第10話 体育祭のリレーで好きな子にバトンを渡せることになった
二学期が始まって最初のイベントは体育祭だった。
真一にとって体育祭は、どれだけ目立たないようにするかがすべてである。
目立ってはいけない。クラスの中に紛れ込み、なるべく後方で何もしない。しかも何もしていないことに気づかれてはいけない。
そのスキルは、小学生の時からの経験を通して、少しずつ磨かれていった。
それでも、時には予想外の外部要因によって、積み上げてきたスキルが通用しないこともある。
「では、今度の体育祭でのクラス対抗リレーに誰が出るか決めたいと思います」
クラス委員長の相良康彦が、教壇に立ってクラスに向かって言った。
――まさに正念場――
ここを無事に過ごせば、体育祭を平穏に過ごせる。
真一には勝算があった。このクラスには運動部の連中がたくさんいる。足の速い奴が出ればいいのだから、真一に声がかかるはずがない。
それでも、ふざけて真一の名前を出す奴がいるかもしれない。それが唯一の不安材料だった。
「陸上部の奴が出ればいいんじゃないか」
誰かが言った。
――よし。その方向で頼む――
「体育祭のルールで、運動部の生徒はクラス対抗のリレーには出ることができません。ですので、運動部以外の生徒から選びます」
クラス委員長の言葉が、真一を奈落に突き落とした。
「でもよ、クラスに運動部以外の奴なんて、ほとんどいないぜ」
真一は少しでも存在を消そうと、わずかに俯いた。机の木目を見つめる。呼吸を浅くする。気配を殺す。十五年の経験が培ったスキルをすべて注ぎ込む。
「運動部に入っていない人、立ってください」
クラス委員長の残酷な言葉には、真一のスキルは通用しなかった。
椅子をずらして立ち上がる音が聞こえる。心臓の鼓動が次第に激しくなる。
立たずにいようか。
――いやダメだ――
バレてしまったら、もっとひどいことになる。
真一はゆっくりと立ち上がった。
見渡すと、勉強のできる生徒が数人、そして真一と同じ側にいるサトシとケンヤ。三人はいつものように目を合わせなかった。
「これじゃあ、だめだろ」
無遠慮な感想に笑いが起きた。
「誰が出ても同じだって。藤原、お前出ろよ。金髪の彼女が応援してくれるだろ?」
クラスが沸いた。死刑宣告だった。
顔が引きつるのを感じた。でも言葉が出ない。
「あとは、そこの二人でいいだろ」
サトシとケンヤを顎で示す。二人の顔がこわばった。
「では、クラス対抗リレーの男子代表は藤原君、岡本君、宮田君に決めます。異議はありますか」
「異議なーし」
クラスが拍手した。まばらで乾いた拍手だった。
真一が座りかけたとき、声が飛んだ。
「藤原! クラスの代表で出るんだから、何か抱負ぐらい言えよ」
頭の中が真っ白になった。整理がつかないまま、真一はもう一度立ち上がった。
ぼんやりとしか見えないが、生徒全員がこちらを見ている。その中に、三崎愛理がいた。
――三崎愛理が見ている――
いつもなら、それだけで心がときめくはずだった。でも今は違う。晒し者にされている自分を、彼女に見られている。
「がんばります」
そう言って、真一はあわてて座り、俯いた。今にも吐きそうだった。
「では、次に女子の代表を決めます」
「愛理、あんた運動部じゃないけど足速いよね」
「え?」
真一は、あわてて顔を上げた。
戸惑った愛理の横顔が見えた。友達に急に振られて、少し困ったような顔をしている。めったに見られない顔だった。
――かわいい――
「男子は期待できないんだから、女子が頑張らないと。ね? 愛理、出なさいよ」
「わかった」
愛理のいつもの笑顔に戻った。
奈落に一筋の光明が差し込んだ。そんな気分だった。
真一は体育祭が、少しだけ恐ろしくなくなった。
◇◆◇
放課後。
一日の緊張から解き放たれ、真一は帰り支度をしていた。運動部の連中は部活があるので、とっくに教室を出ている。いじめっ子のリーダー格もサッカー部だ。だから今は急いで帰る必要はない。
