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第16話 好きな子にバトンを渡す前にボクは狼になりかけた

秋晴れだった。


雲一つない空の下、グラウンドにはテントが並び、万国旗がはためいている。保護者席には父兄がひしめき、生徒たちの声援が空気を震わせていた。


真一は体操着に着替え、グラウンドの端にいた。吐きそうだった。


朝から何も食べられなかった。


――なぜこんなことになったんだ――


クラス対抗リレーの出番は午後一番。


このままではママが作ってくれた弁当も食べられそうにない。


午前中に参加した競技はいつもの「存在を消す」スキルを使用し、目立たずにすんだ。


だがリレーだけは逃げられない。全校生徒の前でクラスの代表として走るため、目立たないわけにはいかない。


あんな付け焼き刃の練習でうまくいくわけがない。きっと惨めなレースになり、クラスから批判を浴びるだろうし、きっと校舎裏に連れて行かれる。どんな目に遭うか考えただけで吐きそうだ。


ただ楽しみは一つだけあった。


――三崎愛理にバトンを渡す――


その一点だけが、真一をこの場に踏みとどまらせていた。


◇◆◇


結局、真一は弁当を食べられずに昼休みが終わった。


「続きまして、クラス対抗男女混合リレーを行います。各クラスの代表選手は、トラックに集合してください」


放送が流れた。


真一の心臓が跳ね上がった。


足がすくむ。でも動かなければならない。


スタートラインには、山本さんが立ち、その側で木下さんと三崎愛理が待機している。


スタートラインの反対側には、サトシ、ケンヤ、真一が並んで待っている。


男女それぞれトラックを半周走るのだ。


他のクラスの選手を見ると、運動部ではないとはいえ、明らかに体格のいい生徒が揃っている。うちのクラスの男子三人は、どう見ても見劣りした。


サトシもケンヤもうつむいている。


――どう見ても、結果は目に見えている。これから、この三人の公開処刑が始まるのだ――


サトシが重い足を引きずるように、第二走者として、トラックのラインに向かった。


ピストルが鳴った。


第一走者の山本さんは速かった。他のクラスの女子の中では一番だった。いきなり十メートルの差をつけた。


サトシにバトンを渡す。


ぎこちない受け渡しの間に、十メートルのリードは消えた。コーナーを曲がる頃にはすべてのクラスに抜かれていた。


第三走者の木下さんも頑張ったが、他のクラスの女子も速く、差を詰めることができない。


真一の走る番が近づいてくる。

喉は渇き、今にもはち切れそうな心臓の音が聞こえる。

それでも、トラックに向かわなければならない。


トラックのラインで待った。


他の走者が走り去っていく中、最後に木下さんからバトンを受け取った。


バトンはうまく受け取れたが、前の走者との差は開くばかりか、最終走者のトップにも抜かれた。


さらし者である。


三崎愛理まで、こんな無様な目に遭わせたくない。


――早く走るんだ――


でも体が追いついてこない。


――もっと速く――


そのとき、体の奥で何かが弾けたような気がした。


――体が熱い――


急に体が軽くなった。


前の走者との距離がみるみる短くなる。


振っている腕の甲に毛が生えてきているのが見えた。


なぜか、視界に鼻と口元が見えだした。


そのとき、靴が悲鳴をあげた気がした。


突如、右足の靴底が抜けた感覚に襲われた。


バランスを崩した。


次の瞬間、真一の目の前に地面が見え、顔を叩きつけられていた。


どよめきが聞こえたが、次第に遠くなっていく。


真一の意識は、そこで途切れた。


◇◆◇


見覚えのある天井が見え、消毒液の匂いがした。


気づけば、保健室のベッドで横になっていた。


いじめられてできた傷を、こけてできた傷と偽って、よく治療を受けに来た。


体中が痛い。膝と頬がひりひりする。


人の気配がして、顔を向けると、三崎愛理がいた。


「大丈夫?」


――なぜ、三崎愛理がいる――


「すごい転び方だったよ」


――三崎愛理が付き添ってくれたのか――


体操着姿の三崎愛理があまりに近くにいる。心配そうな顔でこちらを覗き込んでいるが、体操着があまりにも刺激的で目のやり場に困り、目を背けた。


記憶が戻ってきた。


――そうだ、リレーだ。リレーで思いっきりこけて――


「クラス対抗のリレーはどうなったの?」


「残念ながら、失格だったわ」


「ごめん。ボクのせいで……」


「仕方ないわよ。がんばったんだから」


三崎愛理の顔を見た。笑顔だった。


――癒される――


「迷惑をかけてしまったね。わざわざ保健室まで付き合ってくれて」


「いいのよ」


「もう大丈夫だから」と言って後悔した。もう少し側にいてほしいのが本音だった。


「そうだ、保健の先生を呼んでくるね」


そう言って、三崎愛理は去って行った。


まだ、体は痛かった。この後、クラスの連中にどんなことをいわれるか、また校舎の裏に呼ばれて何をされるか、考えるだけで怖くなるが、三崎愛理が側にいてくれた、この幸せな時間があれば乗り越えられる。真一はそう思った。


◇◆◇


悲鳴が聞こえた。


一つではない。いくつもの悲鳴が重なり合い、それを飲み込むような轟音が起きた。地面が揺れた。保健室の窓ガラスがびりびりと震える。棚から瓶が落ちて音がした。


真一はベッドから起きて、三崎愛理を探した。


三崎愛理と保健の女医が座り込んで抱き合っていた。


女医は立ち上がり、三崎愛理の体をそっと離して、「大丈夫よ。外の様子を見てくるから、二人ともここで待っているのよ」と告げて、自身も不安そうな顔をして廊下に出た。


その瞬間、女医ごと廊下が吹き飛んだ。


真一は爆風にあおられ、部屋の奥へ押しやられた。


保健室の壁が半分なくなり、外の空気が一気に流れ込んできた。粉塵が舞い上がり、視界を奪う。


「三崎さーん!」真一は叫んだ。


女子の咳き込む音が聞こえた。


音の方へ行くと、座り込んでいる三崎愛理がいた。


「大丈夫?」と聞くと、

「ええ」と答えた。


「立てる?」と腕を取り、彼女を抱き起こした。


三崎愛理の腕を引っ張りながら、廊下だった場所へと進み、外の様子を見る。


グラウンドには牛の頭。蜘蛛の胴体。八本の足の牛鬼が暴れていた。体育祭のテントを踏みつぶし、万国旗を引きちぎりながら、その化け物は咆哮した。


化け物は一匹ではなかった。


グラウンド以外にも、校舎の屋上。校舎の壁にもいる。


化け物たちは建物を壊しては、中を確認する。まるで何かを探しているようだった。


足が震えた。


三崎愛理を見ると、怯えた顔でじっと遠くを見ていた。


真一が彼女の視線の方向を見ると、校舎の屋上に、和服を着た老人が立っていた。白髪頭で、やせていた。


老人はじっとこちらを見て微笑んでいる。


三崎愛理が真一の腕を強く掴んだ。

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