第8話 三日で洗い出します
夜明け前の領主館は、静まり返っていた。
窓の外はまだ薄暗く、街も眠っている。だが執務室だけは違った。机の上には帳簿、報告書、地図が並び、床には新たに持ち込まれた資料の箱が積まれている。灯りの油を足したのは、もう三度目だった。
「……これで、全部ですね」
マリアが、少し疲れた声で言った。
「はい」
「倉庫、税務、農政、警備……主要部署は揃いました」
私は頷き、椅子から立ち上がった。
「ありがとうございます。ここからは、私がやります」
「ですが……」
「大丈夫です」
マリアの言葉を遮り、穏やかに告げる。
「ここまでは、準備ですから」
彼女は一瞬戸惑ったが、やがて小さく微笑んだ。
「……分かりました。外で待機しています」
扉が閉まり、執務室には私一人が残された。
私は机に向かい、紙を一枚取り出す。白紙。だが、ここから先は、全てがここに書き込まれる。
まず、歳入。次に、歳出。それぞれを項目ごとに分解し、線を引く。
「……やっぱり」
数字は、容赦ない。無駄、不正、放置。どれも、想定より深い。
だが、同時に――可能性も見える。
水路を直せば、農地は戻る。人を適切に配置すれば、業務は回る。中抜きを止めれば、予算は足りる。
問題は複雑ではない。複雑にしていたのは、人間だ。分かりにくくしておけば、誰も確かめに来ない。そのことを知っている人間が、この帳簿を作った。
私は、ペンを走らせ続けた。時間の感覚が、薄れていく。
――どれくらい経っただろうか。
ノックの音で、顔を上げた。
「失礼します」
入ってきたのは、ハインツだった。手には、新しい地図を持っている。
「現地の水路です」
「想定より、修繕箇所が多い」
「把握しています」
私は即答した。
「ですが、全てを直す必要はありません」
「まずは、要所だけでいい」
ハインツは、目を見開いた。
「……なるほど」
「無駄を止めるのと同じです」
「全部を良くしようとすると、何もできません」
彼は、静かに頷いた。
「……領主様は」
「エリスで結構です」
「……エリス様は、本当に怖いお方だ」
「そうですか?」
「ええ」
「だが――頼もしい」
その言葉に、私は小さく微笑んだ。
朝。太陽が昇る頃、大広間に主要役人を集めた。
昨日より、人数が多い。噂を聞きつけた者たちだ。
私は、壇上に立ち、はっきりと告げる。
「三日で、この領地の無駄を洗い出します」
ざわめき。
「不正、重複、形骸化」
「全てです」
「三日後、再びここに集まってください」
「その時、続投できる者と、そうでない者が決まります」
誰かが、喉を鳴らした。三日という区切りが、脅しではなく作業日程として言われたことに気づいたのだろう。
「勘違いしないでください」
私は、視線を巡らせる。
「これは、粛清ではありません」
「再建のための、最低条件です」
沈黙。
「誠実に働いている方は、何も恐れる必要はありません」
「問題があるなら、今のうちに正直に言ってください」
一瞬の間。そして、数名が、ゆっくりと頭を下げた。
「……分かりました」
「従います」
それを見て、私は内心で頷いた。
――十分だ。
会合が終わり、人々が散っていく。廊下で、マリアが駆け寄ってきた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ」
私は、迷いなく答えた。
「ここからですから」
窓の外では、街が目を覚まし始めている。荷車が通り、戸が開き、誰かが誰かを呼んでいる。昨日より少しだけ活気があるように見えたのは、たぶん私の願望も混ざっている。
私は、最後に一文を書き加えた。
――三日後、改革は不可逆になる。
ペンを置き、深く息を吸う。下ごしらえは、これで終わりだ。
ここから先は――本当の意味での、領地改革が始まる。
最初に切るものが決まると、誰が困るのかも決まります。