鞄のチャックを閉めようとしたとき、後ろから声がした。
「藤原」
男の声ではなかった。そこに違和感を覚えながら振り返ると、女子が三人立っていた。
先頭に立つ女子――名前はたしか山本――は、腕を組み、義務感と嫌悪感が入り交じったような顔をしている。その横に木下という女子がいて、さらにその横には三崎愛理がいた。
こんなに近くで見たのは初めてだった。
一メートルと少し。手を伸ばせば届く距離に、三崎愛理がいる。いつも視界の隅でしか見られなかった彼女が、真一の正面にいた。しかもこちらを見ている。
透き通るような乳白色の肌に、頬が少し赤みを帯びている。新しい発見だった。
――なんて、かわいくて、きれいなんだ――
心臓の鼓動が耳の奥で鳴っている。顔が熱い。手のひらが汗で湿る。
「リレーの走る順番を決めるから、残ってくれる?」
山本が、事務的な口調で言った。
◇◆◇
教室の片隅に、リレーの代表六人が集まった。
男子三人、女子三人で机を寄せ、向かい合って座った。真一のほぼ正面に愛理がいる。真一は目のやり場に困り、机の角を見つめた。
「女子の順番だけど、先頭は私。三番は木下さん。五番は愛理でいいよね」
山本が仕切る。愛理は「うん、いいよ」と微笑んだ。
「男子はどうするの?」
いつもなら、何番でも構わない。どうせ結果は同じだ。勝てば足の速い奴が英雄になり、負ければ真一たちが非難される。何番を走ろうが変わらない。
だが、今回は違った。
男女混合リレーは、男女が交互に走る。走順は女・男・女・男・女・男。愛理は五番。つまり四番を走れば、愛理にバトンを渡すことができるし、アンカーだと、愛理からバトンを受け取ることができる。
――四番かアンカーか――
アンカーは荷が重い。目立ってしまう。やはり四番だ。四番しかない。
でも、そんなことは口にできない。自分から何かを主張するなんて、生まれてこのかた一度もないのだから。
真一は黙って、運を天に任せた。
横目でサトシとケンヤを見た。二人とも、いかにもやる気のない顔をしている。だが、真一には目の奥に野心が見えた。
――こいつらも、同じことを考えているな――
三人は、クラスメートには知られていないが親友だった。でも今は違う。私利私欲のためなら親友を裏切りかねない。
黙ったまま誰も何も言わない男子三人に、山本が苛立った。
「何してるのよ。じゃんけんで決めなさいよ。はい、最初はグー」
真一は拳を前に出した。
――勝ちたい――
生まれてこのかた、こんなにじゃんけんに勝ちたいと思ったことはなかった。
「じゃんけん、ほい!」
真一はパーを出した。サトシとケンヤはグーだった。
勝った。
運ではなかった。二人の腕の動きが見えたのだ。手首の角度、指の開き方。二人が何を出そうとしているのか、振り下ろす途中でわかった。
こんなことは初めてだった。
「藤原、何番走るの」
山本の声で我に返った。
四番に決まっている。でも声が出なかった。それでも、なんとか。
「四番」
と言えた。
サトシが二番、ケンヤがアンカーの六番に決まった。サトシは残念そうな顔を隠しきれていない。ケンヤは満足そうだった。
走順が決まった。
山本、サトシ、木下、真一、愛理、ケンヤ。
真一の次は、三崎愛理だ。
「じゃ、明日の放課後から練習ね。バトンの受け渡しぐらいはやっておかないと。あまりに無様な負け方はしたくないから。わかっているわね」
山本がそう言って立ち上がった。
解散する六人の中で、真一だけが少し遅れて席を立った。足が震えていた。三崎愛理をあまりにも近くで見られたことに感動していた。
愛理が教室を出る間際、振り返って真一のほうを見たような気がした。
勘違いかもしれない。
でも、勘違いでもよかった。それよりも三崎愛理をこんなに近くで見ることができた。その上、明日からのリレーの練習で三崎愛理に近づける機会が与えられた。真一は体育祭に感謝した。




