第81話 明日を設計する者
白曜宮・東塔の書庫。夜の書庫は、静かだった。議場とは違う。ここには政治の喧騒がない。古い法典。戦史。経済記録。そして、この数年で増えた棚がある。協議院の議事録だ。
もう、背表紙で三段を占めている。私は一冊を抜いた。
一番古い巻。暫定協議院の、最初の会議。出席者の欄に、いま議場にいない名前がいくつも並んでいる。
紙は、まだ新しかった。制度は、紙が古くなるより速く日常になる。日常になったものを、人は疑わない。
「まだ働いているのか」
後ろから声がした。振り向くと、レオポルドが立っている。
「読んでいるだけです」
「同じことだろう」
彼は隣の棚に手をかけた。しばらく、二人とも黙っていた。
「今日は、止めなかった」
やがて、彼が言った。
「はい」
「言い訳をしてもいいか」
「どうぞ」
「あの場で私が口を出せば、議場は王太子の裁定で終わる」
彼は言った。
「協議院は、それをやったら終わりだ」
「正しいご判断です」
「そう言うと思った」
私は議事録を棚に戻した。
「殿下」
「なんだ」
「私は、クラウゼンへ戻ります」
彼の手が、止まった。
「対案を持たずに議席にいるのは、椅子の無駄です」
「四千二百枚のことか」
「あれは、私の制度が出した損失です」
私は言った。
「公開すれば、地方は自分で読むようになる。私はそう設計しました」
「読まなかった領があった」
「読まなかったのではありません」
私は首を振った。
「読める人間が、いなかったのです」
「それは、君の落ち度ではない」
「私の落ち度です」
私は言った。
「読める人間を配らずに、数字だけを配りました」
レオポルドは、すぐには答えなかった。代わりに、棚から一冊を抜いた。背表紙も見ずに抜いていた。
「前にも、ここでこんな話をしたな」
「はい」
「政治家は今日を動かす」
彼は言った。
「だが君は、明日を設計している」
私は少し笑った。笑うつもりはなかったが、出てしまった。
「その明日が、今日に負けました」
「一度な」
「一度で足りる場合があります」
「戻るな」
彼が言った。私は顔を上げた。
「理由を伺えますか」
「協議院には、中央と地方の均衡が要る」
「代わりの者がおります」
「君の議席は、地方の側で最も読める者の席だ」
「ですから、読める者を増やせばよいのです」
「それには五年かかる」
「五年かけます」
沈黙。レオポルドは、本を棚に戻した。そして、しばらく何も言わなかった。
「今のは、嘘だ」
やがて、彼はそう言った。私は、彼を見た。
「均衡の話も、議席の話も、間違ってはいない」
彼は続けた。
「だが、それは後から付けた」
「私は、国家のために君を止めたのではない」
長い沈黙。書庫の窓から、王都の灯りが見えている。市場の灯り。議会の灯り。そのすべてが、いつもどおりに繋がっていた。私は、何か言うべきだと思った。いつもなら、言葉はすぐに出る。
数字の話でも、制度の話でも、退路を残す言い方でも。だが、今日は出なかった。
「……失礼します」
私は、それだけ言った。彼は引き止めなかった。引き止めないことが、たぶん彼の礼儀だった。一人になった書庫で、私は棚の前に立ったままでいた。理由もなく、一番下の段を見た。
古い綴じの一冊があった。財政透明化法案。可決前の、審議記録。抜いて開くと、私の陳述が残っていた。若い書き方だった。
――数字を共有しない改革は、独裁と同じです。
そのとおりだ。私は、そう信じてやってきた。だから帳簿を公開した。だから国家の監査を公開した。だから、この国は壊れずに済んだ。私は、その一行を長く見ていた。そして、気づいた。
共有したのは、数字だけだった。読み方は、共有していない。私はその頁を閉じ、灯りを取って階段へ向かった。
対案の一行が、ようやく形になりかけていた。
その一行に何を書けば議場が動くのか、まだ決まっていません。




