10話 第1章の終わり
〈第1章の終わり〉
長い時間が過ぎた。そう思っていることすら疑う。
体感では、丸一日を確実に過ごしていた。
事実、とんでもない眠さに襲われて、あたしとグリちゃんはたくさんの時間寝た。
起きた。
ここで確実に学ぶ。
この世界に、昼夜がない。ばかりか、時間が進む感覚もない。
なのに、空腹も渇きも、生理現象も残っている。
世界は都合よく形を変えている癖に、あたし達に、人間をやめさせることはさせなかったらしい。
ほんの少し遅れて起きたグリちゃんは、目をこすりながら、あたしにこう訊いてきた。
「ママはどうして、ワタチのシツモンにカンペキにコタえてくれるの?」
「ママはね、グリちゃんが苦しくないように、絶対に答えるの。」
「ママもグリちゃんに訊いていい?昨日…?みたいなくだらない質問じゃないの。グリちゃんが、知りたいことが全部分かるって言ってたじゃない?」
「ママも、グリちゃんのその状態にすることって出来る?」
「…うん。」
「ママが、ワタチをタスけたいなら、そのママをワタチはタスけたい。」
グリちゃんのこの“助ける”の意味は、協力するという意味ではないことを、グリちゃんの表情が物語っていた。
あの状況の恐ろしさを1番に理解しているグリちゃんだから。
心の底から。あたしに同じ恐怖や苦しみを味わって欲しくないのだろう。
「無理はしないで。ママのためにグリちゃんが悩むのは、もっと大切なときの大切な場合でいいから。」
「チガうの。ワタチは…ユウキがなくて…それで…」
グリちゃんはお腹が空いているようだ。
また、サラダを作る。これが最後のサラダになりそうだ。
ぬるくなったドレッシングを使う。
食事を終えて、グリちゃんの様子を見れば、なんの変哲もないサラダを、食事を、ものすごい楽しさを覚えたようだった。
「ミライのことは、イチニチ、イチイチのことをオボえてないんだけどね、ママ!ワタチはタブン、ここからだとオモう。ここから、このサラダをタべたところから、イきてるってカンじた!」
ちょっとクタクタになった野菜をドレッシングでどうにか誤魔化しただけの品にここまで喜んでくれるのは、グリちゃん自身の“新鮮さ”という感覚が補正してくれたのだろう。
『新鮮な(気持ち)サラダ』とでも言おうか。
グリちゃんの言葉のおかげで疲れた野菜も成仏できそうだ。
縁緑さん以外のなんでも知れるなら、グリちゃんのことだって…グリちゃんの今までの辛さだって知れる。
グリちゃんには、なんでも知れた頃の知識はどんどん忘れてもらって、普通に生きていくように用意を…
この世界は、普通じゃない。
このままじゃ、普通に生きていくことが夢になりそうである。
どうする?食料も、水分も、普段の蓄えも災害用の分もあと1、2週間で尽きる。
考えたくなかったが、この団地から離れて周囲の状況を調査してみる必要がある。
今の2人だけの状況に、未来はあるのだろうか?
