ただでさえ考えることが出来ないような議題から、さらに思考のまとまらないことを言われてる。
混乱してる。
「グリちゃん。グリちゃんは……」
グリちゃんは床に座っていた。
あたしも座った。
あたしにもグリちゃんにも辛いことになると思う。
ならば、側にいて目線を合わせて、いつでもあたしに頼れるようにしてあげられるように。
「…“分からない”ということ自体を知ろうと思ったことはある?昨日までの間に。」
「ママ?ママ!それって……ママ。」
そう。これは有名な100%の完璧はこの世にないということを伝えてくれるパラドックス。
どういうことかというと。
グリちゃんは全部分かっている。分からないものがないという。
だが、“分からない”ことそれ自体はどうだろう?
全部分かってしまうのなら、分からない状態を理解することは不可能なのだ。
(隣に住む私が注釈つけましょう。今回の宮離子ちゃんへの捩子ちゃんの問いかけは『万能の神は自分の持ち上げられない岩を作れるか』というパラドックスをもとにしていそうです。)
「ママ。あのレーセーにキいてね。ワタチにとって、“ワからない”ってね。パパのことおシろうとしたトキにケーケンしたのよ。」
「だから。ワタチにとって、“ワからない”ってパパのことよ。」
「じ…じゃあさ、この先、難しかったり、ほら!パラドックスとかの答えのないようなものも、パパになっちゃうの?」
「うん!」
「もう一個いい?」
「いーよ!」
これからするあたしからの質問はヤケクソそのものだったので、いい返事をしてくれたグリちゃんに申し訳ないなと思った。
「ママとママが戦ったときに、どっちが勝つと思う?」
グリちゃんはあたしを最強って言ってたから、最強と最強がぶつかれば…どうなる?
『矛盾』に出てくる客と全く同じ問いかけにどう答える?
「あー。カンガえたことあるよ。」
「え!?あぁーそうなんだ。よ、良かったわ。で…答えは?」
「ママがカってママがマけたよ。」
「そうなの…?」
ここで会話が終わった。
結論から言おう。
あたしが失敗した。
確認まで取ったのに、パラドックスを無理に使おうとして墓穴を掘ってしまった。
まさか、“分からない”ことを全部パパだと思うことにしたなんて…。
“パパについてを例外にしてくれる”なんてのは、あたしの都合のいい思いこみだったわけだ。
それに、苦し紛れの矛盾の方。
おんなじ2つのモノをぶつけたらダメじゃん!
グリちゃんが工夫して乗り切っちゃったじゃん!
あたし、あたしって。
グリちゃんに比べて、質問するの下手くそすぎでしょーが!
縁緑さんもおんなじこと思ってたのかなぁ?
と!に!か!く!
ママ。ママね。グリちゃんに倒されたんだけど!
グリちゃんがあたしを倒す方法分かんないのって、あたしが勝手に自爆するからでしょ!
あー恥ずかしい。
あー。
「ワタチは、これからは、ワからないことばっかなの。ワタチのシろうとオモわなかったアタラしいなにかとフれアうから。シンパイしないで。」
グリちゃんは、あたしの意図を理解したようだ。
気を遣ってくれるその言葉が、あたしの心配を加速させた。
「……掃除してきます。」
「イッテラッシャァ」
縁緑さんの授業計画表を、グリちゃんと見ることすら出来ないくらいに体の芯から火が出そうだった。
わが子に説き伏せられることも子供を授かったときから予想していたが、グリちゃんが特別であるからこそ、その予想を上回ってまるで世界全部から呆れられたような気分になった。
今の世界はほとんど何もないのだが。
あてもなく、資源を無駄にする訳にもいかないので、下を向いて埃を拾ってはゴミ箱に突っ込んだ。
大した時間も流れないまま、テーブルに戻って、ため息をついて座った。
さっきまでの全部のやりとり、何の意味もなかった。
グリちゃんの方に気と目を向けると、ルービックキューブの色を、またバラバラの遊ぶ前の状態にしていた。
「ママ。ゲンキ!ゲンキおダして!」
黒くずっしりとしているグリちゃんの瞳だ。
「ママのために、やっぱりワタチは、これしか…」
「ママも赤ちゃんだったの?」
グリちゃんの持つ、1面も揃っていないルービックキューブは、あたしの手に置かれた。
グリちゃん。
ゲンキが出るというか、それ、無理矢理ゲンキを出さないと頑張れないだけなのよ。
あたしは赤子に戻って泣き出したい想いをすぐにこらえて、グリちゃんの質問について考え始めた。




