第85話 恐怖なき市場
白曜宮・協議院議場。半年後の議事録に、初めてその欄が立った。
――中央の解釈と、地方分析官の読みが食い違った件。
北方の小鉱山領。鉄の出荷時期についての読みだった。中央は「据え置き」と書き、分析官は「二十日早める」と書いた。議場で読み上げられたのは、両方だった。結果は、中央が正しかった。
分析官の読みは外れた。損は出ていないが、外れは外れだ。議事録には、外れた読みがそのまま残った。ヴァルテン伯が、鼻を鳴らした。
「これが、あなたの言う目的か」
「はい」
私は答えた。
「今期の議事録に、読み違いが一件」
「来期は、二件になるかもしれません」
「増やしてどうする」
「増えているうちは、地方が読んでいるということです」
彼は何も言わず、書類をめくる。否定もしなかった。それが、この老人なりの返事だった。王都・中央記録院。セルマの机に、新しい束が積まれている。分析官のための教材だった。
最初の項が、担保と信用だった。私は目次をめくって、例題の欄で手を止めた。古い報告書の番号が、そこに引いてあった。十二年前の、受理番号。
「これは」
「良い例題ですので」
セルマは、顔を上げずに言った。
「間違いを含んでいますか」
「一行も」
「では、なぜ例題に」
「正しい報告が、どう扱われるかを学ぶ章です」
沈黙。私は、それ以上聞かなかった。彼女は筆を止めない。読まれなかった一枚が、これから毎年、読む者に読まれていく。構造を正す、というのは、たぶんそういうことだった。クラウゼン領。
丘の上の屋敷。任命書に、私は署名した。
――クラウゼン領 分析官見習い。
名前の欄に、リリアと書いてある。推挙は村からだった。三人で相談して決めたと書き添えてある。
「読むのは、遅いそうです」
マリアが言った。
「構いません」
私は封をした。数年前、税の話を聞かれて肩を震わせた少女が、国の数字を読む側に回る。早いか遅いかは、五年後に分かる。白曜宮・西塔の回廊。夜の王都は静かだった。市場の灯り。
街路の灯り。恐怖で動いている場所は、もうどこにもない。黒曜会は無く、危機も無く、誰も違法なことをしていない。それでも、この半年で均衡は一度買われかけた。
「終わったな」
背後から声がした。レオポルドだった。
「いいえ」
私は答えた。
「国家に終わりはありません」
彼は笑った。
「覚えている」
回廊の窓から、風が入る。
「戻るのか」
「はい」
私は言った。
「クラウゼンに、育てる者がおりますので」
「五年か」
「五年です」
沈黙。レオポルドは、王都の灯りを見ていた。
「君は、私が今日を動かしている間に、明日を作っていく」
「そういう役目です」
「厄介だな」
彼は言った。
「危険な女だ」
私は、口を開きかけた。その先の言葉は、決まっている。六年、同じように返してきた。だが、彼はそこで終わらなかった。
「だが」
静かな声だった。
「私はもう、君を制度としては数えられない」
長い沈黙。私は、答えを持っていなかった。いつもの言葉が、喉のところで止まっていた。言えば、この六年と同じ形で片がつく。片がつくと分かっていて、言えなかった。
レオポルドは、答えを待たなかった。
「気をつけて帰れ」
それだけ言って、彼は回廊を歩いていった。遠くで、鐘が鳴った。一人になってから、私は窓辺に立っていた。夜の王都は、静かだった。
四年前、白曜宮の大議場で、一人の男が三つのことを言った。市場は残る。資金は残る。そして危機も残る。私は今期、前の二つに答えを出した。市場は残った。独占は壊した。資金は残った。
流れは公開の場に置いた。だが、三つ目は空欄のままだ。危機は、来ていない。来ていないものに、制度は書けない。
――その時、君たちはどうする。
私は、その問いを胸の中で置き直した。答えは、まだ半分だ。窓の外で、王都の灯りが静かに広がっている。国家は今日も動いている。
そして、その設計図には、まだ空欄が一つ残っていた。
第二部「恐怖なき市場編」、これにて完結でございます。
第一部で公開を武器にしたエリスが、その公開に裁かれる話でした。
誰一人として違法なことをしていないのに、国家の均衡だけが静かに買われていく。
そういう負け方と、その直し方を書いてみたかったのです。
エリスがまだ答えていない問いが、一つだけ残っています。
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そのぶんだけ、この設計図に書き足せる欄が増えます。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。




