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第8話 二学期初日にいじめられたら校門で金髪美女が待っていた

真一は家を出て、学校への道を歩き始めた。


過ぎ去ろうとする夏の日差しが、まだ朝の空気を暖かく包んでいる。遠くに見える海は光を散りばめたように輝き、青色と白色がくっきりと塗り分けられた空が目の前に広がっていた。


――三崎愛理に会える――


そう思うだけで、足取りが軽くなった。


ニューヨークでの日々は散々だった。記憶があいまいなところもあるが、とにかく散々だったのは確かだ。


帰国してからもアンジェリーナという名の突然の同居人に振り回され、無邪鬼とかいう五十センチの毒舌式神が加わり、平穏とはほど遠い夏休みだった。


でも、今日からは違う。


「ああ、もうすぐ三崎愛理に会えるんだ」


口に出してしまってから、周りに誰もいないか見回した。

残念なことにいた。


「ねえ。ヤラれた?」


加藤瑞穂が後ろについてきていることに気づいていなかった。


加藤瑞穂。幼稚園からの幼馴染だ。幼い頃は手をつないで通園した。あの頃の瑞穂はかわいかった。笑顔で話しかけてくれたし、いつも真一の側から離れなかった。


小学校に上がると、立場は逆転した。真一がいじめの標的になっていくのを、瑞穂は側で見ていた。助けてくれることはなかった。それどころか、彼女の整った顔立ちとスタイルはクラスの中で人気を集め、真一とは距離をおくようになった。


瑞穂にとって、真一は「小さい頃の汚点」になったのだろう。真一もそう思っていた。


ところが、中学に入ると瑞穂は再び真一に話しかけるようになった。ただし、その内容は幼い頃とはまるで違っていた。


真一は視線を合わせないように、瑞穂の前を素通りしようとした。


「ねえ、ヤラれたんでしょ? ねえってば」


こんな質問を、周りに誰もいないときにだけ真一にする。


瑞穂は真一が男に犯されるのを夢想している。たぶん、今の人生で最も興味があるのは、真一が犯されることに違いない。


「アメリカに行ったんでしょ? 筋肉質の黒人? それとも腕に刺青の白人だった? 教えてよ」


彼女は真一がレイプされたことを前提に聞いている。


――そんなことはありえない――


万が一あったとしても、どうして加藤瑞穂に話さなければならないのか。


「後ろからよね? 縛られた?」


恍惚とした表情を浮かべている瑞穂の顔が、視界の隅に入った。頬がほんのりと紅く染まっている。気持ち悪い。


真一は無視して先を行く。


彼女は追ってこない。真一と一緒に学校へ行くことは絶対にないのだ。趣味上の興味があるだけで、クラスメートに並んでいるところを見られたくないはず。なにしろ、可愛さだけなら学年のトップグループの一人なのだから。


