第30話 毒舌式神を喰らいサタンを封じたがボクの暴走は止まらない
アンジェリーナの眼が、見開いたまま、真一を見ていた。
真一は動けなかった。
視界には、足元に倒れたアンジェリーナしか入らない。
壊れた操り人形のように、彼女は力なく横たわっている。
ほかには何も見えなかった。
目の前に立っているサタンさえ、目に入らなかった。
時間が止まったような静寂に包まれた。
アンジェリーナの笑顔や、泣き顔、ぬくもりが思い出される。
心に大きな穴が空いた。
「残ったのはお前一人だな!」とサタンの笑いを含んだ声がした。
「我を喰うんだ!」と無邪鬼が目の前に割って入ってきた。
無邪鬼に遮られてアンジェリーナが見えない。邪魔だとばかりに腕で払い飛ばした。
払い飛ばされた無邪鬼がそれでも真一の足にしがみついてきて、
「喰うんだ、今すぐ!」とまるで泣くように叫ぶ。
「うるさい!」と再び、力ずくで無邪鬼を払った。
それでも、無邪鬼がしがみついてくる。
「どうした? もう終わりか?」とサタンが挑発する。
サタンを睨んだ。
生まれてこのかた、こんなに腹が立ったことはない。
まさに腹が煮えくり返っている思いだった。
「我を喰うんだ」と泣き叫ぶ無邪鬼に対して、
「うるさい!」と叫ぶと同時に、護符の腕を無邪鬼に向けた。
護符が無邪鬼を覆い、飲み込んでいく。
最後に満足そうで悲しそうな無邪鬼の顔を護符が覆った。
力がみなぎるのを感じた。だが、空いた穴を埋めることはできなかった。
「仲間割れか? 仲間を食ったか? 残酷よのお。もう終わりにしよう」
サタンの剣が真一に向かって振り下ろされる。
真一は印を結んで呪文を唱えた。
口から複数の呪文が同時に流れ出た。自分でも何が起きているのかわからなかった。
真一の頭上、あと数寸のところで、剣が止まった。
「何だと! なぜ動けない」
天からまばゆい光が差し込んだ。
光に沿って、十二神将が降臨する。
大きさはサタンにも並ぶほどだった。
「これは、いったい!」
十二神将が地面に降り立つと、護符の塊に変化した。
十二の固まった護符は、一気に拡散し、地面、山を覆った。
護符は脈打っていた。まるで生き物のようにうごめいている。
護符がサタンの足に触れた。
サタンの足を登り始める。足首から脛へ、脛から膝へ。
「やめろ!」
サタンが剣を振るったが、護符は切れなかった。刃が護符の表面を滑るだけだった。
膝から腰へ。腰から胸へと護符に覆われていく。
サタンは悲しそうな声でつぶやいた。
「神は……」
サタンは諦めたようだった。
「神は我らの思いを気にもとめてくれないのか」
胸から首へ。最後には頭の先まで包み込むと、まるでそこにサタンがいなかったように護符は高さをなくした。
◇◆◇
真一の左腕の護符が地面に這い、アンジェリーナのほうに伸びていく。
彼女にたどり着くと体を包んでいく。優しく、丁寧に、壊れものを扱うように。
護符の中に包まれると、しばらくして、護符が剥がれていき、
元の無傷のアンジェリーナが現れた。でも、彼女は目を覚まさなかった。
再び、護符が彼女を包み込むと、護符ごと真一の腕に引き寄せられていった。
十二神将から変化した護符は止まらなかった。
護符一枚一枚に真一の感覚が同化する。
地面を覆い尽くし、さらに広がっていく。
兵士や陰陽師たちのいる地下にも伸びる。
地下から叫び声が聞こえた。
それが人の悲鳴だとわかっても、真一には止められなかった。
なぜか、止めようとも思わなかった。
真一は歩き出した。
護符が真一についていく。
護符が通った後は何も残らなかった。
建物も、車両も、異形の者も、人間も。
◇◆◇
真行は歩き続けていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
ただただ乾いた大地を歩いた。
悪魔界では時間を意識することはあっても、感覚的な時間はわからない。
ようやく、わずかな変化が現れた。
無味無臭だった空気に、ほんのわずかだが、青い草木の匂いと湿った匂いがした。
さらに進むと、静寂の中に水の音がした。
果てしなかった地平線が、草木の茂る河に変わった。
河に着くと、対岸は見えなかった。
黒い水が左右に果てなく広がり、静かにうねっている。
波はないのに水面が揺れていた。
岸辺に、小舟が一艘あった。
舟には、一人の老人が座っていた。
灰色の外套をまとい、光のない目が、真行を見た。
鼻で笑うと、
「生者が来るとはな」と低く、しわがれた声でつぶやいた。
「私はここを渡るべきなのか?」と聞いてみた。
「さあな」と冷たく返してきた。
メフィストフェレスの声を思い出した。
「感じるままに進めば、自ずと目的地にたどり着くでしょう」
「渡してもらいたい」と老人に頼んだ。
「断る。ここは死者が渡る河だ。生者を乗せる舟ではない」
老人は真行から視線を外し、櫂を水に差した。去ろうとしている。
真行は黄金の杖・アエネアスを老人に見せた。
杖から金色の光が放たれた。
黒い水面に金色の光が反射し、河の暗さを押し返している。
老人の手が止まり、杖を凝視した。
長い沈黙の後、老人は舟を真行の前の岸に寄せた。
「乗れ」とぶっきらぼうに言った。
真行は揺れる舟に慎重に乗った。
舟が岸を離れた。舟は音もなく水面を滑るように進んだ。
◇◆◇
聖なる白い光に満ち溢れた完璧な世界だった。
真行は笑みをこぼした。
笑うつもりはなかった。だが、頬が緩むのを止められなかった。
これまでの人生で、一度もこんな感覚はなかった。冷静で、実務的で、感情を表に出すことのなかった自分が、ただこの場に立っているだけで笑っている。
言葉にできなかった。この場所を説明する言葉は、人間の言語には存在しなかった。
手の中のアエネアスが、ここでは光を放っていない。光る必要がなかった。光に囲まれているのだから。
感じるままに進んだ。
どれほど歩いたのか。天界にも時間の感覚が希薄だった。
光の先に、何かが見えた。
近づくと、それは見上げるほどの巨大な玉座だった。
玉座には表現できない何かが座っていた。
それはまるで眠っているようだった。
真行は、その前で立ち止まった。
ここが目的地だと直感した。
だから、ただ待った。
どれだけ立っただろうか。
突然、玉座のものが目を覚ました。
目を開けたが、何も語らなかったし、微動だにしない。
ただ、こちらを見下ろしていた。
真行もただ見上げたまま、何も言わなかった。
どれほどの時間が経ったのかわからない。一瞬だったのかもしれないし、永遠だったのかもしれない。
玉座のものは、再び目を閉じ、眠りについた。
それだけだった。
目的は達したと本能的に感じた。
真行は踵を返し、来た道を戻り始めた。
◇◆◇
乾いた大地が果てしなく続いた。
空も地面も同じ色をしている。風はなく、音もない。
形あるもの、生きているものは何もなかった。
その中、真一が歩いている。
毛布のような布きれを体にまとい、くすんだ包帯を顔中に巻き付けていた。
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