第23話 微熱の抱擁
昨夜、エルネシアがもたらしたクリムゾンベリーのソースは、不踏の大森林という野生の脅威が蔓延る危険地帯において、豊かな時間を嘉人たちに提供してくれた。
これまでは限られたリソースのせいで塩を振った食事しか食べられなかったが、なるほど、手持ちの食材に一手間加えれば味のバリエーションは大きく広がるらしい。
これを機に、嘉人はエルネシアにUSCの【在庫】にある食糧一覧をすべて伝えておくことにした。
今、【在庫】にあるのはボーン・ボアの肉、フォレスト・バイソンの肉、弾力鱗、透過魚、ぬくだまり、デルタ・ポテト、クリムゾンベリー、氷結菜、膨張豆、潜土蛇、炸裂実、そして塩と脂蝋樹の実だ。
これで他にどんな料理ができるのかと聞いてみれば、「片手で数えるくらいだけど、何品か作れそう」とのこと。
おかげで、拠点にいた時よりも、こうして移動しながらのキャンプみたいな状況の方が、より豊かな食事を楽しめるという逆転現象が起きてしまった。
こうして道中の食事事情は大きく改善されたのだが、かといって楽になったかと問われれば、それはまた別の話だ。
不踏の大森林を、支配種であるシルヴィとハルヴァの背に乗って駆け抜けるのは、なかなかどうして大変だ。ライディング・ユニットのおかげで衝撃こそ吸収できているが、前傾姿勢で何時間も同じ姿勢で居続けるのは厳しい。日が経つごとに心身にダメージが蓄積していくのを感じている。
さらに、天候の変化にも苦しめられた。
不踏の大森林は、あくまでも予想の範囲を出ないが、一辺が八百キロメートルから一千キロメートルくらいあると思われる。日本の本州くらいならすっぽりと収まるサイズだ。
これほど広大であれば、場所によって天候が全く異なるのも無理はない。さっきまで晴れていたのに急に雲行きが怪しくなり、雨が降ってきて気づけば嵐になっていた──なんてことも、この移動中には珍しくなかった。実際、移動中には激しい風雨に足止めされることも一度や二度ではなかった。
また、苦しめられたのは天候だけではない。
どうやら進行ルートがブラッドベアの縄張りだったらしく、不運にも鉢合わせしてシルヴィとハルヴァの二匹と戦闘になったり、群れを成すフォレスト・バイソンに追いかけられたこともあった。
その都度、進行ルートの再設定を行わなければならず、思うように先へ進むことができない日があったことも、今ではあまり思い返したくない出来事だ。
そして今も、大変な事態に見舞われている。
「ハルヴァ、この豪雨じゃこれ以上の移動は無理だ! 一旦、どこかで雨宿りをしよう。先行するシルヴィにもその旨、伝えてくれ!」
「ふむ、この雨は人間にはキツイのか。承った」
さすがの支配種も、自然の猛威を前には嘉人と同意見のようだ。ハルヴァが豪雨の中でも耳に届く遠吠えを上げると、しばらくしてシルヴィが戻ってきた。
「どうかしたの?」
シルヴィがけろっとした顔で聞いてくる。
「どうかしたの? じゃないよ。この豪雨だ。これ以上、無理して進むのはやめて、この辺りでキャンプにしよう」
「賛成! 賛成、賛成、大賛成!」
シルヴィの背中でぐったりしていたエルネシアが、〝キャンプ〟の一言で飛び起きた。どうやら元気なのはシルヴィだけらしい。
「でも、キャンプにするって言っても、ここ傾斜よ? あの小屋が出せる場所がないんじゃない?」
「そこは大丈夫」
ハルヴァの背から降りた嘉人は、【入庫】を立ち上げた。彼がターゲットに指定したのは、傾斜地の土砂と、突き出した無骨な岩の一部だ。
嘉人が端末を操作するたび、指定した範囲の土が【入庫】され、そこには定規で引いたような垂直の壁と、完全に水平な地面が削り出されていた。
「よし、これで小屋が置ける」
削り出された平地に、嘉人は手際よく【在庫】からキャンプ用の小屋を【出庫】した。
「ほら、早く中に入ろう」
「ええ」
「シルヴィとハルヴァは──」
「私らは、この建物の陰で十分さ」
このキャンプ用の小屋は、シルヴィやハルヴァが入ることを想定していない。二匹同時どころか、一匹でも入るのは難しいサイズだ
なので、二匹がそう言ってくれて助かった。もしかすると、この豪雨も彼らにとってはただのシャワーのようなものかもしれない。
「ふぃ~……ひどい雨だったわね」
「まったくだ」
脂蝋樹から抽出した油を、木製の受け皿に溜めただけの簡素な照明に火を灯しながら、嘉人は答えた。
「とりあえず、濡れた服を──」
振り返って、嘉人は思わず言葉を飲み込んだ。
そこには、ずぶ濡れで体温を奪われ、小刻みに震えながら自分を抱きしめるエルネシアの姿があった。張り付いた服が彼女の細いラインを露わにしている。
「さすがにちょっと冷えて──ちょっとヨシト、どうしたの?」
「あ、いや……ともかく、濡れた服をなんとかしよう。ええと……」
このキャンプ用の小さな小屋には、残念ながら暖を取る設備は備わっていない。備わっているのは、せいぜい軽自動車のキャンピングカーの設備くらいなものだ。
本来なら、それで十分だった。
