第9話 森林の巨大猫
翌日になったら塩などの調味料を探そう。そう心に固く誓っていた嘉人だったが、夜の間に自体が急変した。
深夜。岩壁に隠した拠点の奥、静寂を切り裂くような異音に嘉人は跳ね起きた。
――グゥゥ……、ルルゥ……。
聞いたこともない重く低い獣の唸り声。
ボーン・ボアのような猛進する獣の鼻息とは違う。獲物をじりじりと追い詰める捕食動物のくぐもった唸り声だ。
カモフラージュを施した扉のすぐ向こう側では、岩盤を模した外装を執拗に探る、ガリガリガリっと引っ掻く音まで聞こえていた。
嘉人は息を殺し、USCのタブレットを握りしめた。
しかし、今の自分にはこの密閉空間を死守すること以外、手立てがない。暗闇の中、ドアの向こうで蠢く影の大きさを想像し、嘉人は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
やがて執拗な爪音は止み、代わりに重い足音が遠ざかっていって、やがて聞こえなくなった──というのが、昨晩のこと。
夜明けを待って嘉人が拠点の外へ出てみれば、想像通り──いや、それ以上の惨状に、彼は言葉を失った。
頑丈にカモフラージュしたはずのドアには、深い爪跡が何条も刻まれ、岩肌の一部が剥ぎ取られている。そして地面には、嘉人の手のひらを二つ並べても足りないほどの、巨大な足跡が幾つも残されていた。
(この形……ネコ科の動物か? それにしてもデカすぎんだろ……)
塩を探すどころではない。
早急に、拠点の防衛能力を向上させることが、何よりも大事だ。
(一刻も早く防御を固めないと、ここで安全に過ごせなくなる!)
嘉人はタブレットの画面上でUSCのアセンブリ画面を展開した。
三方を岩壁に囲まれたこの拠点の弱点は、唯一の開口部である正面だ。ひとまず、そこに門や壁を造っておこう。
在庫の岩石リソースを選択し、入口を狭めるための遮蔽壁と、強固な石造りの門の構成データを組み上げていく。
「ひとまず、遮蔽壁と門でいいだろう。それを飛び越えてくるようなら──」
嘉人がアセンブリで組上げた門と遮蔽壁を【出庫】しようとした、その時。
「やっぱり人間だったわ」
背後から声が聞こえた。
嘉人の心臓が大きく跳ねる。
「なっ!?」
反射的に振り返り、嘉人は操作中のタブレットを胸元に抱え込んだ。
武器など何も持っていない。
無防備な嘉人は死を覚悟したが、しかし目に飛び込んできたのは、剥き出しの牙や血走った眼光ではなかった。
そこにいたのは、朝日に輝く二つの圧倒的なモフモフとした野生の猫だった。
一匹は、透き通るような純白の長毛種。
人が優に背に乗れるほどの巨躯だが、その耳や髭の形は、嘉人が見知った猫そのものだった。それは岩場の上に優雅に座り、退屈そうに前足を舐めている。
もう一匹は、岩石のように無骨な灰色の巨猫。
それはあろうことか嘉人に音も無く近づき、鼻先を寄せ、足先から順にスンスンと興味深そうに匂いを嗅いでいた。
「ぉわっ!?」
有り得ない距離感に驚いて飛び退ると、灰色の巨大猫は「なんで逃げるの?」と言わんばかりに、キョトンとした顔で首を傾げた。
猛獣を遥かに凌駕するサイズ感。それでいて、やっていることは家猫と変わらない。
そのあまりのギャップに、嘉人の脳は完全にフリーズした。
一歩でも動けば、この巨大な肉球の餌食になるのか。それとも、ただの猫のように甘えられているのか。
判断がつかないまま、声を出すことすら命取りに思えた。
