第9話 アンジェリーナの一日
窓の外からは鳥のかわいい声と温かい光がはいってくる。
ここ最近、アンジェリーナは夢と現実がわからなくなった。
熱いだけで温かみのない日差し、年中、どんよりとした大気、鼻が腐るような汚水の匂い。いつまでも鳴り止まないクラクションと警報器。時々聞こえる銃声と悲鳴。
少し前までは、これが現実だった。
今は、清潔で体を優しく包むシーツ。深い眠りに導く柔らかい枕。気分を落ち着かせる香り。
階下からは食器の触れ合う音と、香ばしいバターとトーストの香りに、焙煎されて間もないであろう新鮮なコーヒーの香りが合わさって上がってくる。
今は、これが現実。
アンジェリーナは布団を頭からかぶった。
――気持ち悪い――
この家に来て四日目。まだ慣れない。もともと慣れるつもりもなかったが、こんなに居心地が悪くなるとは思わなかった。
朝起きたら食事が用意されている。朝から温かいシャワーも浴びられる。着る服はきれいに洗濯され、たたまれている。冷蔵庫のビールも、ワインクーラーのワインもいくらでも飲んでいいと言われている。
「アンジェリーナさん。朝ご飯できているわよ」
真一の母――美夜子――の声で、布団をはねのけ、起き上がった。
慌てて着替えて、一階に降りた。
◇◆◇
朝食で無邪鬼といろいろあって、汚れたのでシャワーを浴びた。
着替えると、たばことライター、あとワインを持ってベランダの椅子に座り、たばこに火をつけた。
ワインをグラスに注ぎ、口に含んでは味わって飲んだ。
ベランダからは住宅街が見える。同じような形の屋根が連なっている。人の気配がしない。朝から何もしてないで酒を飲んでいるやつなんていないさ。
ベランダでたばこを吸うようになったのは理由がある。
この家に来た初日、リビングのソファにもたれ、たばこを口にくわえたまさにそのとき、そのたばこが半分に切断されたかと思うと首筋に冷たいものを感じた。美夜子の手刀だった。いつの間にかアンジェリーナの後ろに回った美夜子が彼女の耳のそばで、
「家の中でたばこは吸わないで」
と優しい声で伝えた。
組織や仲介屋には逆らってきたアンジェリーナだが、そのとき、美夜子に逆らわないことを誓った。
ニューヨークの四十二丁目では、退屈という感覚はなかった。いつも何かに追われていた。いつも警戒をしながら、儲け話と良客を探していた。ベッドにたどり着いた頃には、疲れ切り、死んだように眠った。
――幸せってのは、こういう感じなのかな――
たばこの灰を灰皿に落とした。
◇◆◇
午後になると、退屈が限界に達した。
美夜子は買い物に出かけた。真一は学校。
アンジェリーナは靴をひっかけて外に出た。
あてもなく歩いた。住宅街を抜け、商店街を通り、坂を上った。土地勘のない場所でも迷わない自信がある。東ヨーロッパからニューヨークまで一人でたどり着けたのだから。
坂の上に出ると、海が見えた。九月の海は夏の名残を含んだ青さで、光を反射してきらきらと揺れていた。
以前に、同じようなきれいな海を見たことがあったが、どこだか、憶えていない。
しばらく眺めてから、また歩き出した。坂を下り、角を曲がり、知らない道を歩く。
人の良さそうな老婆に話しかけられた。
何を言っているのかわからなかったが、笑顔だけは返した。なぜかアメをくれた。
ランニングをしている男がすれ違いざま、彼女に目を奪われたのか、電柱にぶつかっていた。
しばらく歩いているうちに、気づけば学校の前にいた。
校門の向こうに、校舎が見える。朝、真一が着ていった制服と同じ制服を着た生徒たちが見えた。
アンジェリーナは校門の柱にもたれかけ、たばこに火をつけた。
校舎の中から、チャイムの音が聞こえた。
しばらくして、生徒たちがぞろぞろと校門から出てきた。
アンジェリーナを見て、男子生徒は口を開けたまま見つめながら通り過ぎていき、女子生徒はひそひそ話しながら去って行く。
こういう視線には慣れている。ニューヨークでも男の視線は同じだった。値踏みするか、性の対象と見るか。女の視線も嫉妬か警戒、時には軽蔑を含んでいる。どこの国でも変わらない。
アンジェリーナは気にも留めなかった。
ただ、一人だけ気になる女子生徒がいた。
髪が長く、顔立ちが整っている。周囲の友達と笑い合いながら歩いてくる。明るくて、人懐っこくて、この学校では人気者なのだろう。
しかし、なぜか彼女に違和感を覚えた。ここにいるには、あまりにも場違いであり、異質だった。そう、まるで、今のアンジェリーナのようだった。
少女もアンジェリーナの視線に気づいた。
少女の顔から笑顔が消えた。
一瞬だった。ほんの一瞬、少女の顔から色が失せた。
「どうしたの? 愛理」
少女といっしょに歩いていた生徒がたずねた。
「何でもない」
少女はそう答えると笑顔で、アンジェリーナの前を通り過ぎた。
少女を見送った後、真一が校門に向かって歩いてくるのに気づいた。
アンジェリーナを見た瞬間、真一の顔が青ざめたように見えた。
真一は駆け寄ってくると、アンジェリーナの腕を掴んだ。
「帰るよ! 今すぐ!」
引っ張られた。力は弱い。振りほどこうと思えばいつでもできる。でも真一は、必死の形相でアンジェリーナの腕を掴んで放さなかった。
背後で生徒たちがざわめいているのが聞こえた。
真一に何を言っても、聞いていない。前だけを見て、黙々と歩いている。その横顔は真っ赤だった。耳まで赤い。
アンジェリーナは真一に腕を引かれながら、彼の真面目で懸命な様子をおかしく思った。
アンジェリーナの知らない町、知らない道での暇つぶしの散歩は終わった。