口ではポジティブなことを言えても、体と心はこのままだとどんどんネガティブな状態に陥っていくだろう。
そして、なにより、あたしとグリちゃんには縁緑さんを探して、会う!という大きな大きな目標があるのだ。
協力出来るこの団地の住民を探すしかない。
でも、この崩壊している世界で協力なんて難しいこと出来るわけがない。
共通の目的や、こちらに交渉に使えるような強み、資源や技術や知識があるわけでもない。
ある…わけでも…ない。
気になる全てが知ることの出来た昨日までのグリちゃんの知識。その中には今まで人類全員が知りたくてしょうがないような事実も含まれているのかも。
周りに住む人の思い悩んで追い求めた答えをグリちゃんが持っているのかも…
でも、娘を交渉の材料になど、出来ない。
瞳を閉じて、触れ合った瞼に力を込めてみる。
波打つように自分から痙攣させた瞼には、今直面している未解決問題を解くための力はない。
子育て幽霊にも飴を買う金を持っていたのに。
あたしときたら何もないじゃないか。
心は決まった。
グリちゃんが負担になるならすぐ辞めようとは思うが、あたしは、特別になるって誓ったんだ。
「グリちゃん。あたしは、ママは、昨日までのグリちゃんのように、知りたいことを知れるチカラを手に入れたい。」
「どうすればいいかな?」
「カンガえるね…」
グリちゃんは、あたしの生き死にを巡るようないや、あたしが主に死にそうになっていて、救おうともがいているような表情だった。
グリちゃんの集中は一切の外界との接続を切断し、グリちゃんの精神の内部でも迷う要素を排してただただ答えに向かっていく。
「デキた。けど…ママ…カエってきてね。」
「ワタチのコトバにコタえてね。」
行きは良い良い帰りは怖い。らしい。
そんな当たり前のリスクとは関係なく、グリちゃんが可哀想で瞬間的に次々とたじろぎや辞めようという思いや最悪の結末が脳裏を反復横跳びしていく。
思わず俯けばグリちゃんの瞳があたしの見る景色の中央に位置付けられた。
決して、励ますような眼をしてはいなかった。
けれど、不思議と力が湧き、元気が湧き、身体中の血が沸いた。
あたしだけでも、グリちゃんだけだもない。この2人でいればサイキョウなのだと訴えかけるグリちゃんに、今はただ応えたい。
「今、ママとグリちゃんは2人で一緒にいるから。大丈夫。」
グリちゃんは表情を1マイクロも変えずにこう告げる。
「いくよ。」
「ママは娘のことをなんでもお見通し?」
「???えぇ。モチロンよ?」
「“ママはグリちゃんのことならなんでも分かるわ”」
瞬間、視界にあるものが、小さな物から順にどんどんと爆発していった。
形を保つのはグリちゃんのみで、その祈るような手のしぐさをはっきりと認識することが出来た。
気がつけば、グリちゃん以外の自分の周りを囲む全てが図鑑や辞典、はたまたインターネットの中身のように感じられた。
世界が、情報だけになった感覚だ。
「これが、昨日までグリちゃんが見ていた世界。」
ちゃんと、言葉を発せたのか不安だ。
おそらく、あたしの言葉はちゃんとした文明を持っていた昨日までの人類でも、到底理解できない未知の要素を含んでいただろう。
「あたしには、刺激が強い!」
「強い、強い!強い!強い!強い!ツよい!つヨい!ツヨい!ツヨい!」
壊れたラジオや不調なカセットテープが、同じ音、同じ歌詞を繰り返して発する理由が分かったような気がする。
今のあたしがまさにその状態そのものだ。
このまま、あたしの意識は、遥か底の地球の核へ……
ふと縁緑さんの存在が、頭の中の万華鏡のたった1つの面にパッと現れて、消えた。
それだけで大丈夫だった。
あたしの意識は全て縁緑さんのことを知ろうと必死で働いていた。
だが、その結果は、分かり切っていた。
縁緑さんにまつわる情報は、煙を掴むように手からすり抜ける感覚が襲う。
その煙自体にも更にプロテクトが施され、南京錠がかかっているようだ。
知ろうと思っても知れない。
が、縁緑さんの存在が大きい。
“全部が分かるわけではない”という事実が、あたしに安心感を与えてくれる。
グリちゃんが、この特性を持ちながら狂ってしまわなかったのは、生まれつきから持っていたことによる慣れもあるのだろう。
が、1番大きい理由は、縁緑さんが全く分からない唯一の反例として存在してくれた事実だ。
間違いない。
少し安定してきたので、1番知りたかったことを知ろうと意識してみた。
この世界での戦い方?この団地の周りの人間について?世界平和の実現方法?ピラミッドをどうやって建設したか?
こんなの全部どうでも良い。
今、頭の中はかつてないシンプルさで、まるで赤子の脳内を再現したようだった。
あたしの1番知りたかったことは、よくまとめられて脳内から滑らかに射出された。
グリちゃんをどうやって守る?
