第84話 次の穴
議事録に印がつく音で、傍聴席の私語が止んだ。ガイウスが顔を上げる。
「では、採決に入る」
「第一条。解釈の公開」
手が上がった。中央。地方。軍。数えるまでもなかった。
「全会一致。可決」
ざわめきは、起きなかった。反対する理由がない条は、静かに通る。
「第二条。地方分析官の設置」
議場の空気が、変わった。
「賛成の者」
私は、円卓を見た。まず、レオンハルトが手を上げた。続いて、中央側から三つ。四。ヴァルテン伯は上げなかった。彼の側から、三つが動かない。中央は、割れた。
そして、そこで議場が止まった。地方側の七人が、誰も手を上げていなかった。
長い沈黙。
私は、その沈黙の意味を理解していた。彼らは、待っている。
いつもなら、この議題については中央の解説が先に届いている。前の期も、その前の期も、そうだった。だが今回だけは、届いていない。
議案を出したのが私で、賛否を分けたのが中央自身だったからだ。誰も、彼らに何も教えていない。やがて。地方代表の一人が、立ち上がった。
三期続けて解説を申請していた、三領のうちの一つだった。痩せた、四十ほどの男だ。
「議長」
「なんだ」
「発言をお許しいただきたい」
「許す」
彼は、少し息を吸った。
「今日は、解説が届いておりません」
議場が静まる。
「この議題について、中央から何も言われておりません」
彼は、手元の紙を見た。配られた条文と、費用の表だった。
「ですので」
彼は言った。
「自分で読みました」
議場は、静かだった。
「三日、かかりました」
彼は続けた。
「私は、読むのが遅うございます」
「三日かけて、二つのことが分かりました」
「一つ。銀貨千八百枚は、うちの領でも出せます」
「二つ」
彼は顔を上げた。
「三日で読めたのなら、五年あれば、うちの若い者にも読めます」
彼は、手を上げた。議場が、どよめいた。続いて、二つ。さらに、二つ。地方から、五つ。軍が、一つ。
「賛成、十」
ガイウスが数える。
「反対、五」
沈黙。
「可決」
議場に、深い静けさが広がった。誰も歓声を上げない。私は、円卓の木目を見ていた。勝ったという感覚は、なかった。あの男が三日かけて読んだ、という一言の方が、ずっと重かった。
会議が終わる。人が静かに議場を出ていく。私は、最後に立ち上がった。回廊で、レオンハルトが待っていた。
「おめでとうございます」
彼は言った。社交ではない口調だった。
「第二条は、あなたに不利な条です」
私は言った。
「賛成なさった理由を、伺えますか」
「正しいからです」
即答だった。
「私は、あなたの制度に従っています。今日もそうです」
「一つ、伺います」
私は言った。
「辞職なさいますか」
彼は、少し驚いたようだった。
「なぜ」
「あなたの制度は、今日、修正されました」
「修正されただけです」
彼は言った。
「潰されてはいません」
そのとおりだった。解説は続く。配信も続く。彼の席も、そのままだ。私は、彼を罰する条文を一行も書かなかった。四年前、私が黒曜会にしたのと同じだった。構造は暴く。人は残す。
残った人は、次のやり方を探す。
「では、どうなさいますか」
私は聞いた。レオンハルトは、しばらく王都の灯りを見ていた。そして、静かに言った。
「では、次の穴を探します」
沈黙。
「今日の条文にも、必ずあります」
彼は続けた。
「任命は地方、育成は中央。この二つが分かれている以上、どこかに隙間ができます」
「見つけたら、どうなさいますか」
「使います」
「そして、私に見つけさせますか」
彼は、はっきりと笑った。
「そのつもりです」
私も、笑い返した。不思議と、嫌な気分ではなかった。
――制度は常に修正が必要です。
いつか私が言った言葉を、この男が実演している。
「レオンハルト殿」
「はい」
「五年後に、また伺います」
「お待ちしております」
彼は一礼して、回廊を歩いていった。窓の外で、鐘が鳴っている。条文は通った。
だが終わったのは、この一つの穴だけだった。
一つ塞げば、次の一つが見えてきます。




