第78話 買われた均衡
白曜宮・中央監査室。夜が深い。窓の外の灯りは、もう三分の一に減っている。レオンハルト・ヴェルナーは、机に一枚の紙を置いた。領の名が七つ。縦に並んでいる。その横に、三つの欄。
第一期。第二期。第三期。彼は筆を取り、印を打っていった。打たれた印は、解説の申請が出た期を意味する。三つとも埋まった領が、三つ。一つも埋まらない領が、二つ。残りが、二つ。
「まだ残っておられるのですか」
若い書記が、茶を置きながら言った。
「数えている」
「何を、でしょう」
レオンハルトは、紙から目を離さずに答えた。
「信用だ」
書記は、意味が分からないという顔をした。無理もない。彼は説明を足さなかった。代わりに、別の紙を引き寄せる。そこには、協議院の票の数が書いてある。
中央官僚、七。地方代表、七。軍、一。
合わせて十五。過半数は、八。彼は三つ印の付いた領の名を、指で押さえた。七に、三を足す。十。八を、二つ超えている。
「あの」
書記が、思い切ったように言った。
「これは、買収ではないのですか」
レオンハルトは、紙から顔を上げた。そして、静かに聞き返した。
「金は、いくら動いた」
「……存じません」
「一銭も動いていない」
彼は紙を揃える。
「私は誰にも票を頼んでいない。頼めば違法だからだ」
「では、なぜ」
「頼まなくても、同じ結果になるからだ」
沈黙。
「地方は、正しい助言を受け取っている」
彼は続けた。
「受け取った側が、次も同じ判断を選ぶ。それだけだ」
「……それは、自由な判断ですか」
「自由だ」
即答だった。
「明日、三つの領のどれかが私に逆らっても、罰は一つも用意されていない」
書記は、しばらく黙っていた。
「それでも、逆らわないのですね」
「逆らう理由がない」
レオンハルトは筆を置いた。
「制度とは、理由の設計だ。理由がなければ、人は動かない」
彼は椅子の背にもたれた。疲れていた。だが、それは仕事の疲れであって、後ろめたさの疲れではなかった。彼は自分の帳簿を知っている。家は買っていない。爵位も断った。
地方から届いた贈り物は、すべて記録院へ回して開けていない。それが監査官の作法だからだ。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
書記が言う。
「なぜ、そこまでなさるのですか」
長い沈黙。
「十四年前だ」
やがて、彼は言った。
「北の小さな村が、冬に消えた」
書記が息を呑む。
「戦ではない。飢饉でもない」
彼は窓の外を見た。
「中央が備蓄の放出を決めるまでに、二十二日かかった」
「……それは」
「判断が遅れただけだ」
彼の声は平坦だった。
「誰も罪を犯していない。全員が、規定どおりに書類を回した」
沈黙。
「私は、その二十二日を数える側にいた」
書記は、何も言えなかった。
「速く、正しく決められる者が決める」
レオンハルトは言った。
「それが、国家が壊れにくいということだ」
彼は立ち上がり、書棚の前に立った。古い法典が並んでいる。背表紙の一冊に、彼と同じ姓が入っていた。彼はその背に指を掛け、少しだけ手を止めた。そして、抜かずに離した。
書記は、それに気づかなかった。気づいていたとしても、聞かなかっただろう。この宮で、その問いを口にする者はいない。
「明日の議題は」
彼は席に戻った。
「クラウゼン領主からの動議です」
「内容は」
「まだ提出されていません」
レオンハルトは、少しだけ笑った。初めて見せた表情だった。
「出るよ」
「ご存じなのですか」
「あの方は、必ず対案を出す」
彼は机の上の紙を、引き出しにしまった。
「私が困るとすれば、そこだけだ」
灯りを一つ落とす。部屋が、半分暗くなった。
「では、出させないのですか」
書記が聞いた。
「いや」
レオンハルトは、扉に手をかけた。
「出させる」
「なぜですか」
「対案が出て、それでも私の側が勝つなら」
扉が開く。
「この制度は、そのとき完成する」
王国の外にも、同じ数字を読んでいる人がいます。
――誰も違法なことをしていないのに崩れていく怖さが伝わった方、評価で教えてください。