辺りは、全くの純白に包まれた。目の前には、グリちゃんが瞳をうっとりしてしまう黒色に輝かせて立っていた。
「ほう。ここで私は我が母親と話す機会を得たのか。」
グリちゃんの体、グリちゃんの声、しかし、目の前にいるのは、普段あたしの知るグリちゃんではないようだ。
「大人びているわね…」
「まぁ。それは当然だ。私は、浜宮離子の“確定した未来”。浜宮離子の“全知”の力が消えず、自らの運命を覆せず知り続けて生きた世界線。その結末だ。」
「とりあえず、いらっしゃい。」
あたしは正座してひざを軽く叩いた。
「私は、君の娘ではある。しかしながら、私はもはや全ての人との関係など考えることすらない。簡単に言えば、次元が違うのだ。だから…」
「グリちゃんが頭のせてくれないと、ママの足が痺れちゃうんだけど?」
あたしは、先程よりもう少しだけ膝を強く叩いた。
多分、圧倒的な上位に位置する存在が、あたしのひざまくらを使ってくれた。
「まさか、まだ私が何かを見上げる時がこようとは。」
「で、なぜ今ママと、えーと、確定した未来のグリちゃん?がこうして会っているの?」
「全てが分かる状態で、質問してくるとは…」
「確かに!」
「では、脳みそによく刷り込むために音声情報も利用しながら君の望む知恵を授けようか。」
グリちゃんは、あたしから目を逸らし、虚無に囲まれた空間のあらぬ方向を見つめた。
「あとはまぁ、液晶の前で疲れた顔をしている者たちに更に疲れることになる情報を送り込むとする。」
「?うん。」
「浜宮離子は、縁や運命などの、概念。目に見えない大切なものをこの世界にもたらす力を持っている。」
「この力には条件がある。」
「浜宮離子が心をこめて質問した内容に対する、浜宮離子が心を動かされ納得も出来るアンサーが、先に説明した力が発動するときに必要になる。」
「この力の恐ろしいところは、元の世界に存在しなかった概念もこの世界には追加出来てしまうところだ。」
「例えば、超能力の類だ。質問のアンサーが“超能力”だった場合、世界中の人間に超能力が使えるものが現れることになる。」
「この説明が、なぜ浜宮離子を守ることになるのかは、分かるな?」
「ええ。」
「現状の、この世界の浜宮離子はかつてないほど救われている。いざとなれば、君と浜宮離子は無敵になれる。慎重に行動することだ。」
「分かったわ。」
「このやり取りを膝枕で行うとは…流石に思ってなかった」
「……」
「そうか、どうやって元の浜捩子に戻るのかだったな。」
「ええ。行きは良い良い帰りは怖い…らしいけど。」
「ああ。私が君に協力しないと、ワタチの方の私が思ったのだろう。」
「仲良くしてね。」
「仲良くすることも、対立することもないだろう。互いにそこまでの関係にはなりそうもない。」
「そして、私は君に協力するよ。退屈さを忘れる退屈の中で、久しく経験してない感覚を思い出せた。」
「ありがとう。」
グリちゃんの頭をそのサラサラの髪をゆっくりと撫でた。
グリちゃんは眼を閉じて鬱陶しそうにしていた。
「さて、今の君は、正確には、昨日までの浜宮離子の持つ全知の力そのものを発現させたわけではない。」
「浜宮離子が君に向かって質問して、君のアンサーは何だった?」
「えーと、“ママはグリちゃんのことならなんでもお見通し”って」
「そう。その答えは、君自身が全知になる旨ではない。」
「浜宮離子について、浜捩子が全て理解可能になるのが、一連の質疑応答で起こったことだ。」
「君が、知りたいと思うこと全てを知れる状態になれたのは、昨日までの浜宮離子の体感していた世界を理解して、追体験していたからだ。」
「君は全知の力を持っているのではなく、浜宮離子の全知の力を貸りていただけ、というのが簡単な表現だろう。」
「それだと…元のあたしに戻ることが出来るの?」
「ああ。浜捩子が全知であると、それを覆すための問答が必要になる。確かに考えつきそうだが、7話のパラドックスのような話も関わると複雑を極める。」
「それで言うと、君のしたアンサーなら簡単だ。」
「へ?7話?うん?」
「君は、ただただ自分の娘の今の状態と未来のことに目を向けてやればいい。この力を意識して封印するんだ。自分の娘が悲しまないように。」
ここまでの会話は、全てひざまくらしながらでした。
「でも、そうなると、あなたとお別れじゃない?」
「私に君がなんの思い入れがあるのかな。こちらは悲しくもない訳だが。」
「うんうん。グリちゃん。また会おうね。」
「…さっさと戻れ」
目の前にどんどんと世界が組み上がっていった。
全てが情報などには見えず、元のものとしてそこにあった。
グリちゃんが声をかけてきた。
「ママ?ママ?ダイジョウブ?」
「ええ。」
2人だけの大きすぎる秘密。
世界を左右させることのできる秘密。
それでもあたし達は平穏に生きる。




