第73話 助言される村
クラウゼン領。領都から少し離れた集落。石と木の家が並んでいる。壁のひびは埋められ、屋根はどれも新しい。畑に、耕されていない区画はもうない。私は馬車を降りて、水路の縁を歩いた。
水は音を立てて流れている。あの年、要所を一本だけ直した水路だ。
「お待ちしておりました」
声がした。畑の端に、若い女が立っている。背は伸びた。手は、相変わらず日に焼けている。だが、握っているのは鍬ではなかった。帳面だった。
「リリア」
「はい」
彼女は、はにかむように笑った。
「以前は、籠をお持ちしました」
「覚えています」
「今日は、こちらです」
差し出された帳面を、私は受け取った。
用水の割り当て。作付けの区画。戸ごとの収穫量。
すべて、彼女の字だった。数字は揃っていて、修正の跡が正直に残っている。
「よく書けています」
「村の皆で、つけています」
リリアは言った。
「読める者が三人になりました」
私は、その一言を短く胸に置いた。
――読める者が、三人。
数年前、この村に読める者は一人もいなかった。
「それで」
私は帳面を閉じる。
「困っていることは」
リリアは、言葉を探すような間を置いた。
「困っている、というほどではないのですが」
「言ってください」
「隣の領の、貸付のことです」
集落の集会所。板の机に、写しが広げられた。隣領が今年借りた農業資金の条件だ。
利率。返済の期間。担保の扱い。
私は三度読んだ。
「……安いですね」
マリアが言う。
「ええ」
安い。それも、少しではない。うちの領が同じ時期に組んだ条件より、明確に良い。
「不正ですか」
「いいえ」
私は即答した。
「どこにも違法な点はありません」
条件そのものは、公開されている枠の中にある。誰でも申請できる。問題は、条件ではない。時期だった。隣領がその借入を決めたのは、春の初め。麦の買い上げ価格が動く、二か月前だ。
「なぜ、二か月前に動けたのですか」
私はリリアを見た。彼女は少し口ごもってから、答えた。
「王都から、助言をもらったそうです」
沈黙。
「助言」
「配信されてきた数字に、解説が付いていたと」
長い沈黙。
「うちには」
マリアが言う。
「同じ数字が、同じ日に届いています」
「ええ」
私は答えた。数字は届いている。一枚も欠けていない。隠されてもいない。届かなかったのは、解説だ。
「うちは、申請していないからです」
私は言った。第九条。
――配信には、必要に応じて中央による解説を付す。
必要に応じて。その必要は、受け取る側が申し出ることになっている。クラウゼンは、申し出ていない。自分で読めるからだ。
「……つまり」
マリアの声が、わずかに硬くなる。
「自分で読める領ほど、遅れるということですか」
私は答えなかった。答えは、机の上の写しに書いてある。窓の外で、風が麦を鳴らしている。リリアが、遠慮がちに口を開いた。
「あの」
「はい」
「村でも、解説をもらった方がよいのでしょうか」
私は、彼女の帳面をもう一度見た。揃った数字。正直な修正の跡。三人になった、読める者。この帳面は、誰かに教わって作られたものではない。村が、自分で作った。
もらった方が速い、と言えば、彼女は明日にでも申請するだろう。そしてこの帳面は、少しずつ薄くなる。
「今は、答えを持っていません」
私はそう言った。嘘をつくよりは、ましだと思った。リリアは頷いて、それ以上は聞かなかった。その夜。領主館の執務室。私は隣領の条件表と、配信された数字を並べた。
一枚ずつ、突き合わせていく。数字は嘘をつかない。だから、二時間で分かった。隣領が得た条件は、この数字の束から正しく導ける。導けるのだ。誰でも。読み切れさえすれば。
私は、ペンを置いた。公開は、正しかった。正しかったのに、差がついている。
――ならば、差をつけたのは公開ではない。
私は白紙を一枚引き寄せて、そこに一行だけ書いた。
誰が、読めているのか。
その問いを、次は数字のほうから追いかけます。