だから真一とは一定の距離を置き、二人きりになったときだけ、自分の妄想を膨らませるためだけに声をかける。


――朝から嫌なヤツに会ってしまった――


せっかくの気分が台無しだ。


真一は三崎愛理を思い浮かべた。窓際の席で友達と笑っている横顔。夏の風に揺れる髪。


――かわいいな――


そう思うだけで、汚されかけた朝の気分が、少しだけ洗い流された。


声に出ないように注意しながら夢想する。


◇◆◇


教室のドアを開けると、夏休み明け特有のざわめきが真一を迎えた。日焼けした顔、土産話に花を咲かせる声、黒板に書かれた始業式の時間割。


真一は誰とも目を合わせず、まっすぐ自分の席に向かった。


三崎愛理がいた。


窓際の席で、友達と何か話している。仕草の一つ一つが柔らかくて、笑うと目が細くなる。


もちろん直接見ることはできない。視界の隅にいるのを確認するだけだった。それだけでも、心臓が高鳴り、喉がかわき、手に汗がにじむ。


教室という同じ空間にいるだけで、真一は幸せだった。


席に座り、鞄から教科書を取り出すふりをしながら、視界の隅の三崎愛理を眺めた。


彼女が笑っている。その笑い声が、教室の喧騒の中から不思議と真一の耳に届く。


――あの笑顔がボクに向けられなくてもいい。同じ教室にいられるだけで十分――


そう自分に言い聞かせた。身の程はわきまえている。わきまえた上で、視界の隅に彼女がいるという幸福を噛みしめる。それが真一の学校生活だった。


幸福な時間を過ごしていると、視界を人影が遮った。


「藤原。夏休みにアメリカに行っていたんだって?」


幸福な時間は短い。いつだって短い。


「生意気なんだよな」


数人の男子生徒が真一の机を囲んだ。リーダー格の男が腕を組んで真一を見下ろしている。その後ろに二人。いつもの三人組だ。


一人が真一の腕を掴んだ。


「ちょっと、つきあってくれよ」


ニタニタと笑いながら言う。


「もうすぐ始業式だよ?」


白々しく聞いた。もちろん、どこへ行くかわかっている。トイレか、人気のない校舎裏。いつもどちらかだ。


「いいから、つきあえよ」


言い訳をしてみたが、始業ベルが鳴るまで二十分以上ある。いつもならギリギリに登校するのだが、今日は三崎愛理に久しぶりに会えると思って早く来てしまった。


うかつだった。


誰にも見えないように、脇腹を殴られた。拳が肋骨の下にめり込む。一瞬、息ができなかった。


でも、体は慣れている。痛みに顔をゆがめない。声を上げない。反応すると面白がって、もっとやられる。それは十五年間の経験が教えてくれたことだ。


腕を引っ張られ、席を立たされた。教室を横切るとき、サトシとケンヤが見えた。


二人ともわざと視線を合わせないようにうつむいている。


三人はコミケに行き、聖地巡礼の計画を実行し、ファミレスで何時間も語り合った。その三人と、今この教室にいる三人は別人だ。


フィギュアやアニメのことは話しても、学校の出来事は絶対に語らない。それが暗黙のルールだった。三人は三人ともいじめられていた。三人が話していたり、いっしょにいるだけでもいじめの対象となる。だから、学校では三人は他人であることを演じた。


誰も悪くない。学校とはそういう場所なのだ。


教室の出口を通過する瞬間、加藤瑞穂が真一を見ているのに気づいた。席に座ったまま、頬杖をつき、連れていかれる真一をじっと目で追っている。その瞳には、朝の通学路と同じ、好奇心の光が宿っていた。


三崎愛理も視界に入った。


彼女は友達と話し続けている。連れていかれる真一にまったく気づいていなかった。


救われた、と真一は思った。


彼女に、こんな姿を見られなくてよかった。こんな情けない姿を見られたら、視界の隅に置くことすら許されなくなる気がした。


◇◆◇


連れていかれたのはトイレだった。


今回は便器をひとなめするだけですんだ。


本当に助かったと真一はそう思うことにした。便器の味には慣れている。洗剤の味が少しするが、それだけのことだ。なめた後は何度もうがいすれば問題ない。


鏡で顔を確認した。目は充血していない。頬も腫れていない。ママに心配をかけずにすむ。


口をゆすぎ、ハンカチで顔を拭くと、真一は何事もなかったかのように教室に戻った。


◇◆◇


始業式が終わり、あとは担任の話が終わるのを待つだけだった。


帰り支度はもう済ませている。この教室から脱出する準備は万全だ。


サトシが振り向いた。今日はどうする、と目で訴えかけている。


真一は他の生徒にはわからないように首を振った。ママに早く帰るように言われていた。家にはアンジェリーナと無邪鬼がいる。何をしでかすかわからない二人を、ママ一人に任せるわけにはいかない。


サトシは少しだけ残念そうな顔をして、前を向いた。


その後、真一は明日まで拝めない三崎愛理の横顔を視界の端で見ていた。記憶に焼き付けるように。


担任が「以上です」と言った瞬間、真一は立ち上がった。


急いで教室を出る。誰にも気づかれないように。特にいじめっ子に声をかけられる前に。静かに、でも早足で。


長年の経験から身についた技術だった。教室を出るタイミング、廊下での歩く速さ、階段の降り方。いじめっ子の視界を避ける最短ルートを見つけるのは得意だ。


靴箱でスニーカーに履き替え、足早に校門へ向かう。


あとは校門を出れば、今日という一日は無事に終わる。便器の味と脇腹の鈍痛を引いても、三崎愛理の横顔を久しぶりに見ることができたのだから良い一日だった。


――明日は、もう少しギリギリに登校しよう。そうすれば、いじめっ子に捕まる確率は下がる。でも三崎愛理を眺める時間は減るのか。悩ましい――


校門が見えたとき、突然、教室に戻りたくなった。


たばこを吸っている金髪の女性が校門の柱にもたれかけて立っていた。


胸がこれでもかと強調されたタンクトップに、お尻の三分の一は見えているであろうデニムのショートパンツ。長い脚を組むようにして立ち、煙を空に吐いている。


アンジェリーナだった。


彼女の周囲には、異様な空間ができていた。下校する生徒たちが校門の手前で歩みを緩める。男子生徒は口を開けて、彼女に目を奪われ、女子生徒はひそひそと囁き合っている。


「誰、あの人?」


「モデル?」


「うちの学校の人じゃないよね?」


「やばくない?」


真一の頭は混乱した。


――なぜ、ここにいる! なぜよりによって校門に! そんな目立つ格好で! しかもたばこまで吸って――


真一はアンジェリーナに駆け寄ると、彼女の腕を掴んで引っ張った。


「帰るよ! 今すぐ!」


アンジェリーナは英語で何か叫んでいる。たぶん「はなせ」とか「何するの」とか、そういう類のことだろう。真一の英語力では正確にはわからないし、わかりたくもなかった。


聞く耳を持たず、黙々と歩き続けた。たばこの煙がまだ鼻をつく。


背後で、生徒たちの視線が突き刺さるのを感じた。


あの藤原真一が、あんなとんでもない美女の腕を引っ張っている。明日の朝までに、その目撃談は学校中に広まるだろう。尾ひれ、背びれもつき、最終的にはまったく別の生き物になった噂は学校を駆け巡るだろう。


いじめっ子の格好の餌だ。


真一は歩きながら、明日学校を休む理由を必死に考え始めた。


――腹痛。発熱。頭痛。だめだ。きっとママには嘘だとバレるだろう。十五年間、ママにバレなかった嘘はないんだから――


腕を掴まれたままのアンジェリーナは、まだ何か不満を言っているようだった。だが、どこかいたずらっぽい顔をして楽しんでいるように見えた。

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