第76話 構造を正す者
王都・中央記録院。白曜宮の裏手にある、低く長い建物だった。窓が小さい。紙を焼かないためだと聞いたことがある。廊下は冷えていて、足音がよく響いた。奥の一室に、彼女はいた。
机の上に帳簿が三十冊。両側に紙束。床にも、崩れないように高さを揃えて積んである。
その真ん中で、セルマ・グレイナーが筆を動かしている。背は少し伸びた。声も、たぶん低くなっている。だが、姿勢は同じだった。
「お久しぶりです」
彼女は顔を上げずに言った。
「気づいていましたか」
「足音で」
セルマは筆を置いた。
「クラウゼンの方は、歩き方が速いので」
私は少し笑った。
「読んでほしいものがあります」
「配信制度の件でしたら」
彼女は淡々と言った。
「もう読みました」
紙の束が、私の前に置かれた。数字と矢印。流れ。受け手。時期。見覚えのある書き方だった。あの日、王都銀行の資金循環構造を一枚に落としたときと同じ手だ。
「結論から申し上げます」
セルマは言った。
「あの方は、情報を独占していません」
「ええ」
「独占されるように、置いているだけです」
私は紙を手に取った。
「順に説明します」
彼女の指が、矢印をたどる。
「公開された数字は、誰でも取れます。ここまでは、完全に公平です」
「ええ」
「ですが、読むには時間と人が要ります」
「そうですね」
「地方に、その人はいません」
指が止まる。
「読めない者に数字を渡すと、その者は読める者に尋ねます」
「当然です」
「尋ねられた側は、答えます。無償で、正確に」
彼女は顔を上げた。
「三度も正しく答えれば、四度目からは、尋ねる前に従います」
私は、その三度という数を頭の中で置き直した。裏切りではない。怠慢でもない。正しい答えを三度受け取った人間が、四度目に自分で計算し直すというのは、むしろ不自然な行いだ。
制度は、その不自然さを要求できない。セルマは、紙の端を指で揃えた。
「これは、信用の構造です」
セルマは言った。
「王都銀行と同じ形です。銀行は金を貸します。あの方は、読み方を貸しています」
「担保は」
「判断です」
私は紙を置いた。背筋が、少し冷えていた。
「公開は、正しかったのですか」
「正しいです」
セルマは即答した。
「ですが、公開しただけでは、独占は止まりません」
「なぜ」
「読む力が偏っていれば、公開されるほど、差は開くからです」
沈黙。
――透明性は、独占を生む。
言葉にすると、そうなる。私が国家に与えた最大の武器が、そのまま手順書になっていた。
「セルマ」
「はい」
「一つ、伺ってもよいですか」
彼女は、紙を揃える手を止めなかった。
「どうぞ」
「あなたは、なぜ記録院にいるのですか」
手が、止まった。
長い沈黙。
やがて彼女は、乾いた声で言った。
「父が、王都銀行の査定役でした」
私は黙って聞いた。
「十二年前、父は一枚の報告を出しました」
「内容は」
「辺境の税収予測を信用の裏付けに使うのは誤りである、と」
「その報告は、握り潰されましたか」
「いいえ」
セルマは首を振った。
「受理されました。番号も振られました。書庫に、今も残っています」
「では」
「誰も、読まなかっただけです」
彼女は、筆を置いた。
「父は記録室へ移されて、三年後に病で死にました」
彼女の声は、少しも震えなかった。
「私は十四で、同じ銀行に記録係として入りました」
「報告書を読むためですか」
「はい」
「読んで、どうでした」
「正しかったです」
セルマは、初めてこちらを見た。
「一行の誤りもありませんでした」
長い沈黙。
「それで、辞めました」
「なぜ」
「正しさは、読まれなければ、無いのと同じだと分かったからです」
私は、何も言えなかった。言葉が、まっすぐ第九条に届いていたからだ。
「復讐ではないのですね」
私は、いつか聞いたのと同じことを聞いた。
「いいえ」
彼女も、いつかと同じように答えた。
「構造を正しているだけです」
だが今日は、その先があった。
「ですから」
セルマは紙束を私の方へ押した。
「読める者を増やす以外に、直し方はありません」
私はその束を受け取った。窓の小さな部屋に、紙の匂いだけが残っている。
――読める者を、増やす。
言うのは簡単だ。だが次の協議院で、それを条文にしなければならない。
私はまだ、その一行を持っていなかった。
次に向き合うのは、同じ言葉を使う相手です。
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