「こんなところで何をしているのかと思えば、その薄っぺらな板を撫で回して独り言かしら?」
静寂を破ったのは、鈴を転がすような、しかしひどく傲慢な女の声だった。
嘉人が硬直したまま視線を上げると、岩場に座る純白の巨猫が、退屈そうに喉を鳴らしてこちらを見下ろしていた。
「……あ、あんた、今……普通に喋ったのか……?」
「喋るわよ、それくらい。驚きすぎて顎が外れそうね。そんなに珍しい? 少なくとも、この辺りであなたの同類を見るのは数十年ぶりではあるけれど」
白猫は氷青色の瞳で、嘉人を品定めするように見つめる。
「まあそう警戒するな、人間。俺たちは昨日の夜から、あんたが持ってる『美味そうな匂い』が気になって仕方ないんだ。どこに隠してる?」
今度は、嘉人の足元でスンスンと匂いを嗅いでいた灰色の巨猫が、顔を上げて嘉人をじっと見上げた。腹の底を揺らすような低い、しかしどこか朗らかな男の声だ。
「……匂い、って……。じゃあ、昨晩の……ドアをボロボロにしたのは、あんたたちか」
嘉人は恐怖を押し殺し、震える声で尋ねた。
「ああ、あれか。すまなかったな。あまりにいい匂いがするから、つい『開けてくれ』と熱が入っちまった」
「挨拶よ、挨拶。中からいい匂いがするのに、あなたがいつまでも開けないのが悪いのよ」
灰色の巨猫が巨体に似合わない身軽さで首を振り、白猫がさも当然のように言い放つ。
嘉人は脱力感に襲われた。恐怖の底で怯えていたあの深夜の襲撃は、この規格外の番いたちによる、ただの強引なノックだったわけだ。
「それよりも、あの香ばしい香りを放つ肉はどこ? 早く出しなさい」
この二匹の巨大猫が言っているのは、昨晩、小屋の中で焼いたボーン・ボアの肉のことだろう。
なるほど、換気口から外に漏れ出た匂いに釣られてやってきたようだ。それは嘉人にとって盲点だった。
そんなボーン・ボアの肉は、このタブレットPCの中にある。
今、USCの画面には【出庫】直前だった遮蔽壁と門のデータが待機していた。
だが、物理的な遮蔽壁を出庫するより先に、既にその内側に入り込まれているのだ。今さら【出庫】しても遅すぎる。
それに、この威圧的な質量を誇る二匹の前では、石の門など昨晩のドアと同じように削られるか、物ともせずに飛び越えそうだ。
(ここで下手に逆らうと死ぬな……。幸いなのは、言葉が通じることだ。交渉の余地があるってことだな)
嘉人は瞬時に考えを巡らせ、ゆっくりとタブレットを構え直した。
どうやら、最強の防壁を築くよりも、この二匹が望むものを提供する方が、森での生存確率は飛躍的に高まりそうだった。
「……肉、だな。わかった。今すぐ用意する。だから、その……いきなり襲いかかったりしないって約束してくれるか?」
嘉人が慎重に言葉を選ぶと、白猫はふんと鼻を鳴らした。
「そんな無粋なことしないわ。私たちは、美味しいものと面白いものが好きなだけ。私はシルヴィ。こっちの退屈な男はハルヴァよ。さあ、早く肉を出しなさいな」
「ハルヴァだ。俺はシルヴィほど気が短くないから、ゆっくりでいいぞ」
ハルヴァと呼ばれた灰色の巨猫は、そう言って嘉人の足元にドサリと座り込んだ。それだけで地面が僅かに揺れる。
(シルヴィに、ハルヴァか……)
嘉人は大きく息を吐き出し、タブレットの在庫画面を開いた。操作する指はまだ少し震えているが、やるべきことは決まっている。
肉を出庫する前に、嘉人はこっそりとタブレットのカメラを二匹に向け、ナレッジ検索を走らせた。この得体の知れない存在が何者なのか、少しでも情報が欲しかった。
