第11話 アンジェリーナの過去
夜の静けさの中、か細い鈴の音だけが聞こえる。鈴虫という虫の音だと美夜子から教わった。
アンジェリーナにとってあまりにも静かすぎて、眠れなかった。
そんな夜が続いている。
ニューヨークでは、生活に追われ、少しも警戒心を解くことができなかった。夜一人でベッドに入ると、街の喧噪が聞こえようとも、疲れから瞬く間に眠りにつくことができた。
だから思い出すことはなかった。
この静かな夜は物心ついたころの記憶を思い出させる。
◇◆◇
湿った石壁に囲まれ、壁の高いところに小さな窓があった。
消毒液と、大勢の子供の体臭が混ざった匂い。東ヨーロッパのどこかの国。国の名前すら知らなかった。
アンジェリーナは五歳か六歳だった。年齢も正確にはわからない。孤児院には記録があったのかもしれないが、子供たちにそんなものは教えられなかった。
ベッドは二段式で、一つのベッドに二人が寝る。毛布は薄く、冬になると子供たちは互いの体温で暖を取った。
同じベッドにはマリカがいた。
マリカは亜麻色の髪をした小さな女の子で、いつもアンジェリーナに触れたまま眠った。よく泣いては、鼻水を垂らし、アンジェリーナがそれを拭いてやった。
ある朝、マリカがいなくなった。
夜中に大人たちが来て、マリカを連れていった。アンジェリーナは目を覚ましていたが、怖くて動けなかった。
翌日、管理者に聞いた。マリカはどこに行ったのかと。
管理者は笑って、「いい家族に引き取られたわ」と言った。
そう信じていた。でも子供の中には「売られていくんだ」とか「何かの実験に使われるんだ」という者もいた。
マリカの後も、子供たちは消えていった。夜中に、一人ずつ、音も立てずにいなくなる。
そんなある日の夜中。
周りを大人たちが囲んでいるのに気づいて、アンジェリーナは目を覚ました。
ベッドから飛び出し、慌てて走った。いつも閉まっている扉が開いていた。
アンジェリーナは建物から飛び出した。
素足のままだった。足の裏が痛い。でも恐怖心が勝った。
走った。ただひたすら走った。遠くで犬の吠える声が聞こえる。
森の中に逃げ込み、木の根元に体を丸めて隠れた。息を殺した。犬の声が近づき、遠ざかり、また近づいた。
朝まで、一睡もできなかった。
◇◆◇
それからヨーロッパを転々とした。
ゴミ箱を漁り、店先の食べ物を盗み、人を騙して金を奪ったこともある。建物の隙間や人の目の届かない物陰で体を小さくして眠った。
行き先はいつも勘まかせだった。それでも捕まることなく、逃亡生活を続けた。
できれば、ヨーロッパを出てアメリカに渡りたかった。遠ければ遠いほどいい。あの孤児院から、できる限り遠くへ。
ある街の教会の片隅で眠っていると、神父に起こされた。
神父は食事をくれた。温かいスープとパン。久しぶりにまともな食事だった。
神父は優しかった。「ここにいなさい」と言った。寝床まで用意してくれた。
夜中に、神父がアンジェリーナの寝床にやってきた。
神父がアンジェリーナの最初の男になった。
次の朝、日が昇らないうちに、教会の銀の食器と燭台を奪って逃げた。
銀を売り、その金でアメリカに渡った。
アンジェリーナは、この世に無償の優しさなど存在しないことを知った。
◇◆◇
心地よいシーツに包まれながら、目を閉じることはできなかった。
どこを見ていたかというわけじゃない。ただ眠れなかった。夜は長くて怖いものになった。
アンジェリーナは起き上がり、枕元に置いてあったワインを取り出した。これがないと夜を越せない。
それでも我慢できなくなると、皆が寝静まった頃を見はかり、こっそりと家を出て行った。
男を誘惑するような派手な服に身を包み、夜の街に消える。
散々遊んで飲んで、夜が明ける前には自分のベッドで眠っていた。
帰れたのは、藤原家を守る警備のおかげだった。彼らは二十四時間、護衛していたのだ。ほどよい時間になると、声をかけてくれて、家に送ってくれる。記憶をなくした時でも、気づけば家のベッドで眠っていた。
そんな夜が、何日も続いた。