食糧はUSCの【在庫】にあるので、そこから【出庫】すれば新鮮な状態のまま、あるいは出来たてのまま取り出せる。
衣服の汚れもUSCに【入庫】して、汚れた部分を〝構成編集〟で取り除くことで綺麗になる。
だからと言って、ここでエルネシアに「服を全部脱げ」と言えるわけがない。
「ねぇ、ヨシト。濡れたままだと、風邪引いちゃうよ?」
「そうだけど、乾かす手段が──」
「だから……はい。微熱の抱擁」
エルネシアがパチンと指を鳴らすと、まるで陽だまりのような温かな光が弾けた。
瞬く間にエルネシアの服が──いや、エルネシアだけでなく嘉人の服までもが乾いていく。まるで天日干ししたかのような質感へと変わった。
「………………」
「あ、これ? 生活魔法の一つよ。服を乾かすなんて、晴れた日に外に干しておけば十分だけど、こういう時に便利よね」
「魔法が使えたのかよ!?」
「えへへ、そんなに驚く? 里じゃこれくらい、誰でも使えるわよ?」
呆然と立ち尽くす嘉人を余所に、エルネシアは濡れて張り付いた前髪を指先で軽くはね上げた。
「そ、それならもっと早く言ってくれよ! この小屋には暖炉や囲炉裏もないし、どうやって濡れた服を乾かそうかと、ずっと考えていたんだぞ」
「いや、あたしだって普段はそんな使わないわよ。生活魔法なんて、他で代用できるんだもの。でも今は緊急事態でしょ? 風邪でも引いたら大変じゃない。でしょ?」
そう言って、彼女はわざとらしく嘉人の顔を下から覗き込んだ。その瞳には、嘉人の動揺を余さず観察しようとする、明確な悪戯心が宿っている。
「それに、見て。ヨシトの服も、あたしがあったか~くしてあげたのよ? 感謝してほしいわね」
エルネシアがさらに一歩、距離を詰める。狭い小屋の中、彼女が動くたびに魔法で活性化された微熱が嘉人の肌をかすめた。
「……感謝はしている。ただ、あまりに想定外すぎて、どう反応すればいいのか分からなくなっただけだ」
嘉人は必死に視線を逸らしたが、狭い小屋の中では逃げ場がない。エルネシアの指先が、嘉人の胸元をちょん、と突いた。
「それでさっきから心臓がすごい速さで動いてるもの? ……ねぇ、それも『想定外』のせい?」
「っ、それは……君が、近すぎるからだ。そんなに詰め寄られたら、誰だって落ち着かないだろ」
「ふーん、そうなの? ──じゃあ、もっと落ち着かなくしてあげようか?」
彼女がさらに顔を近づけると、ベリーのような甘い香りが嘉人の鼻腔をくすぐった。こんなに近くで他人の体温を感じたのは、いつ以来だろう。
思わず触れてしまいたくなる衝動に駆られたが、けれど逆に──いや、だからこそ、かもしれない。
かつての仕事──物流の現場では、想定外の事態に直面することなど幾度となくあった。そのたびに慌てていては仕事の流れが滞ってしまう。だからこそ、こういうときに嘉人は冷静になってしまうのだ。
「もう、いい加減にしろって」
「んきゃっ!」
嘉人はエルネシアを引き離して、頭をコツンと叩いた。
「いたぁーい! 何するのよ、ヨシト!」
「痛くないだろ。そんな強く叩いてない。だいたい、そっちこそ人が困ってる姿を見て楽しむんじゃない」
「えー……だってほら、ヨシトっていつも余裕たっぷりな顔してるじゃない。どんな獣が出てもどんな崖があっても、その魔道書を眺めて、『全部わかってます』って顔してさ」
エルネシアは叩かれた額を両手で押さえながら、唇を尖らせて嘉人を睨んだ。
「なのに、さっきはあたしを見た瞬間に、壊れたみたいに固まっちゃうんだもん。あんなに焦った顔されたら、あたしだってちょっとくらい、からかいたくもなるわよ。ヨシトでも変な顔することあるんだな~って思ったら、おかしくって」
「そりゃあ……俺だって、そこまで鉄面皮なわけじゃないぞ」
嘉人はぶっきらぼうに答え、ようやく落ち着いてきた心拍数を隠すように背を向けた。
彼にとって、彼女は希少な技術を持つ者であり、魔器の制作においていずれ協力してもらおうと考えているエンジニアだ。それなのに、先ほど脳裏に焼き付いたずぶ濡れの彼女のシルエットが、どうしても思考の隅でノイズのようにチラつく。
一方のエルネシアも、言い返してはみたものの、嘉人の本気で困った顔を間近で見たせいで、自分の心臓も少しだけ普段より騒がしくなっていることに気づき、急に気恥ずかしくなった。
「まぁ……あたしもちょっと、からかいすぎたかなぁって思うし、この話はおしまい! もう寝ましょ。魔法のお礼、明日の朝ごはん楽しみにしてるからね」
彼女は逃げ込むように自分用のベッドへと潜り込み、毛布を頭から被ってしまった。
「お、おい! ……はぁ~……ったく」
嘉人は深いため息をついて、ランプの火を消した。
照明を消された暗闇の中、嘉人は一人、ようやく正常なリズムに戻り始めた心臓の音を聞きながら、自分でも気づかないほど深い溜息を、再び吐いていた。
かつての仕事、物流の現場で培った〝冷静さ〟という盾も、この狭い小屋の中に漂う、魔法で温められた熱気までは防いでくれない。
冷や汗のせいで、せっかく魔法で乾かしてもらったシャツが、また少し湿ったような気がした。