画面上の検索ウィンドウに、即座に該当するテキストが表示される。
【種族名:シルヴァン・フェリス】
『古くから森の主と崇められる希少種。高い知性を持ち、人語を解する個体も確認されている。非常に気まぐれだが、気に入った者の側に居着く習性がある』
(シルヴァン・フェリス……森の猫、か)
ナレッジに記された〝居着く〟という言葉に、嘉人は一抹の不安と、それ以上の安
堵を覚えた。
人語を理解し、無闇矢鱈と攻撃もしてこない。肉を求めるということは肉食か雑食だろうが、欲しいものを強引に奪わず、交渉のようなやりとりを行う知性と理性もある。
上手くコミュニケーションが取れれば、いろいろとこの世界のことを教えてくれそうだ。
「あー……昨日の夜に嗅いだ肉が欲しいんだよな? ちょっと待っててくれ」
嘉人はそう言って、二匹の巨猫を外に残し、岩壁の扉を開けて小屋の中へと戻った。
室内には、昨晩の熱をまだ蓄えた石の調理台がある。嘉人は手際よく囲炉裏の火を熾し直すと、タブレットで在庫数を確認した。
「ボーン・ボア一頭分、可食部位だけで数百キロの在庫がある。四キロ程度なら誤差の範囲内か」
嘉人はリストからロース肉を選択し、四キロ分を【出庫】した。一匹二キロもあれば十分だろう。
ジュウウウウ──と、昨日と同じ焼けた肉の香りが小屋に満ちる。
表面はカリッと、中は肉汁を閉じ込めた完璧な状態。嘉人は、これまたアセンブリで作っておいた石の平皿に、山盛りのステーキを盛り付けた。
この焼き上がったばかりの肉を手に、嘉人は再び扉を開けた。
「待たせたな。……特製のボーン・ボアのグリルだ」
嘉人が外へ出ると、シルヴィとハルヴァが「待ちかねたわ」と言わんばかりに鼻を鳴らした。
嘉人は二匹の間に、山盛りの肉が乗った石皿を置いた。
二匹はそれ以上の言葉を交わすことなく、差し出された肉を口へと運んだ。
一口、咀嚼した瞬間にハルヴァの動きが止まる。黄金色の瞳が驚愕に揺れ、そのまま吸い込まれるように次の肉へと顔を寄せた。
シルヴィもまた、優雅な所作を忘れたかのように、一心不乱に肉を食んでいる。
「おお……! 泥の臭いも、血の嫌な苦味も一切ない。肉の純粋な力だけが、熱と共に喉へ溶けていくようだ」
「信じられないわね。ただ焼いただけのはずなのに、どうしてこれほど澄んだ味がするのかしら。まるで、肉の最も高貴な部分だけを抽出したみたいだわ」
夢中で肉を頬張る二匹を眺めながら、嘉人はようやく安堵の溜息をついた。
(構成編集で不純物をパージし、硬い筋や骨を徹底的に排除して、純粋な可食部だけに『再定義』した成果だな。野生の鋭い味覚にとって、この徹底した雑味のなさは、何物にも代えがたい贅沢なんだろう)
USCの力があれば、ただの一般人である嘉人にも、〝森の主〟と称される相手に、価値のあるものを提供できる。
嘉人はタブレットの画面をオフにすると、膝を折って彼らと同じ目線で座った。
「お口に合ったようで何よりだ。……それで、シルヴィ、ハルヴァ。いろいろ聞きたいことがあるんだが、質問してもいいか?」
「いいわよ」
ペロリと肉の塊を平らげたシルヴィが、あっさりと頷いた。
「こんな美味しい肉を出されたのだから、求めにはちゃんと答えてあげるわ」
「うむ。なんなりと聞くが良い」
嘉人はようやく、意思疎通ができる異世界の住人と、初めて会話を進められる環境を作り出すことに成功した。




