第23話 おじいちゃんの寺の地下にサタンが封印されていた
視界が揺らぐような京都の夏は過ぎ去り、代わりに刺すような冷たさを孕んだ澄んだ空気が朝夕の京都を覆っていた。
真行が座敷に腰を下ろすと、開け放たれた障子から本堂越しに朱に染まりきらぬ山々が見えた。
上座には真明が胡座をかいて座っていた。
薄い着物を気だるそうにまとい、絹のように長い髪を垂らした女がお茶を運んできて、真行の前に出した。
そのあと、女は真明のすぐ隣に腰を下ろすと、九本の尾を真明の背に絡ませた。真明はされるがままだった。
真行がお茶を口につけると、
「どうやら、わしが当たりくじをひいたらしい」と父がつぶやいた。
思わず、手が止まってしまった。
お茶を置き、
「そうですか」と冷静さを保ちつつ答えた。
父の言葉は、封印の結界が弱まり始めていることを意味する。
何十年かに一度、必ず訪れる周期。結界が弱まれば、当主が命を差し出して結界を張り直す。千年以上続く藤原家当主の役割であり、これまで何十人もの当主が命と引き換えに守ってきた宿命である。
藤原家が陰陽の催事への不参加を許されたのは、この役割のためだった。
「まるで図られたタイミングですね」と真行は感想を述べた。
「お前もそう思うか?」
「残念ながら、最期に立ち会うことはできない」
「この、親不孝者めが!」
思わず、笑みがこぼれて、
「あれ? 知りませんでした? そういう息子だと」
「久しぶりに来たかと思えば、茶菓子一つも持ってこないようなやつだ。わかっているさ」
「ガブリエル様に会いました」と真行は父に静かに伝えた。
「ガブリエル様はなんとおっしゃった?」
「何も答えていただけませんでした。ただ、天界では『眠れる神』が目を覚ますという噂が流れているということだけ伝えていただきました」
「『眠れる神』とな? なるほど、するとそなた、『封印せしもの』にも会うつもりだな。そのためにここへ来たのか?」
「ええ、そうです」と真行は答えた。
夕焼けが差し込み、座敷を赤く染め始めた。
◇◆◇
本堂の奥、内陣のまた奥に、古い木の扉がある。
扉を開けると奥は暗闇で何も見えない。手前の壁に掛けられていた松明を手に取り、火をつけると地下へと続く石段が見えた。苔むした壁と低い天井に挟まれた細い道が、地の底へと降りていく。
真行は降りていった。
降りるたびに、身を切るような寒さが増していき、冷たく乾いた風が下から吹き上げてくる。
石段はどこまでも続いた。気温がさらに下がる。人間の世界から、少しずつ離れていく感覚があった。
降り切ると、急に空間が開けた。
円柱の中のような空間で、天井は高すぎて見えない。
壁には巨大な十二神将が彫られていた。
地面に、複雑な術式が展開されていた。幾何学的な線と文字が、薄い光を放ちながら床一面に広がっている。
術式の中心に、それはいた。
人間と同じ大きさの体だが人間ではなかった。赤黒い肌に、額から突き出た二本の角。背中には折りたたまれた翼の名残がある。顔は人に近いが、瞳孔が縦に裂け、黄金色の虹彩が薄い光の中で輝いていた。
両腕は背中に回されていた。縄も鎖も見えない。だが身動きが取れないでいる。
そう、いにしえに神々に楯突き、天界を追われたものを先導した堕天使。
天界ではルシファーと呼ばれ、今は悪魔の王、サタンと呼ばれている。
◇◆◇
真行に気づいたのか、
「久しいな。お前が今の藤原家の当主か?」
とサタンが言った。声は低く、穏やかだった。口元にはかすかな笑みすら浮かんでいる。
「いいえ、次の当主です」
「そうか、それはよかったな。気づいているとは思うが、封印が弱まっている」
真行が壁の像を見上げると、亀裂が入っている。
「今の当主の仕事になるな」とサタンは付け加え、続けた。
「どうだ? 俺と契約しないか? 俺を解放したら、死ぬまで言うことを聞いてやる。その上、今の当主の命も助かるんだぜ」
「魅力的なお誘いですが、遠慮しておきましょう」
「ち! 藤原のものは、融通が利かない。で、お前は何しにここに来た。興味本位だけで来るところではなかろう」
「息子が、人間としては持つべきではないほどの力を身につけてしまった。その理由を知りたい」
「なるほど、じゃあ、それは神のご意思が働いていたってことだ」
「神のご意思とは?」
「さあな、神々の真のご意思を推し量ることなんてできないからな。天使はわからないまま神の命に従い、俺ら悪魔はわからないことに苛立ち、反逆を企てたからな」
「噂で聞いたのですが、『眠れる神』が目を覚ますと」
サタンの顔がわずかに引きつった。
「誰から聞いた? 天界のことを知ることは不可能なはず」
「ガブリエル様に」
「そうか。じゃあ、決定的だな。神々が何かを企てているのは」
「企てている何かを知りたいんだが、どうすればいいでしょうか?」
「先ほど言ったように、神々の真のご意思を推し量ることはできないからな。いや、待てよ。一人いるな」
「それは?」
「お前も聞いたことがある名前だ。神と仲が良くて賭けまでする悪魔……メフィストフェレスを。」
「なるほど」
「いいか、天使も、悪魔も、まして人間も神の手の平で踊らされているんだ。お前がここに来たのも神のご意思だと思え!」
「忠告、感謝します。いろいろご助言、ありがとうございます」と真行は静かに頭を下げた。
「まあ、神々の手の平でうまく立ち回ることだな。俺たち悪魔も本当は神々の側にいたかったんだけどな、今はそれはかなわない。まあ、そんなことを人間に言ってもしかたないんだがな」
サタンが寂しそうな顔をしていた。
真行はふたたび頭を下げ、その場を去ろうとした。
「まあ、がんばれ」という言葉に少し背を押された。




